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雑学メモスレッド
1
:
鎌やん
:2002/07/02(火) 11:43
教養とは云えない程度の、知識の断片メモを貼ってみるスレッド
133
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/07/12(月) 17:54
第4次中東戦争
1970年代にはいると、新しくエジプト大統領となったサーダートは、ゆきづまる和平交渉を打開するために、
軍事的優位をうちたてて政治的解決をはかろうと、シリア、ヨルダンとの協力をととのえた。そして73年10月、
エジプト軍はスエズ渡河作戦を実施し、シリア軍はゴラン高原での戦闘を開始した。アラブ諸国は両軍への
支援部隊を派遣し、緊急財政援助をおこなった。同時に、石油価格の引き上げや生産削減という石油戦略
を展開した。いわゆる世界経済に大きな影響をあたえたオイルショック(石油危機)である。一方、ふいを
つかれて劣勢だったイスラエル軍に対してアメリカは外交、軍事両面から支援を開始した。
国連安保理は戦闘の即時停止をよびかけ、1974年1月18日、エジプトとイスラエルは兵力分離協定に
調印した。イスラエルはスエズ西岸から軍を撤退させ、エジプトはとりもどしたシナイ半島の一部をそのまま
おさえた。イスラエルとシリアとの兵力分離協定では、シリアがゴラン高原の町、クネイトラを奪還した。
アラブ側はこの戦争を十月戦争あるいはラマダーン戦争、イスラエルはヨーム・キップール(贖罪(しょくざい)
の日)とよぶ。
この戦争でエジプトはスエズ運河をとりもどし、運河の通航を再開させ、またPLOがパレスチナの合法的
代表となった。エジプトはこの勝利によって自信を回復したが、かつてのアラブの連帯の道ではなく、独自
の路線をあゆみはじめた。それは1978年のキャンプ・デービッド合意にみられるイスラエルとの単独和平へ
の道であった。93年にはPLO、94年にはヨルダンがイスラエルとの和平条約に調印、中東戦争はようやく
過去のものになりつつある。
"中東戦争" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
134
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:2004/07/12(月) 18:09
赤潮 Red Tide
プランクトンが急に大増殖して海水の色がかわる現象をいう。赤くなることが多いが、原因となる
プランクトンによって緑色や褐色、黄色になることもある。色に関係なく赤潮とよび、青潮、厄水、
苦潮(にがしお)などともよばれる。また、湖沼やダムなどの淡水でおこる同様な現象は、淡水赤潮
あるいは水の華とよばれる。
定義と発生原因
赤潮をつくるプランクトンは種類が多く、珪藻類、藍藻類、渦鞭毛藻類、ラフィド藻類などがあるが、
その大部分は植物プランクトンである。赤潮と判断される基準はだいたい、細胞の大きさ(直径)が30μm
(マイクロメートル:1μmは100万分の1m)のプランクトンではその細胞密度が約1000個/ミリリットル以上に
達し、クロロフィルa 濃度が約 50μg/ミリリットル以上とされている。
赤潮は富栄養化がすすみ、水の循環がわるい沿岸海域や内湾で発生することが多く、複数の要因による
複合的な作用によると考えられている。その要因として富栄養化、水温の上昇、水の上下の対流の減少、
水の停滞、降雨などが知られている。
赤潮による被害
赤潮はときには大きな漁業被害をもたらす。赤潮プランクトンが高濃度に増殖すれば、魚の鰓(えら)に
つまり、魚を窒息死させる。また、渦鞭毛藻類やラフィド藻類などは有毒物質を分泌し、魚介類を死滅させる。
また大量発生したプランクトンが死滅分解する際に急激に酸素を消費し、魚介類が酸素不足となり窒息死
することもある。
日本でも沿岸地域の富栄養化の進行とともに赤潮の発生が各地で報告されるようになり、とくに1970年代
からは急増し、漁業被害があいついだ。日本最大の赤潮による漁業被害は72年夏に播磨灘で生じ、
1400万匹以上の養殖ハマチが死滅し、社会問題化した。
赤潮の発生件数はその後、水質の改善や漁業被害の防止技術の改善などにより減少傾向にあるが、
東京湾や瀬戸内海など閉鎖性の強い内湾では、依然として慢性的な赤潮がつづいている。世界的にも、
赤潮による漁業被害は増加しつづけており、養殖魚の赤潮の被害はヨーロッパやニュージーランド、チリ
などでも大きな問題となっている。
"赤潮" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:11
経済水域 Exclusive Economic Zone
国連海洋法の条約にもりこまれている正式名称は、排他的経済水域。一般には漁業専管水域ともいう。
領海(幅12海里)の外側にあって、海岸の基線からはかって200海里までの距離内で設定される水域。
資源利用その他の経済活動の面では沿岸国の領海と同じで、航行、上空飛行、国際コミュニケーションの
面では公海と同じ性格をもつ。1982年の国連海洋法条約(海洋法に関する国際連合条約)によって制度化
された。
沿岸国の権利と義務
国連海洋法は56条で、この水域における沿岸国の権利をさだめている。
(1)海底の上部水域ならびに海底およびその下の天然資源(生物か非生物かは問わない)の探査、開発、
保存、管理のための主権的権利、ならびに、海水、海流および風からのエネルギーの生産など、経済的な
目的でおこなわれる探査と開発の活動に関する主権的権利。
(2)人工島、施設および構築物の設置と利用、海洋の科学的調査、海洋環境の保護と保全についての
管轄権。
(3)同条約にさだめるその他の権利。
また、沿岸国は排他的経済水域において、生物資源の保存と最適利用を促進する義務をおう。そのため
沿岸国は水域における漁獲可能量を決定し、自国がその漁獲可能量を達成できないときには、他国に
漁業協定にもとづいて余剰分を獲得する機会をあたえなければならない。
他国の権利と義務
沿岸国以外の国は、同水域において、航行および上空飛行の自由、海底電線や海底パイプライン敷設の
自由を、公海の場合と同様に享受する。また漁獲をみとめられた他国民は、入漁料、漁獲割当量、漁業規制
など沿岸国のさだめる条件を遵守する。
その他、船舶衝突、海賊行為、臨検、継続追跡権などについては、公海上の制度がそのまま適用される。
"経済水域" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:15
公海
せまい領海、ひろい公海という考え方にもとづく二元的法制度を基調とした伝統的国際法では、公海とは
国家の領海または内水をのぞいた海洋一般をさすものとされてきた。
しかし、1982年の国連海洋法条約は、新たに群島国家に対し、その主権のもとにおかれる群島水域の
設定をみとめ、さらに沿岸国に対して、領海の基線から測定して200カイリまでの距離内に沿岸国の資源に
対する管轄権がおよぶ排他的経済水域の設定をみとめた。したがって、今日でいう公海は、内水や領海の
ほか、群島水域や排他的経済水域にふくまれない海洋一般をさすものであり、その範囲は大幅に
せばめられた。
公海には、公海自由の原則が適用される。この原則は、15世紀末の「地理上の発見」の後、スペインと
ポルトガルによる海洋領有の主張に対して、当時の新興国イギリスやオランダなどが海洋自由を主張し、
以来しだいに確立されてきたものである。したがって公海自由の原則は、いかなる国も公海をその主権の
もとにおくことはできないという「帰属からの自由」を第1の内容としている。すべての国はその帰結として、
他国の同様な利益に妥当な考慮をはらったうえで自由に公海を使用することができる。これが「使用の自由」
という公海自由の原則の第2の内容である。そうした自由の中には、とくに、航行の自由、上空飛行の自由、
海底電線および海底パイプライン敷設の自由、人工島その他の設備を建設する自由、漁獲の自由、
科学的調査の自由がふくまれている。
公海上において、船舶はいずれかの国家の国籍をもち、その船舶の本国(旗国)の管轄権に服する。
これを旗国主義という。そうすることにより、国際法は公海上の秩序を維持しようというのである。しかし、
国際法は公海の秩序維持や、沿岸国の権利の保護のために、例外的に旗国以外の第三国が、公海上の
外国船舶に対し干渉する権利をみとめている。海賊行為、奴隷の運送、麻薬の取引、無許可放送、
海洋汚染の防止などの場合である。
"公海" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:15
海洋法
海洋全般に関して規律する国際法で、古い歴史をもつ。今日の海洋法の原型は、15世紀末の「地理上の
発見」ののちに展開された諸国の実行を通じてしだいに形づくられた。その直接のきっかけは、新大陸
および東インド航路の「発見」に成功したスペイン・ポルトガル両国が、世界の海洋の分割と領有を宣言し、
海上通商の独占をはかろうとしたことにあった。
16世紀にはいると、オランダ・イギリス・フランスなどの新興勢力が海洋の自由を主張して実力で海に
のりだし、以後しだいに、この主張が支持をあつめるようになったのである。グロティウスの「自由海論」(1609)
は、海洋自由の思想に理論的基礎をあたえたものとして有名である。ただし、海洋のすべての部分が自由な
空間とされたのではなく、沿岸の一定範囲までの海域は、沿岸国の安全や漁業、貿易上の利益を保護する
ためにその領海とすることがみとめられた。しかし、それ以遠の広大な海域は公海とされた。
第2次世界大戦後、国際連合のもとで1958年に第1次海洋法会議が開催され、領海条約と公海条約を
採択。同時に、戦後に新しく生じた資源問題を解決するために、漁業資源保存条約と大陸棚条約とを
あわせて採択した。もっとも、この会議は領海の幅をさだめることができず、60年に第2次海洋法会議が
開催されたが、ふたたびその画定に失敗した。
第3次海洋法会議は1973年から開催され、10年にわたる審議のすえ、82年に先の4条約にとってかわる
国連海洋法条約の採択に成功した。海洋法の変革の成功をうながした要因としては、まず第1に、科学技術
の飛躍的な進歩や多様な海洋利用の出現によって、国際法で規制の対象としなければならない新たな問題
がいっきょに増大したことである。たとえば、大型タンカーの出現などによる海洋利用の活発化は、事故に
よる原油の流出などの、さまざまな汚染から海洋環境を保護する必要性を生んだ。また、海洋資源の
