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・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/01/28(水) 05:24
518 :資料屋・御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/08/20 23:00
経世会設立時から竹下登の悲劇は始まった。
最初、創生会で旗揚げしようとするが、右翼団体が選管に届けを出してしまっていた。
しかたなく経世会と名称変更する。そしてホメ殺し戦法の竹下攻撃、恐らく田中軍団の
二階○進あたりの差し金と噂される。
竹下と白神英雄との義兄弟盃の三人の立会人は白神組組員といわれるが、ひとりだけ
名前は公表されている。笠原幸男という人物であり、あとはU・Iと伏せてある。
【ほめ殺し事件の裏事情】小説・佐川疑獄 大下英治 より抜粋
昭和30年代、立会人三人の元、竹下登は白神英雄と義兄弟の盃を交わす。
「日本皇民党」四国高松に居を構え総裁・稲本虎翁は昭和47年まで白神組若頭であった。
命名は関西の重鎮・畑時夫民論会会長。稲本と宅見とは兄弟分。
昭和60年、竹下の地元・島根県に右翼団体「尊皇義塾仁義社」が結成された。
社長の安藤三蔵と稲本虎翁は義兄弟の間柄であった。
結成の年の5月、日教組に爆弾を送りつけた首謀者として県警からマークされる。
(この時の爆弾の教本は一水会の鈴木邦夫が書いた「腹腹時計と狼」と言われる)
9月、安藤は謎のピストル自殺をとげる。
安藤は刑務所の中で税理士の免許をとった人物で、竹下の地元対策に力を貸していた。
自殺したのち、竹下から安藤の家族に対し何の支援もなされなかった。
それを知った稲本が激怒し、行動を開始したと噂された。
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