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503・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/20(日) 17:32
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/isiikoki09.htm
 1932(昭和7)年、昭和維新を掲げて元日銀総裁の井上準之助と三井合名会社理事長の團琢磨を
殺害した血盟団事件に連座した四元は、服役中に「組繊には核心があり、会社には社長、国には
首相がいる。どんな組織でも、その一人の決断と指導力の出来、不出来で栄えもし、滅びもする」と考え、
出獄後、近衛文麿、鈴木貫太郎両首相の秘書をつとめた。戦後も吉田、池田、佐藤各氏ら歴代首相の
知遇を得た。 戦後歴代内閣と深く関係し、安岡正篤らとともに元首相・中曽根康弘の陰の指南役とも
言われた。中曽根氏は著書で、四元義隆氏(93)という人物を「政治相談役」としている。中曽根氏は
首相になる10年余り前から四元氏のもとへ通い、首相在任中は官邸にも招いた。
 日比谷で幣原内閣打倒を叫ぶ7万人集会が開かれ、鳩山一郎が右翼の児玉誉士夫と組んで反共演説
をぶつという、全土騒乱の時代であった。この時代に、幣原内閣の秘書をつとめていたのが、数々の
週刊誌で「東京二信用組合救済計画を仕組んだ男」と噂されてきた右翼の政商・四元義隆であった。
 四元は、三幸建設工業を経営する社長として、政財界に隠然たる勢力をもつ大物右翼とされてきたが、
鈴木進とは戦前からの知り合いで、鈴木進・紳介親子が経営する安全信用組合の理事にも就任していた。
それは、安全信用組合が、創業時から三菱財閥によって経営されてきた金融機関だったからである。
つまり、幣原喜重郎の妻は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の娘であった。
 まず三菱財閥の岩崎家があり、その娘ムコ・幣原喜重郎の秘書が、のちの政商・四元義隆であった。
そのため、四元が三菱財閥の安全信用組合の理事に就任した。また、幣原喜重郎の息子の姪が、
鈴木紳介と結婚したため、鈴木が理事長となって、高橋治則と共に95年に逮捕されることになったのである。

 「、、、電力会社は、平岩外四が電事連の会長をつとめた時代に、電気料金の甘い利益だけを吸い
あげようとする無責任な企業方針を推進することになった。
 平岩外四は、泉井事件では石油公団の顧問やアラビア石油の監査役として暗躍している。また
東京二信組破綻事件では、右翼の政商・四元義隆と密談してイ・アイ・イ高橋治則の救済に暗躍したと
噂された通り、表の顔とは別に、明らかにいま述べた三菱軍事財閥の小番頭役をつとめ、院政を
とりながら日本の裏の世界で動いてきた。、、、」
「日本最大の官僚組織・電力会社と軍需工場・三菱重工・広瀬隆著」


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