開発技術の急速な進歩は、水深5000m前後の深海底資源の開発問題をおこした。第2の要因として、
国際社会の構造変化をあげることができる。すなわち、新たに独立した諸国にとって、海は自由であると
いっても、実際には海洋利用能力がとぼしいため形だけの自由でしかなく、せまい領海とひろい公海という
それまでの海洋法の構造をくつがえし、排他的経済水域や深海底制度の主張をすることになった。
国連海洋法条約は、海のすべての問題を一括してあつかうもので、320カ条の条約本文のほかに9つの
付属書からなる。その対象となるのは、領海および接続水域、国際航行に使用される海峡、群島国家、
排他的経済水域、大陸棚、公海、島、深海底などである。もっとも、深海底制度はその後、その制度に
不満をもつ先進諸国にうけいれられる内容に修正するための実施協定が1994年の国連総会により採択
された。
"海洋法" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:25
繊維 Fiber
動物、植物、鉱物から、または化学合成してつくられる長くて細い糸状のもの。商業的につかわれるのは
直径0.004〜0.2mmのもので、10〜15mmの長さの短繊維(ステープルまたは裁断したもの)、単一の繊維が
連続している単繊維、連続した繊維がねじれのないまっすぐな束になっているトウ、連続した繊維がねじれた
束になっている紡績糸、などの形態に分類できる。これらの繊維はロープにしたり、フェルト(不織布)に
したり、テキスタイル(織物)にしたりする。強度のある繊維は、2つ以上の材料からできた合成物の補強材と
してつかわれる。
動物繊維
毛織物(広い意味のウール)をつくる動物繊維は、タンパク質の複合体である。ほとんどの有機酸には
耐性があり、硫酸などの酸には強いが、アルカリには弱く、水酸化ナトリウム(NaOH)のような強いアルカリ
にはとけてしまう。また、塩化物をもとにした漂白剤では傷みがはげしく、羊毛や絹は高濃度の次亜塩素
塩酸漂白剤にはとけてしまう。
絹とシルク
絹の主要成分は繊維状タンパク質の一種のフィブロインである。昆虫やクモの腹部からでる長い繊維は、
英語ではすべてsilkといい、これらの小動物の体内で生成する原理は似ている。しかし、自然の繊維では
絹だけが1000m以上の長さになる。昔はクモの糸を測量の光学機器の照準につかったこともあったが、
商業的な織物につかわれているのは、カイコの繭(まゆ)からできる絹だけである。絹の繊維はあつめられて
織り糸になるが、工場紡績の場合には、ステープルのかたちで生産されることが多い。
"繊維" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:26
ウール
羊毛などの動物毛や毛皮の繊維成分は、タンパク質の一種のケラチン(→ 毛)である。動物毛は90cm以上
の長さになることもあるが、ふつうは40cm以下である。そのため、織物にできるものはつむいで紡績糸にし、
それ以外はフェルトにする。ヒツジ以外の動物の毛がウールとして市場で売買されるときは、「ラクダ」、
「アルパカ」、「カシミア」といったように、毛をとった動物名で流通している。
羊毛
毛織物につかわれる主要な動物繊維は羊毛である。野生のヒツジのむく毛(にこ毛)は短く、上部の長くて
あらい毛でまもられている。羊毛をとるために交配されたヒツジのむく毛はより長くなっている。むく毛から
できた紡績糸は紡毛糸(せまい意味のウール)と梳毛糸(そもうし:ウーステッド)にわけられる。長さ5cm以下
のむく毛は、ちぢれてやわらかい紡毛糸になり、長いむく毛は滑らかで丈夫な梳毛糸になる。
そのほかのウール
織物につかわれる動物毛にはラクダ、リャマ、アルパカ、グアナコ、ビクーニャ、ウサギ、トナカイ、アンゴラ、
ヤギ、カシミアヤギがある。ミンクやビーバーの毛は、そのほかの動物毛と混合してぜいたくな紡績糸を
つくるのにつかうこともあるが、通常は毛皮としてそのままつかわれる。牛やウマの毛は室内装飾用など、
とくに耐久性が必要な用途向けにフェルトにしたり紡績糸につむいだりしてつかわれる。人間の髪の毛で
さえ織物にされたこともある。
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:2004/07/12(月) 18:26
植物繊維
植物繊維のほとんどはセルロースである。動物繊維のタンパク質とことなり、アルカリとほとんどの有機酸
には耐性をもっているが、強い無機酸では分解する。漂白剤の使い方をまちがえると、いたんだり切れたり
する。
植物繊維の種類
植物繊維にはおもに4つのタイプがある。種子の周囲をとりまくやわらかい毛は種子繊維、双子葉植物の
樹皮と幹の間にある丈夫な繊維は靭皮(じんぴ)繊維、単子葉植物の葉と茎にある丈夫な繊維は維管束
繊維といい、さらに植物茎繊維がある。それ以外に、用途はかぎられるがラフィアのような葉の皮をはいだ
もの、ココヤシやヤシの繊維のように果実の外皮の繊維がある。
木綿
商業的に重要な種子繊維は、綿花からとれる綿とカポックの2つである。綿の繊維はワタの種子の莢(さや)
の中でそだち、織物産業でつかわれる唯一の種子繊維である。綿花には何種類かあり、それによって繊維
の長さがちがう。長いステープルの繊維は細くて強い糸になり、良質の布をおることができる。
短いステープルの繊維は耐久性のある布用のあらい糸となる。綿の糸は染色やプリントが簡単で、豊富な色
とデザインの布を生産することができる。カポックは紡績はできないが、室内装飾用材料としてつかわれる。
中が中空になっているので水にうきやすく、かつては救命用の浮きの装置につかわれていた。
靭皮繊維
靭皮繊維は種類が多く、目の細かい織物からロープまで幅広く使用されている。リネン布はアマから、
アサやジュート、ラミー、サンヘンプからは目のあらい布やロープができる。日本でできるミツマタやコウゾの
靱皮繊維は和紙の原料になる。
維管束繊維
維管束繊維にはリュウゼツラン(サイザル)、ヘニケン、マニラアサ、ユッカなどがあり、ほとんどがロープの
材料となる。エスパストやイグサの茎、麦わらは帽子や敷物、畳表につかわれる。また、パイナップルは、
かつては衣料品にもつかわれた。
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:2004/07/12(月) 18:26
製紙原料
製紙にも広く植物繊維がつかわれている。綿やアマは目の細かいラグペーパーにつかわれ、アサ、
ジュート、マニラアサもラッピングペーパーやそのほかの目のあらい紙の材料になる。新聞紙や
クラフトペーパーは、木材繊維に適当な化学処理をしてつくる。木材繊維とバガス(サトウキビの繊維)は
紙にすることもでき、似たような工程で建材にもなる。
無機質繊維
ガラスは広く商業用につかわれる唯一の無機質繊維である。高強度・高弾性繊維としてE・C・Sガラスが
あり、プラスチックや金属の補強用としてつかわれている。なかでも、ガラス繊維強化プラスチックは用途が
広く、船体や浴槽、ヘルメットなどに利用されている。また、石英ガラス繊維は光ファイバーにもちいられて
いる。
1960年代初めまでには、酸化アルミニウム(またはアルミナ:Al2O3)繊維、炭化ケイ素(SiC)繊維、
炭化ホウ素(B4C)繊維が、おもに耐熱用化合物として開発された(→ セラミック)。すぐれた耐熱性、耐酸性、
高強度、高弾性などの特徴により、ヘリコプター、飛行機、ミサイル、人工衛星やスペースシャトル、および
スポーツやレジャーなど幅広い分野でつかわれている。
アスベスト繊維は以前は断熱や耐火用につかわれていたが、発癌性があることがわかってから使用されて
いない。
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:2004/07/12(月) 18:26
合成繊維
19世紀末に、天然セルロースを原料にした合成繊維レーヨンがはじめて開発された。
レーヨンの製法
一般的なレーヨンの生産過程は、まず木材パルプからつくられる天然セルロースを化学処理してうすい
液体にし、弱い酸をみたした槽に太い毛糸状にしておしだすと、純粋なセルロースになる。このように、
レーヨンは完全に合成繊維というわけではないが、化学繊維の工業化への道を開いた。
ナイロンなど
1938年に開発されたナイロンは、天然高分子ではないため、すぐれた強度をもっていた。さらに50年代に
なるとアクリル(ポリアクリロントリル系)、アラミド(ポリアミド系)、ポリエチレン、ポリプロピレン(ポリオレフィン
系)、ポリエステル、スパンデックス(ポリウレタン系)など、多数の合成繊維が開発された。合成繊維の
一般的な紡績工程は、とかしたポリマーまたはポリマー溶液を小さな穴から、フィラメントが硬化するのに
適した環境におしだすことである。
繊維の性質はベースとなるポリマー、紡績過程、さらに、引き伸ばし、焼きなまし、仕上処理、コーティング
など紡績後の繊維の処理によってかわってくる。繊維の重さ、耐磨耗性、耐熱性、化学的な耐性、耐湿性、
強度、硬さ、弾力性、染色のしやすさなどの性質は、これらの処理によって最大限にひきだされる。
炭素繊維
炭素繊維と黒鉛繊維はきわめて強度が高く、複合材料の補強材としてつかわれている。代表的な
炭素繊維は、不活性ガス内でレーヨンやポリアクリロニトリルを1000〜1500ーCで焼成したもので、2500ーC
以上で焼成すると黒鉛繊維ができる。これらをPAN系炭素繊維とよんでいる。また、石油製品のコールタール
やピッチからつくられるピッチ系炭素繊維もある。
ほかにベンゼンやメタンから気相成長させるものがあるが、最近では、ほとんどがピッチ系かPAN系に
なっている。ピッチ系には、繊維の長い方向に結晶がそろっている等方性と、一部別の方向をむいた結晶を
ふくんでいるメソフェーズがある。
"繊維" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:37
加工貿易
近代の貿易 18世紀末から19世紀にかけてイギリスに産業革命がおこると、イギリスは世界の工場と
しての地位につき、輸出、とりわけ綿製品の輸出が急増した。その他のヨーロッパ先進国でも産業革命に
よって、原材料を輸入して完成品を輸出するという加工貿易のパターンが確立した。交通手段においても、
蒸気機関車と汽船の出現によって安価で大量に輸送することができるようになり、これが貿易の発展に
拍車をかけた。1880年代までは世界貿易におけるイギリスの地位は圧倒的であったが、アメリカとドイツで
