[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
ログ保存
340
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/01/20(火) 01:26
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no9.htm
日本海軍は軍艦「金剛」の製造先として、独シーメンス社と英ウイッカース社2社と交渉していたが、
賄賂合戦がエスカレートし、その過程でもう一方のウイッカース社代理店三井物産が海軍の艦政本部長
松本和海軍中将へ6回にわたって40万9800円の賄賂を贈っていた。松本はこの金を知人から借りたと
シラを切っていたが、検察当局が三井物産の帳簿を調べていたら、「機密費」という文字が小刀で削られ
「仮払い」となり、さらに松本の知人に「貸与」と改ざんされていたことが突き止められ、懲役3年の刑を
受けている。この辺りは先に挙げた『検察読本』、松本清張監修『明治100大事件』に詳しい。
●8.15関係メモはトイレへ
もう一つ例を挙げれば、1945(昭和20)年8月15日のいわゆる玉音放送の後、市ヶ谷付近をはじめ
軍関係の施設のあったところでは機密文書を焼く煙が何日も立ち昇っていたという。占領軍が進駐する
までに戦争犯罪につながる文書はすべて処分するように軍の末端まで指示が行き届いていた。敗戦当時、
情報局総裁で昭和天皇に玉音放送を進言した一人といわれている下村海南は、『終戦秘史』の元に
なった『終戦記』で次のように書いている。
「閣議には速記もなく記録もない。…数知れぬ閣議を通じ、私はいつもメモをとりつづけ、昭和20年春より
夏にわたる鈴木(貫太郎)内閣の閣議を中心とした記録を残すことが出来た。」
その下村海南にこんなエピソードが残っている。それは、玉音放送の録音が終わって帰る途中、
反乱軍兵士に捕まり二重橋近くの詰め所に監禁されていたときのことだ。持っていた風呂敷包みから紙を
一枚一枚取り出して細かく破いてそれを持ってトイレに行ったという。その場にいた山岸重孝内閣情報局
放送課長は「開放されてから伺いましたら、…破いた紙は自分が陛下にお話申し上げた内容を書いた
もので、軍部の連中に見つかったら、陛下にご迷惑がかかるということを恐れて破いたんだと言って
いました。」(『放送文化』1968.8)と思い出話を披露している。
また、昭和天皇の側近だった『木戸幸一日記』も貴重な資料だが、その木戸も反乱軍兵士が皇居に
乱入したとき、身を隠す前に書類を破りトイレへ捨てている。したがって、下村といい木戸といい、
8.15前後の記述は記憶に頼るほかなかった。そうした事情もあって敗戦当時の正確な記録は少なく、
肝心なところで間違ったりあいまいなままになったりしている例が多い。たとえば、終戦詔書の原文の
筆者は誰なのか、必ずしも明確になっていない。閣議は迫水久常内閣書記官長に作成を一任し、
天皇陛下の発言にもとづいて迫水が下書きをしたとされているのだが、字句の表現を含めて執筆に
木原通雄(元新聞記者)、川田瑞穂(漢学者)、安岡正篤(陽明学者)がかかわっているといわれ、原文の
筆者として迫水説と川田説とがある。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板