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493・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/04(金) 23:53
オウム事件の解けない謎 By STRANGELOVE
http://www.mailux.com/mm_bno_dsp.php?mm_id=MM3D384F43742FA&bno=20040227125545
 オウム真理教の元代表、麻原彰晃(本名:松本智津夫)の判決公判あるということで、マスメディアは
朝からお祭り騒ぎである。が、浮かれているだけ。警察/検察の公式シナリオには少なからぬ疑問が
あるのだが、マスメディアは全面的にそのシナリオを受け入れているようだ。
 中でも、最大の謎は「誰がサリンを製造したのか?」ということ。化学薬品製造の素人がサリン製造の
プラントを建設できるとは到底、信じられない。単純な化学薬品合成のプラントでさえ、大学/大学院を
卒業したばかりの人間が設計することは困難である。ましてサリンなど・・・。少なくとも、化学兵器の
製造に関する実践的な知識を持つ人物がいなければ、サリンなど作れない。
 逆に言えば、化学兵器の製造に精通している人物なら、サリンを合成することは可能だということでも
ある。実際、ある人物の暗殺にサリンが使われそうになったことがある。
 1970年9月、南米チリの大統領選挙で社会党の党首だったサルバドール・アジェンデが当選した。
この選挙結果に激怒したアメリカのリチャード・ニクソン政権はアジェンデ政権転覆を目的とする秘密工作を
スタートさせた。総責任者はヘンリー/キッシンジャー。この秘密工作の存在を知っていたのは、
情報機関の内部でもごく限られた人物だけだった。
 最大の問題は、チリ軍の参謀総長が憲法を尊重するという態度をとっていたこと。たとえ左翼政権で
あっても、合法的に誕生した以上、忠誠を誓うとしていたのだ。その参謀総長が襲撃され、死亡したのは
1970年10月のことだった。襲撃に利用された武器はアメリカ政府から提供された物だったが、襲撃の
1週間前にクーデター計画は中止したとキッシンジャーは弁明している。
 1973年9月、アウグスト・ピノチェトを中心とするグループがクーデターを成功させ、ピノチェトは殺害
されたが、左翼政権の一部閣僚は生き延びて欧米諸国に亡命した。そのひとり、オルランド・レテリエール
がアメリカの首都、ワシントンで暗殺されたのは1976年9月のこと。車に爆弾が仕掛けられていたのだが、
当初の計画では、シャネルの香水瓶に仕込んだサリンが使われる予定だった。
 このサリンを製造したのは、チリの科学者ユージニオ・ベリオス。ピノチェト体制が終わり、法廷で証言
しなければならない状況になったベリオスは1992年に逃走するが、1995年4月に死体が発見された。
殺害時期は1993年3月頃だと推測されている。


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