工業が発展するにつれて両国の影響力が高まり、第1次世界大戦前後の時期にはイギリス、ドイツ、
アメリカが貿易額でほぼ肩をならべていた。
第1次世界大戦後、アメリカは世界無比の経済的繁栄をほこるようになり、貿易の舞台でもドイツや
イギリスを大きくはなして圧倒的な地位についた。国際貿易と国際金融の中心地は、ロンドンから
ニューヨークにうつった。しかし、1929年にはじまる世界大恐慌(→ 恐慌)と、それにつづく金本位制度の
崩壊、ブロック経済への移行、さらには第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、世界貿易は大幅な
減少をつづけることとなった。
現代 第2次世界大戦後も西ヨーロッパや日本では、ドル不足のためにしばらくの間は戦後復興に
必要な輸入を制限せざるをえなかった。しかし各国で戦後の経済復興がすすみ、さまざまな統制が撤廃
され、貿易や為替の自由化がすすんでくると、世界貿易は急速に拡大にむかった。とくに、西ヨーロッパ
諸国ではヨーロッパ共同体とヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)が形成され、域内貿易自由化、市場統合化が
すすめられた。
1950〜70年の世界全体の貿易の伸び率と経済成長率を対比すると、つねに貿易の伸び率のほうが高く、
平均で8%強である。しかし、70年代にはいると2つの大きな不安定要因が重なり、一転して世界貿易の伸び
は鈍化する。まず、73年と79年の2度にわたる石油ショック(石油危機)のため、世界各国でインフレーション
がすすみ、引き締め政策が広く採用された結果、世界経済が停滞と低成長の時代をむかえた。また、
73年には固定為替相場制から変動相場制へ移行し、大幅な為替変動にさらされるようになったため、
これが貿易拡大を抑制したとも考えられる。〔略〕
国際分業がすすみ、産業の空洞化をともなって、本国メーカーが海外工場からの部品調達で組み立てを主たる業務にすることが多くなると、研究開発の期間やコストも大きな影響をうけ、貿易外収支などにふくまれる特許料や知的所有権の使用料などが、しだいに肥大化していく。
"貿易" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:39
産業の空洞化
基幹産業としての製造業において、生産機能の海外移転がすすむことによって、国内生産量の減少のみ
ならず、製品技術水準、生産技術開発力、そして研究能力水準も低下し、その産業が縮小、弱体化すること。
この考え方は1982年、ブルーストンとハリソンの「アメリカの崩壊」(1982)ではじめてつかわれた。
アメリカでは1980年代前半のレーガン政権下、レーガノミクスによるドル高と高金利によって国内製造業の
海外移転がすすみ、空洞化論議が盛んになった。日本でも、85年のプラザ合意以降の急速な円高によって
輸出が不振になり、また巨額の経常収支黒字によって欧米との貿易摩擦が激化した。これに対処するため
日本企業は海外への生産拠点のシフトをすすめたが、これにともなって80年代後半から産業の空洞化への
懸念が高まった。
空洞化の指標のひとつとして、日米の海外生産比率を比較してみると、アメリカが1992年度において25.1%
であるのに対し、日本は95年度において9.1%である。この比率はともに上昇傾向にある。
現在、この空洞化という用語はひろい意味でつかわれる傾向にあり、海外とくらべて競争力のおとる国内
産業の縮小をさすことが多い。たとえば、近年の円高と日本の産業空洞化の関連を論じる際に、円高による
輸出の減少を通じて製造業の縮小がおこるケース、輸入の増大によって国内生産が輸入に代替される
ケースもふくめて空洞化とよんでいる分析もある。
また、基幹産業としての製造業だけでなく、農業などの第1次産業、金融業などの第3次産業についても、
空洞化という言葉がつかわれている。たとえば、日本の農産物市場を開放すると、海外産の安い農産品が
輸入されるので日本の農業の空洞化をまねく、あるいは、日本国内における資金調達のコストは高いので、
金融取引が海外でおこなわれるようになり、これは日本の金融市場の空洞化をうながす、などである。
産業の空洞化に対する懸念としては、国内生産量の減少によって雇用機会が喪失し、失業率の上昇や
賃金の下落がおこることである。それはひいては日本の経済成長率や所得水準を低下させ、これまで
蓄積されてきた技術が消散してしまうために技術水準の低下をおこす恐れがある。国内産業構造が
硬直的であれば、こういう現象が短期的にはおこるであろう。
しかし、企業の海外進出はそのときどきの経済情勢に応じた企業の合理的な反応であり、このこと自体に
問題があるのではない。むしろ、比較優位性の消失した産業を国外に移転し、国内の新興産業群を育成
する機会として活用し、長期的な国内経済の活性化につなげることが重要である。そのためには国内の
産業構造の転換を容易にして、新興企業への投資をもたらすための国内資本、金融市場の拡大、
労働者が産業間をスムーズに移動できるための労働市場の流動化などの方策が必要である。
"産業の空洞化" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/12(月) 18:56
日本の産業革命 日本の産業革命は日清戦争(1894〜95)のころに第1次革命が、日露戦争(1904〜05)
のころに第2次革命が進行した。第1次では蒸気動力による製糸・紡績など軽工業が、第2次では電気動力に
よる重工業がその中心だった。
明治政府は富国強兵をはかるため、殖産興業政策を強力におしすすめた。すでに産業革命を成功
させていた先進諸国から近代的技術や近代的資本制をとりいれ、ひろく民間産業の育成と保護をはかった。
とくに1880年代以降には蒸気機関を動力とする大機械をとりいれた紡績業が、90年代には製糸業が
飛躍的に発展するなど近代的軽工業が成立、日清戦争の勝利もあって朝鮮・中国などの海外市場も
拡大した。しかし、これが、わかい女性労働者(女工)の低賃金や劣悪な労働条件に支えられていたことも
見のがせない。1900年代にはいると石油動力や電動式の力織機(りきしょっき)工場があいついで開設され、
日露戦争の勝利が海外市場への進出をさらにうながした。
軽工業にくらべて重工業のたちおくれはいちじるしかった。大規模な造船所など官業払下げの民営工場
が少数あるだけで、成長は大きくおくれた。政府は1901年(明治34)官営八幡製鉄所を設立して鉄鋼業振興
をはかり、日清戦争後の軍事・政治両面の必要から、そのほかの官営軍事工場にも集中的に資金を投入
した。その結果、造船、兵器生産を中心に技術は大きく進歩し、日露戦争後にそれらは世界的水準に
達したのである。しかし、製鉄・製鋼業や機械工業など民間の重工業生産高はまだ低く、多くを海外の
先進諸国に依存していた。
"産業革命" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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:2004/07/16(金) 17:56
「水俣」と「水銀」について。
「水俣病は水銀と関係ない」説 というのが1959年頃、熱心に吹聴された。
日本化学工業協会専務理事・大島竹治、東京工大・清浦雷作教授、東邦大学戸木田教授、
といった人々が、「水俣病は水銀と関係ない」説を主張していた。
1960年「田宮委員会」という「第三者機関」が発足した。
この「第三者機関」は清浦雷作教授、戸木田教授らが参加していて、日本化学工業協会から
費用が出ていた。つまり実態は全然「第三者機関」ではなく加害者側の機関だった。
厚生省外郭団体・食物衛生調査会が、ある種の有機水銀が原因である、という中間答申を
大臣に提出し、即日解散した。参加していた学者すら部会解散を知ったのは新聞記者に
聞いた後だった。ある研究グループで望ましくない結果が出たときは、そこでばっさり解散
して、また新しい素人を集めつぎの研究グループを作る。タライ回しの手口だ。
宇井純「Ⅱ 水俣病」『公害原論』p100-104
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/475058813X/qid=1089968138/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-2496284-4322754
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:2004/07/16(金) 17:57
「水俣病を調べて気づいたことですが、公害には四つの段階があるらしい。〔略〕
つまり、公害というものが発見され、あるいは被害が出る。それに対して原因の研究、
因果関係の研究(第一段目)、というものが始まりまして、原因がわかる。これが第二段目とします。
原因がわかっただけで決して公害は解決しない。第三段目に必ず反論が出てまいります。〔略〕
そして第四段目は中和の段階であって、どれが正しいのかさっぱりわからなくなってしまう。
これが公害の四段階であります。〔略〕
これを水俣病にあてはめてみますと、起にあたりますのが、病気の発見の一九五六年から五九年
まで、原因追求の過程が起であります。
有機水銀が発見された一九五九年は、これはそれに続く承の段階であります。
そして五九年の秋から六〇年にかけて、転の段階に入ります。すなわち反論の段階です。
この反論は全体に質より量であります。〔略〕なんでもいいからたくさんしゃべった方が
本当の正しい原因がわからなくなります。」
宇井純「Ⅱ 水俣病」『公害原論』p98-99
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/475058813X/qid=1089968138/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-2496284-4322754
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:2004/08/10(火) 02:34
世界史講義録 第68回 ヨーロッパ人とアジア貿易
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-68.html
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ポルトガル人の進出とアジア貿易
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ポルトガルはインド航路にどのように進出していったのか。
ポルトガル人が進出する前から、インド洋には海上交易ネットワークがありました。インド商人、
イスラム商人が活躍していたのですが、特にエジプトのマムルーク朝が海上貿易に積極的で、アジアと
ヨーロッパをむすぶ中継貿易で利益を得ていた。ポルトガルの進出は、そこに割り込むことになる。
ポルトガルは、ライバルとなるマムルーク朝の海軍を撃破して、紅海・インド洋海路を確保します。
当時、アジアでは、ポルトガル人の持っていた大砲と鉄砲の威力は抜群で、ポルトガルはインド洋沿岸
各地を占領して要塞を作った。プリントに「インド洋のポルトガル要塞」という地図がありますね。ずらりと
ポルトガルの要塞が並ぶ。
アフリカ東海岸には、マリンディ、キルワ、モザンビーク。アラビア半島の沖合のソコトラ島、ペルシア湾岸
のホルムズ。インド西海岸には、ディウ、ダマン、バセイン、チャウル、ゴア、アンジェディヴァ、オノール、
マンガロール、カナノール、カリカット、コーチン。セイロン島にコロンボ。
ポルトガルがこうして香辛料貿易を独占しようとしたということを、実感してくれたらよいです。
ところで、香辛料貿易がどれくらいもうかったか。これは、1506年のリスボンでの値段。香辛料1キンタル
(50.8キログラム)あたりの、輸送料を含めての原価と、販売価格です。
コショウが原価6.08クルザード、販売価格22クルザード。利益率262%。クローヴが
原価10.58クルザード、販売価格60から65クルザード、利益率467から514%。ナツメグ、これは
原価7.08クルザード、販売価格300クルザード、利益率4137%。要するに滅茶苦茶もうかったわけだ。
だから、要塞を各地に作ってインド航路を独占しようとしたわけです。独占すれば値段はさらにつり上げら
れますからね。
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:2004/08/10(火) 02:35
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-68.html
ポルトガルがアジア貿易にはいりこんでいく様子を見てみよう。
インドの重要な拠点ゴアを占領するのが1510年。
翌年の1511年にはマレー半島のマラッカを占領しています。マラッカは香辛料の原産地モルッカ諸島と
インドの中間点。狭いマラッカ海峡をおさえる重要な中継地点です。
1517年には中国の広州で中国貿易もはじめる。中国の当時の王朝は明です。ポルトガルは、明の倭寇
退治に協力して、1557年にはマカオに居住権を得ています。
ポルトガル人がはじめて日本にやってきたのが1543年。火縄銃を種子島に伝えたのが最初といわれて
います。その後ポルトガル人は九州各地にやってきて貿易を行った。日本史では南蛮貿易ですね。
しかし、このポルトガルのアジア貿易独占は長くつづかなかった。16世紀後半からポルトガル勢力は
衰退していく。理由はオランダとイギリスの参入です。オランダ、イギリスと対抗するために軍事費が
かさんで、この負担に耐えられなかったようです。そもそも、ポルトガルの当時の人口は150万人。
この中でアジア貿易に出かけられる成年男子となるともっと数が少なくなる。国の人口規模に比較して
あまりにも広い交易圏を独占しようとしすぎたともいわれています。
ポルトガルがひとり勝ちしていたときでも、その香辛料の取引量は全体の14%しかなかったという計算も
ある。どういうことかというと、在来のインド商人、ムスリム商人がポルトガルを避けながら、交易をつづけて
いたのです。
たとえば、この時期に、スマトラ島の西端にアチェー王国、ジャワ島の西にバンテン王国、中部に
マタラム王国が発展してきますが、これらは、ポルトガルをさけて開発された航路沿いに発達した国々です。
ところで、16世紀から17世紀前半の東南アジア海域は「商業の時代」といわれるくらいに貿易が活発に
おこなわれていました。
とにかく、中国明朝の経済発展が著しい。中国貿易が活発になるのは当然の成り行きです。ポルトガルも
中国貿易をしますが、1571年にはスペインもフィリピンにマニラを建設して、アジア貿易にのりだします。
スペインは、ポルトガルとは逆回りのアメリカ大陸経由でアジアにやってきますから注意しておいてください。
堺など日本の商人が積極的に海外に出かけていくのもこの時期です。イエズス会のフランシスコ=ザビエル
がインドで日本人に出会ったのも、そういう例の一つです。ほかにもタイのアユタヤ朝で活躍した山田長政
なども有名ですね。
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オランダの進出
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-68.html
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オランダは、1602年に東インド会社を設立しました。そして、ポルトガルを追い落としながら、積極的に
植民地経営とアジア貿易の独占をめざしていきます。東南アジアの各地に商館を建設しましたが、その
中心になったのが、ジャワ島中部に建設されたバタヴィア。現在のインドネシアの首都ジャカルタです。
オランダは、さらに東のモルッカ諸島にも根拠地を建設します。このモルッカ諸島が、香辛料の特産地
でしたね。
イギリスも香辛料貿易に参入してきます。しかし、当時はオランダの方が強い。遅れてやってきたイギリス
勢力を、東南アジアから追い払おうとして起きたのが、1623年のアンボイナ事件です。
モルッカ諸島のアンボイナというところに、オランダの商館がありました。商館というよりは、要塞にちかい
ものですが、1623年2月のある日、この要塞の中に、日本人が入り込んで何かを調べていた。この日本人は
イギリス人に雇われた傭兵だった。日本では応仁の乱以来、戦国の世が長くつづいていましたから、
戦士として有能で、アジア各地で傭兵として活躍していたんです。当然、オランダ側は不審に思う。
そこで、イギリス商人たちを捕らえて尋問した。実際は拷問をくわえたみたいで、苦痛に耐えかねた
イギリス商人たちは、オランダ商館襲撃計画を白状したんだ。その結果、オランダはイギリス商人と
その仲間を処刑した。これが、アンボイナ事件です。処刑されたのはイギリス人10人、日本人9人、
ポルトガル人1人という。イギリス人はわずか10人で、少ない気もしますが、本国から遠く離れた
アジアで活動していたのは、このくらいだったのですね。
この事件で、イギリス勢力はモルッカ諸島から撤退することになった。同じ年に、イギリスは日本にあった
平戸商館を閉鎖していますから、かなりのダメージだったんですね。
結局、オランダによる香料貿易の独占が実現するのです。
翌1624年、オランダは台湾の南部を占領し、現在の台南の近くにゼーランディア城を建設する。
ゼーランディアは、中国と日本に対しての貿易拠点としてつくられたものです。ちなみに、当時の台湾は、
どこの国の領土でもなかったのです。
このあと、オランダは日本との貿易も着々とのばしていく。徳川幕府が徐々に鎖国の方針を固めていく
時期で、ポルトガル、スペインは日本から撤退していくのですが、オランダだけはうまく幕府に取り入って、
ずっと日本と貿易をつづけることができました。
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たとえば、1637、38年、島原の乱が起きています。キリシタンの反乱ですが、このときオランダは
キリスト教国にも関わらず、幕府を援助して海上から原城跡に立てこもった反乱軍に砲撃をくわえている。
ポルトガル船が日本への来航を禁止されて、オランダによる日本貿易独占がはじまるのが、島原の乱
鎮定後の1639年です。
オランダは、1641年ポルトガルからマラッカを奪い、1652年にはアフリカ大陸最南端にケープ植民地を
建設した。ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な中継地点ですね。
こうして、オランダはアジア航路を確保し、アジア内貿易蓄積した富をヨーロッパに送るという体制を
作り上げました。
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「商業の時代」から植民地経営へ
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16世紀から17世紀前半まで、アジアは活気にあふれた「商業の時代」でした。ところが、17世紀後半
から長い不況に入ります。
原因はいくつかありますが、日本の鎖国もその一つです。しかしもっと大きかったのは中国の政変です。
中国では1644年、明が滅亡し、かわって満州から侵入してきた女真族の清朝が成立します。ところが
明の復活をはかる勢力が、台湾を根拠地にして清朝に抵抗した。この指導者が鄭成功です。この人に
ついては、またあとで触れますが、鄭成功たちは中国沿岸地域で軍事活動を展開した。清朝は、これに
対抗するために、1655年以降「海禁政策」をとります。海外貿易禁止ということです。貿易が鄭成功勢力
の資金源になっていたからです。さらに、1661年には「遷界令(せんかいれい)」という命令を出した。
福建省・広東省などの海岸から20キロまでの住民を強制的に内陸部に移住させて、鄭成功たちを孤立
させようというものです。「遷界令」は二十年近くおこなわれた。やることが徹底している。
中国は巨大市場だし、陶磁器や絹など多くの特産品がある。この中国が国際交易から完全に消えるの
だから、不況になって当たり前ですね。
さらに、同じ時期にヨーロッパでコショウの大暴落がおきて、香料貿易で以前のような利益を生めなくなった
ことも大きな原因です。
そこで、オランダは商業活動から植民地経営へと政策を転換した。商品を運んで稼ぐのではなくて、商品を
生産しようと考えたわけだ。そこで、領有地を拡大し、プランテーションをつくり、コーヒーなどを栽培する。
そして、それをヨーロッパに輸出するのです。
商館を中心とした点の支配から、面の支配にかわる。当然、人も支配するようになる。それが植民地経営
です。その結果、ジャワ島ではバンテン王国、マタラム王国といった国々を圧迫していくことになりました。
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:2004/08/17(火) 00:48
「ひかりごけ」事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hikarigoke.htm
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0071.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4765240789/3w-asin-books-22/249-6052641-6590759
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:2004/08/19(木) 19:33
現在我々が使用している暦はグレゴリオ太陽暦といわれ、世界のほとんどの国で採用されている暦である。
「グレゴリオ暦」は約3000年で1日差が生じるぐらいの精度があるが、例えば曜日は7で一巡する周期だが、各月に含まれる日数がバラバラであるなど不具合も多い事が指摘され ている。つまり、○○年1月1日が何曜日であるかがわからないのである。
これらの欠点を除いた改暦案の1つとして過去出されたものに世界暦というものがある。 その暦法は、日付も曜日もない「無曜日」を6月末に設け、閏年は年末にも追加する。こうすれば、常に新年は日曜に始まり誕生日も同じ曜日を繰 り返す。
世界暦は、1903年にドイツのフォン・ジハルトが提案し、アメリカのエリザベス・アケリス女史によって名づけられた。エリザベス ・アケリスは「毎月の日数が不規則で、日付と曜日の組み合わせが変るの は不合理だ」と考えたのである。
彼女は、一枚あれば永久に使えるというカレンダー《世界暦》をもって国連に出かけ、19
39年(もしくは1950年1月1日、いずれも日曜)を期して各国一斉に採用すれば、世界は平和になると主張した。しかし 1973年、92才でアケリス女史が亡くなると全ての改暦案も忘れられ、その後全ての改暦案者に対しての揶揄を含め「暦を規則的にしようとしてもその試みはすべて失敗する」という言葉まで生まれた。
確かに暦法の違う民族・国家間では戦争が絶えない。しかし暦の統一は、 固有の文化を放棄することでもある。
カレンダーの語源は、新月が見えた 時の喜びの「叫び声」に由来し、今も観測の儀式をイスラム暦が継承して いるが、彼女の言う「不合理」は世界中の人々が同時に月の出・日の出を見る喜びを分かち合えないからという事なのか。
2月31日が存在する《イラン暦》は《イスラム暦》《グレゴリオ暦》 と併用され、それぞれが行政・宗教・外交を緊密に支えている。イスラム暦の母型で、最古の太陰太陽暦として終末思想を伝える《ユダヤ暦》は 土地を追われ神殿も政府も失って、世界に流浪する民族を連帯していた唯 一の支えだった。
フセインが囚われカダフィが全面降伏したこの世界で、 彼等はいつかその暦さえも放棄するのだろうか?
私にはアケリスの主張は敗北を知らないアメリカの幻想の理想として、「私達と同じようにすれば同じように幸福になれる」という叫びにも聞こえる。しかしそれが本当に達成されるならば手段は問わなくてもいい。
来年こそ本当に世界が平和になれますように…。 (2003年12月24日号)
http://www.f2.dion.ne.jp/~t-star/bunsho/koyomi.html
国際世界暦協会
http://www.worldcalendar.org/
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:2004/08/19(木) 19:34
旧七夕の日付
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/publish/text/koyomi/82.html
2004年は、 8月22日 が、旧暦7月7日に相当する。
こよみのページ
http://koyomi.vis.ne.jp/mainindex.htm
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:2004/09/03(金) 16:13
「学術書の部屋(言語学・古代史の部)」
http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/wissenshaft.htm
日本語の起源
http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/wissenshaft.htm
#content
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:2004/09/04(土) 23:14
パンティ学・入門〜語源学・仮入門
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/gogen.html
池上嘉彦は『記号論への招待』(岩波新書)の中で次のように書いている。
日頃見慣れた景色が、ある時ふとしたことから急に、初めて見る時のような新鮮な美しさに輝いて
見えることがある。ことばにも同じことが起こる。『蛤(はまぐり)』というのは日常のことばではある種の
貝を指す符号にすぎないけれども、改めて見直してそこに『浜』と『栗』を見出すなら、われわれの
この語に対する印象は一変するであろう。
これがメタ言語能力というもので、特に語源への興味は「語源意識」という。
だから、学生たちには語源意識を持つようにと話している。語源意識が言葉への関心につながると
思うからである。
語源というとすぐに「サンドウィッチ」を挙げる人がいるが、これは誰でも知っていることだし、これだけ
ではちっとも面白くない。むしろ、面白いのは日本語で賭博場のことを「鉄火場」ということから「鉄火巻」
の語源にも気付くこと、つまり、同じような現象を身の回りでも見つけることである。〔略〕
お菓子といえば、「金平糖」がポルトガル語のconfeito(英語のconfection砂糖菓子、confectionery
お菓子屋)から来ているというのも有名である。
なお、「サンドウィッチ」のように人名などがモノの名前になるのは「エポニム」(eponym 名祖なおや)と
呼ばれる。日本では「出歯亀」(池田龜太郎という出っ歯の変態性欲者の名から)「土左衛門」(水死体が
成瀬川土左衛門という力士に似ていたから)「八百長」(これも相撲社会から起こった語で八百屋長兵衛
という人の名によると言う)などが知られるが、名前を優先させる欧米よりも随分少ない
(大体、「ヨーロッパ」だって、「アメリカ」だって、神様の名前や人の名前に由来している)。
こんな風に語源についての蘊蓄を語りたかったら、本屋にいっぱい並んでいる『面白語源辞典』なんて
いう本を読めば十分である。ここではむしろ、語源をどう考えるかを述べてみたい。〔略〕
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:2004/09/04(土) 23:14
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/gogen.html
もう一つ、素人受けのいいのは「日本語起源論」である。〔略〕10年位の周期で思い出したように新しい説が
出てきて、マスコミを巻き込んで大騒ぎとなる。学者の系統論だけでも、1889年の大矢透、白鳥庫吉に
始まり、1930年代の新村出、小倉進平、金田一京助、50年代の泉井久之助、大野晋、服部四郎、
70年代の亀井孝、村山七郎、西田龍雄、80年代の川本崇雄、大野晋、中本正智などがある。
もっとも素人受けしたのは1955年の安田徳太郎の「レプチャ語説」である。チベットのレプチャ語で万葉集
は読める、というものだったが、金田一春彦がすぐに「万葉集の謎は英語でも解ける」(『文藝春秋』1956年
7月号)を書いた。「万葉集」というのは「たくさんの頌歌のの陳列」“many+ode+shew(showの古形)”であると
喝破した。〔略〕
富山でも方言を全部アイヌ語で説明しようという人がいる(間方徳松『アイヌ語は日本語の源,北陸篇・
南方篇』)。
そんな人は清水義範の「序文」(『蕎麦ときしめん』講談社1986)というパスティーシュを読んでほしい。
ここには吉原源三郎なる学者が日本語を英語で説明するために次のような語を挙げている。
* 汁(ju)→juice(ジュース) * 斬る(kiru)→kill(殺す) * だるい(darui)→dull(だるい)
* 坊や(boya)→boy(少年) * 名前(namae)→name(名前) * 下司(gesu)→guess(下司の勘ぐり)
* 負う(ou)→owe(負う) * たぐる(taguru)→tag(引き寄せる) * 疾苦(sikku)→sick(病気)
* 場取る(batoru)→battle(戦い) * 抛る(horu)→fall(落ちる) * 述べる(noberu)→novel(小説)
どれだけ馬鹿馬鹿しいか分かってもらえると思うが、本人たちは必死である。
と学会・編『トンデモ本の世界』(宝島社文庫)にはドン・R・スミサナ『古代、アメリカは日本だった!』
(徳間書店)があげられているが、例えば、次のような説明が並んでいるという。
* テキサス=敵刺す * ミズーリ=水入り江 * マサチューセッツ=鱒駐節 * カンザス=関西
* ケンタッキー=関東京 * カナダ=金田 * ナイアガラ=荷揚げ場 * アパッチ=あっぱれな者
* エスキモー=アシカの肝
そして、まさかと思うだろうが、「オハイオ」は「お早う」と説明しているのだ。
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:2004/09/04(土) 23:15
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/gogen.html
こんなのは偶然の一致で、探せば「スケベニンゲン」という土地がオランダに、「エロマンガ島」がフィジーに
ある。どんなところか男としては興味があるが、言語学者としては興味がない。ただ、これらはトンデモ本
だけど、よく売れるから、儲からない言語学の人間としては本当に羨ましい。
こうしたトンデモ本、妄想史観のルーツは明らかに『成吉思汗ハ源義経也』という本を出した小谷部全一郎
である。ジンギスカンはニロンの落人だったのだが、ニロンは日本に他ならず、母ホエルン・イケは
池の禅尼、父エゾカイは蝦夷海、テムジンは天神であり、ジンギスカンという名前も源義経(ゲンギケイ)が
ゲン・ギ・スとなまったものである。という。トンデモ本は病理的現象であり、妄想史観だから、小谷部の
精神史を徹底的に調べたのが長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』(筑摩書房)である。そして、
これ以上の言及はそちらに譲る。
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:2004/09/05(日) 14:10
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/9423/istoriyayaponii.html
> しかし、日本人モンゴル起源説の大きな根拠となっているのは、蒙古斑と言われるものでして、これは
>生まれたばかりの赤ん坊のけつにでるもので、見てみると痣(あざ)のように見えますが、これがでるのは
>じつは日本人とモンゴル人なのです。朝鮮人にはでません。中国人については知りませんが、誰も何も
>いわねえってことはきっとないんでしょう。あ、もちろんインドネシア人にもです。はい。
これ↑、本当かなあ…
と思って調べたら、やはり上記の人の勘違いで、有色人種なら九割以上の確率で現れるし、
白人でも1割程度現れるそうだ。
http://allabout.co.jp/relationship/kokusaikekkon/closeup/CU20030318/
>オンライン辞典の『大辞林』(三省堂)には次のように出ています。
>「特に、黄色人種の乳幼児の尻などに見られる青いあざ。皮膚の深部にメラニン色素が沈着するために
>起こり、幼年期の終わりまでには消失する。小児斑。児斑。」
>さらに『広辞苑』(岩波書店)をひくと、もっと詳しく出ていました。
>「小児の臀部(でんぶ)・腰部・背部・肩胛(けんこう)部などの皮膚にある青色の斑紋。皮膚真皮層中に
>メラニン色素細胞が存在するためで、年齢が進むと消失する。モンゴロイドに出現率が高く、日本人の
>生後一年以内乳児での斑紋は九九・五パーセントに達するが、白色および黒色人種では稀。小児斑。児斑。」
http://www.harenet.ne.jp/senohpc/disease/mouko.html
>蒙古斑はお母さんのおなかの中で色素細胞が表皮に向かって出ていく途中に真皮の中にとどまって
>残ったため消えずに生まれてきたときに見られる青いあざです。
>蒙古人種には出生時、90%以上に見られます。一つだけのこともあればたくさんあることもあります。
>形は様々で境界もはっきりしていません。
>普通のタイプの蒙古斑はおしり、背中にできます。四肢、顔面、腹部にできるものは異所性蒙古斑と
いわれています。
>生後2歳頃までは青みがかってきますが、その後は徐々に薄くなり、10歳頃までには消えます。
>異所性蒙古斑は成人になっても残ることがあります。治療は特にいたしません。
http://www.infoperience.com/mma/column/hisako121100.html
> ほとんどの日本人にみられます。白人でも9.6パーセントに存在します。真皮のメラニン性正細胞の
>存在によりおこりますが、思春期には消正します。4.1パーセントに残存するものがあります。
160
:
カマヤン
:2004/09/12(日) 21:16
世界史上、日露戦争に似ているのは
1;ペルシャ戦争(古代ペルシャ帝国 vs 古代ギリシャポリス連合)
ギリシャ諸都市連合が「絶対に勝てない」と思っていたペルシャ帝国に局地戦で勝ち、
べつにペルシャ帝国に打撃を与えたわけでもなんでもないが、ギリシャ人は「勝った勝った」と
大いに浮かれ、ギリシャ古典文明が花開くが、やがてペロポネソス戦争勃発。荒廃する。
2;レパントの海戦(オスマントルコ帝国 vs カトリック連合軍)
カトリック連合軍が勝ったのはあくまで局地戦に過ぎず、べつにオスマントルコ帝国に
なんら打撃を与えたわけでもないが、「絶対に勝てない」と思っていたイスラム大帝国に
「勝った勝った」と大いにキリスト教文明圏は浮かれ、増長しまくって大航海時代に突入。
増長したまま世界中を植民地とし、世界制服に成功し、オスマントルコ帝国以上の
強国になっていく。
3;日露戦争(ロシア帝国 vs 大日本帝国)
日本が勝ったのはあくまで局地戦に過ぎず、それもイギリスの後ろ盾とアメリカの仲介が
あればこそだったわけだが、つまり日露戦争とはロシア帝国の膨張を、アングロサクソンが
日本を使って止めさせた戦争だったわけだが、「絶対に勝てない」と思っていたロシア帝国に
「勝った勝った」と大日本帝国は大いに浮かれ、増長しまくって、やがて同じ戦術で
アングロサクソンに戦争を吹っかけ、こんどは仲介してくれる国がなかったから、ボロ負けする。
161
:
カマヤン
:2004/09/18(土) 00:18
「大きな」は学校文法では「連体詞」ということになっている。
え? 「形容動詞」じゃないの?
と思って、検索。以下の文発見。
===========
164
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/09/18(土) 00:26
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=983648
下記URLよりの転載です(一部、改編)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「大きな」は、「大き」+「な」ではなく、現在の学校文法では、「この」「その」などと同じカテゴリーである
連体詞に分類されています(ただし、「この」「その」の類は他の連体詞と区別して指示連体詞と
呼ばれる場合もあります)。
「大きな」が連体詞とされる理由は、「大きだ」のように活用せず、常に連体修飾のみに用いられる
ためです。
「大きな」を形容詞と考えるのは問題があります。「大きな」の場合はたまたま対応する「大きい」が
ありますが、これ以外の連体詞、例えば「ひょんな」には対応する形容詞がありません。
「大きい」と「大きな」が両方存在するのは歴史的な理由によるものです。もともとは「大きな」のもと
である「おほきなり」が使われていたのですが、後に「大きい」が生じたため、「おほきなり」のほうは
もっぱら連体形「おほきなる」が使われ、「る」が脱落して「大きな」として定着したようです。
つまり歴史的に見れば「大きな」は形容動詞だったということになります。
しかし現代語では活用しないので、「大きな」は分類の上では形容詞ではなく連体詞ということになります。
参考URL:
http://home.alc.co.jp/db/owa/jpn_npa?stage=2&am...
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
165
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/09/18(土) 00:27
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=983648
以上から、お分かりいただけると思いますが、「大きな」の「な」は断定の助動詞ではありません。
学校文法での文法書には、断定の助動詞「だ」があり、その連体形は「(な)」と書いてあると思います。
しかし、断定の助動詞は、体言に接続するので、「大きな」の「な」は当てはまりません。
断定の助動詞「だ」の連体形「な」は、現在あまり用いることがない形になっています。
一方、「静かな」の「な」は、形容動詞「静かだ」の連体形の語尾です。同様に、「あほそうな」の「な」は、
形容動詞「あほそうだ」の連体形の語尾と考えられます。したがって、これも断定の助動詞ではありません。
「大きな」の「な」の元の形の「おほきなり」の「なり」についてですが、元来、形容動詞のナリ活用は
「静かに+あり→静かなり」のように副詞に「あり」がついたものですので、「おほきなり」も
「おほきに+あり→おほきなり」と変化したものと考えられます。
学校文法や日本語教育文法が、絶対的なものではありませんので、諸解釈があると思いますが、
上記の解釈が最も一般的なものだと思います。
166
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/09/18(土) 00:28
http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/3032/kokubun/kb06.html
1 連体詞とは
連体詞とは、体言に連なる品詞、つまり、常に体言(名詞)を修飾する品詞です。
必ず体言を修飾します。それ以外は絶対に修飾しません。
また、連体詞の際立った特徴として、必ず「〜た・な・が・の・る」の、5つのどれかで終わります。
次の例を見て下さい。
例
連体詞 体言
たいした 人
大きな 車
わが 国
この 本
あらゆる 工場
それぞれ体言(名詞)を説明(修飾)していますね。勿論、例に挙げた連体詞以外にも連体詞は
ありますが、必ず「〜た・な・が・の・る」の、どれか形をとります。
連体詞の合言葉:たながのる
というのを、しっかりと頭に入れておきましょう。後で説明する副詞との違いが、よりハッキリとしますので。
また、連体詞は活用しません。
このことは品詞の識別をする時に有効な知識となりますので覚えておきましょう。
これについてはすぐ後の『2 他の品詞と連体詞』で説明しています。
以上でおおまかな連体詞の説明は終わりです。
連体詞が苦手だという人は、他の品詞と区別する時に、特に苦手だと感じる人が多いようです。
以下では他の品詞と連体詞について、若干ですが、説明していきます。
167
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/09/18(土) 00:29
http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/3032/kokubun/kb06.html
2 他の品詞と連体詞
先ほど述べたように、連体詞が苦手という人は、他の品詞との区別が今一つついていない、
という点にある場合があります。
次の例題を見て下さい。
例題 ・・・ 次の太字の品詞名を、あとのア〜ウから選んで答えなさい。
問1 小さい人
問2 小さな人
ア 形容詞 イ 形容動詞 ウ 連体詞
答えられましたか? それとも混乱しましたか?
苦手な人はこうするともうお手上げ状態になるわけですが、とりえあず、以下説明していきます。
問1の説明
「小さい」は、「い」で終わっているので形容詞。活用形は連体形です。よって答えはアが正解です。
問2の説明
「小さな」ですが、これは連体詞、ウが正解です。
よくある間違いが形容動詞と勘違いするという間違いです。
「小さな」の『な』を、形容動詞が活用して『な』になったという間違いですね。
しかしよく考えてみて下さい。
もしも「小さな」が形容動詞で活用するのなら、終止形は『小さだ』になってしまいます。
どこかの方言としてはアリかもしれませんが、少なくとも標準語ではありません。
形容動詞の連用形『に』だと『小さに』となり、もはや日本語ではありません。
つまり、「小さな」という語は活用しない、ということです。
ここで思い出して欲しいのは、形容動詞が活用するのに対し、連体詞は活用しない、という特徴です。
となると、答えが連体詞だというのが分かると思います。
168
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/09/22(水) 11:56
889 :名無しさん@3周年 :04/09/01 00:14 ID:SMC+lHgv
いやぁ〜〜〜 皆さん、白熱した議論をどうもです。
大和の国が始ろうとしていたあのころ、どうとでもなる八百万の神は、
いわゆる素材としてとても都合が良かった。そこでな、帝とくっつけてな、
かなりのフィクションを交えて日本書紀を書きあげちゃったのが俺だ。
でもな、帝=神とするには好都合でも、何の経典も無く、それだけでは
弱かったので、仏教も同時に採り入れたんだ。「国体は仏教で、系統は
神道で」が その時のキャッチコピーというかポリシーだ。
それでな、岩や木にしめ縄だけでは、なんというか威厳も無いので、
お寺をまねて、唐から入ってきた寺院のデザインをアレンジして神社に
したんだ。朝廷の官位のつけ方から何から、法律もふくめて全て唐の
パクリじゃ。
オリジナルもあるぞ。神道は基本的に亡くなった人を奉るようにしたが、
そこはそれ、日本人の美的感覚で、敵を奉るというスタイルにしたよ。
祟りも怖かったでな。
どうも靖国という神道まがいの神社が物議をかもしだしているようだが、
帝の兵だけを奉るというのは、どうもエグすぎるな。かなりエグいことを
やった俺が言うのだから間違いない。これは、神道の基本精神に反する。
長い低迷を脱して神道がメジャーに返咲いたと喜んだが、ガッカリじゃ。
しかし、ものは考えようで、それでかえって良いのかもと、小一時間。
俺の時代から千年以上もたって、国をまとめるに神道まがいを使うとは、
あまりにも芸が無い。
もっとクールでないといけないよ。我らが子孫はあまり進歩がないようで
ちと それが心配だ罠。
藤原不比等
169
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/09/22(水) 11:56
892 :名無しさん@3周年 :04/09/01 01:13 ID:SMC+lHgv
当時ですが、明治政府は金が無く、外にはロシアの内には士族の
プレッシャーがきつく、それを綯い交ぜにしてしまう征韓論もあり、
ちょっとした弾みで台征などをしてしまいましたのが私でございます。
しかし、招魂社といえば、こうした外国との戦いよりも、そのころから
予見されていた、薩摩との内戦のために作ったと言うのが正しいしょう。
なにせ、鎮台兵と言っても農民から駆りだす訳ですし、幕藩体制の
ころと比べて租税も上がり、暴動も怖かったのです。苦肉の策として、
鎮台兵が戦死したら招魂社へといのが、実情です。なにせカネが
かからないというのが、一番の魅力でした。
招魂社開設に際して、何度も藤原ふーさんが枕もとに現れ、お寺と
神社のペアでいくべしと、つまり廃仏毀釈はいけないと、また、皇軍
だけを奉るようなケチなのはもってのほかと、それから、名のある将軍
くらいにして、全員を奉るようなインフレ策はやめろと、何度も忠告を
頂きましたが、諸般の事情により、どれも達成できませんでした。
まぁ、このように神道の精神をないがしろにしてしまい、その祟りが
太平洋戦争で出てしまったと思うと、とても心苦しく思っております。
やはり「文化」と「伝統」には従うべきだったと深く反省しております。
こちらに来てから、西郷とはよく酒を飲みますが、初代の陸軍大将を
奉らぬばかりか、賊臣として扱いような根性はいけないと、いまだに
説教されている次第です。
昨今、靖国がもとで清国などと摩擦があるようですが、その当事者
として、深くお詫びする次第です。
大久保利通
170
:
カマヤン
:2004/10/17(日) 18:02
「いぶし銀」
昔から「いぶし銀」という言葉の意味が判らなかったので、検索してみた。
ところで「いぶし銀」という言葉を使っている人は、意味を判っていて使っているのだろうか?
日本にそんなに教養人が多いとは思えないのだが。
ところで「いぶし銀」が銀加工の一形態というところまでは判ったが、これを人間に対し比喩的に
用いると、つまり人間をどう形容しているという意味になるんだろう。まだよく判らない。
==========
http://www.zippo-flamingo.com/aboutzippo/hyoumen.html
いぶし銀とは硫黄をいぶしてすすで銀を黒く変色させた後、表面を磨くと凸部は磨かれて光り、
凹部はすすけた黒が残ります。このようにして立体感を出すのがいぶし銀と呼ばれる手法です。
http://www.boudicca.gr.jp/shop/silver/
いぶし銀仕上げとは、デザインに凹凸のある銀のアクセサリー等で、凹んだ部分が黒く、より立体的な
視角効果のあるもののことです。製作過程で硫化反応させて全体をわざと黒く変色させ、その後、
出っぱった部分をバフや銀磨き布で研磨して光沢を出し、凹んだ部分は黒いまま残しておくのです。
出っぱった部分の研磨の度合いを控え、全体的にわざと鈍い光り具合にしたものを「古美加工」とも
言います。いぶし銀はハガティ・シルバーダスター等で出っぱった部分だけ磨き、凹んだ部分の黒ずみを
落とさないように注意してください。ダスターを手に持って磨くと、手加減したつもりでも意外と深くまで
磨けてしまうので、テーブルなどの平らな面にダスターを広げて置き、アクセサリーの方を手に持って
擦りつけるようにすると、凹んだ部分は磨かれずに残ります。
==========
同様に意味が判らない言葉に「走馬灯のように」がある。
171
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/10/18(月) 07:03
>>170
いぶし銀は、銀加工の一形態「にも」ありますが、自然に黒ずんだ場合もそう呼びます。銀は放置していると自然に黒ずんできますので、常に手入れをする必要があります。手入れされた古い銀製品等は、つや消しの鈍い光かたをします(時間を掛けずにこのつや消しの光沢を出す加工方が「古美加工」です)。
一般的に「いぶし銀」と言われる場合、この「鈍い光を放つ銀」を指すと思われます。(年配の方に「いぶし銀」ってどんな銀? と聞くと、この答えがかえってくるでしょう)
さらに一般的に、テカテカ光る=ハデ、という認識が在る事から、いぶし銀は「一見地味(テカテカしてないから)だが、実際には力や魅力がある(銀だから)人物などの比喩」と考えてほぼ間違いないのではないでしょうか。
172
:
カマヤン
:2004/10/23(土) 00:47
>>171
亀レスになったけど、投稿ありがとう (´ー`)ノ
173
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/10/23(土) 22:19
>>172
>亀レスになったけど、投稿ありがとう (´ー`)ノ
いえいえ、お気になさらずに。
ちなみに、銀がいぶされて(或いは、自然に)真っ黒になった状態も「いぶし銀」と言います。
174
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/10/24(日) 16:12
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/lemonde/lemonde20021126.html
カリフォルニア大学のチャールズ・ヴィラのチームは、世界中に広がる27群から162の狼を選び、
それをコヨーテとジャッカル、それに67種の140匹の犬のDNA配列を比較した。その結果、DNA
ミトコンドリアは犬と狼ではわずか1%の差違しかないことが分かり、狼が犬の唯一の祖先であることが
確定されたのである。
その研究によれば、最初の野生の犬が出現したのは約13万5000年前、すなわち人間による
犬の飼い慣らしより10万年前とのことである。コヨーテのジャッカルは狼から派生したが、分岐は
もっと以前(約100万年前)と考えられ、犬とは関係ないとのこと。
しかし、どこで犬は狼から分岐したのか。これまたDNAミトコンドリアの出番である。ストックホルムの
王立科学研究所のピーター・サヴォレネン氏によれば、DNAの「コントロール領域」という部分で
突然変異の蓄積がなされるのであるが、それを東アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ極北からの
654匹の犬について調べたところ、凡ての犬でほとんど共通の遺伝的特徴が見られたが、驚くことに、
東アジアの犬において遺伝的な多様性が一番広く、一番進化していることが観察されたとのことである。
「これまでわれわれは中東地域で犬の家畜化が始まったと、考古学の発掘結果や他の家畜の多さ
から考えてがちであった」とサヴォレネン氏は言う。しかし遺伝子は一番信頼できるので上記の結論
となった。東アジアの人間はただ犬を最初に家畜化したばかりではなく、多くの違う種類の狼から犬を
ブリーディングすることもしている。だからこれは「突然変異の偶然」ではないとサヴォレネン氏は言う。
この犬の家畜化は約1万5000年前のことであると。
また、チャールズ・ヴィラ氏のチームは、アメリカ大陸の犬についても興味を持って調べた。アメリカ大陸
の犬はアメリカ土着の狼から家畜化されたものか、それとも犬としてアメリカ大陸に入ってきたものか
という点に興味を持ったのだ。これもDNA配列を調べると、旧大陸の犬も新大陸の犬も祖先は同じで
あることが分かった。だから犬は、最初にシベリアやモンゴルからベーリング海峡を渡ってアメリカに
入ってきたアメリカインディアンの祖先達と一緒に、約1万3000年前に新大陸に渡ってきたことが
分かった。かれは犬の家畜化は4万年前あたりだろうという。
175
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/11/11(木) 02:24
オッカムの剃刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、よりシンプルな方を選ぶべきである」
ここで使われている「剃刀」という言葉は、不要な仮説をそぎ落とすことの比喩である。
必然性のない無用な概念を排除しようとした「思考節約の原理」とも呼ばれるオッカムの剃刀の考え方は、
現代でも科学理論を構築する上での基本的な指針として支持されている。
http://research.kek.jp/people/morita/phys-faq/ockham.html
「オッカムのカミソリ」を、科学者にとって 最も役に立つ形に書けば、それは次の通り:
「 まったく同じ予言をおこなう2つの理論が手元にあったときには、 単純なほうの理論が、
よりよい理論である。 」
http://research.kek.jp/people/morita/phys-faq/ockham.html
警句のトリは、語り継がれるべき箴言の名手、かのアインシュタイン [Einquote]に委ねよう。
「 理論はできるだけ単純にせよ、限度ってものはあるが。 」
「 単純だけど、そのくせ間違った答えってのが、 難しい問題には付き物なのさ。 」
176
:
カマヤン
:2004/12/05(日) 02:38
「日の丸」って平家の旗だか、幕軍の旗だかだったなあ、と思って検索したらこんなの出てきた。
http://www.yoshiko-sakurai.jp/works/works_diamond_001209.html
> 過日、評論家で大学教授の松本健一氏に取材していた時のことだ。
> 話題が本題から離れて、なぜ、日の丸が日本の国旗かという話になった。氏の説明があまりに
>説得力があったため、改めて紹介してみたい。以下、松本氏の話のまとめである。
> 京都に今も残る五条大橋は、源義経が武蔵坊弁慶をやっつけた場所で観光名所のひとつに
>なっている。
>“京の五条の橋の上 大の男の弁慶は長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる/
>牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へ上がって手を叩く”
> 子どものころに歌ったこの歌にある牛若丸の扇は日の丸の扇だったというのだ。義経はそのまま
>壇ノ浦の戦いに出ていくが、その時源氏が平氏に対して掲げた旗は白地に赤の現在の日の丸だった。
>一方の平家が掲げていたのは、赤字に白の日の丸だった。
>「源平合戦で平家が勝っていれば、日本の旗は赤字に白の日の丸になっていたかもしれないのです」
>と松本氏はおもしろそうに語った。
これ自体は面白い話だ。
ところで鎌倉源将軍家は三代で滅び、その後は平氏北条家の時代が続いたんだな。
カマヤンの御先祖は桓武平氏で坂東武士だったから、源氏と平氏のどっちなのか綺麗に分かれないんだな。
177
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2005/02/15(火) 05:48:36
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/osen3.html
身近に存在する遺伝子汚染
水道水に含まれる発ガン物質
日本の多くの水道水には「トリハロメタン」と呼ばれる発ガン物質が含まれている。トリハロメタンは、水道水に塩素を加えて塩素処理を行う際に発生する有機塩素化合物である。
トリハロメタンは「クロロホルム」「ブロモジクロロメタン」「ジブロモクロロメタン」「ブロモホルム」と呼ばれる四つの化学物質の総称である。この四つの物質の中で発ガン性があるのはクロロホルムである。
クロロホルムは、腎臓や肝臓に障害を起こす作用があり、現在では麻酔剤としては使用されていない。その後、発ガン性もあることが、動物実験で証明された。
そのため、塩素処理をした水を飲んでいる人とそうでない人を対象に、消化器癌の発生率を比較する疫学調査がアメリカで行われた。その結果、塩素処理をした水を飲んでいると、男性で3.66倍、女性で2.23倍もガンの発生率が高いことが明らかにされている。
178
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2005/02/15(火) 05:49:32
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/osen3.html
発ガン物質に汚染された大気
急増するスギ花粉症
最近、スギ花粉症の患者が急増している。毎年春先になると、多くのスギ花粉症の患者を見かける。このスギ花粉症という病気は、今から30年前までは医学部でも講義されていなかった。このことは、当時の日本には、スギ花粉症という病気がなかったと言うことがわかる。
実際、日本ではじめてスギ花粉症が見つかったのは、日本中が東京オリンピックで浮かれていた1964年のことである。それ以前の日本には、スギ花粉症という病気はまったく存在しなかったのである。
ところが、1970年代後半になると、そのスギ花粉症が急速に増え始める。現在の日本には、1000万人を超すスギ花粉症の患者がいるといわれる。日本人の10人に1人がスギ花粉症の患者というのだから、今やスギ花粉症は国民病といってもいいほどである。
スギ花粉症はアレルギーによって起こる病気である。口や鼻から吸い込んだスギの花粉が鼻やのどの粘膜にくっつくと、体の中で免疫反応が起きて「IgE」と呼ばれる物質が作られる。このIgEがアレルギーを引き起こすことになる。
スギ花粉症の主な症状は、くしゃみ、鼻水、鼻づまりといった鼻のアレルギー症状と、涙が止まらない、目がかゆいといった目のアレルギー症状である。
その他にも、喉の痛みといった喉の症状、喘息や咳などの気管支の症状を起こすこともある。さらに症状がひどくなると、睡眠不足や無気力といった精神症状も出てくることもある。
スギ花粉症には、本当にスギの花粉だけが原因なのかという重大な問題がある。単にスギの花粉がスギ花粉症を起こす原因というなら、江戸時代や明治時代の頃から、スギ花粉症の患者がたくさんいないとおかしい。
しかし、1964年以前の日本には、スギ花粉症が存在したという報告例はない。しかも、驚くべきことに、わずか30年という短い間に、何と1000万を超す日本人がスギ花粉症に悩まされるようになってしまったのである。
ここにスギ花粉症に関する興味深いデータがある。スギ花粉の飛散状態が同じ程度の地域について花粉症の発生を比較した調査結果である。
調査は日光地区で行われた。その結果を見ると、トラックの交通量が激しい沿道地域に住んでいる住民のスギ花粉症の罹患率は、13.2%である。一方、交通量の少ない地域の住民は5.4%と、両者の間に二倍以上の差が認められる。
179
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2005/02/15(火) 05:51:08
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2989/osen3.html
こうした疫学調査の結果、スギ花粉症と車の排気ガスの間に、何らかの因果関係があることを示唆している。
そのため、さらに詳しい研究が行われた結果、スギ花粉症の原因がディーゼル車の排気ガスであることがわかってきた。ディーゼル車の排気ガス中に含まれるディーゼル排気粒子(DPE)がアレルギーを起こすIgE抗体という物質の産生を増強することが証明されたのである。
実際にディーゼル車のDPEを混ぜたスギ花粉をマウスに繰り返し注射すると、スギ花粉に対するIgE抗体が作られてくる。それに対し、スギ花粉だけを注射したマウスでは、スギ花粉に対するIgE抗体がほとんど作られないのである。
さらに驚くべき研究結果が1994年に発表された。ディーゼル車の排気ガスに含まれるDPEに発ガン性があることが、動物実験によって証明されたのである。
私たち日本人は、ディーゼル車から出されるDPEという発ガン物質による新しい遺伝子汚染の脅威にさらされているようである。
「あなたの遺伝子は汚染されている」 中原英臣・佐川峻 早川書房
180
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2005/03/06(日) 23:30:10
今週のオススメ - 社会人の心構え! マナー特集 -
http://picks.dir.yahoo.co.jp/weeklypicks/20050228.html
181
:
カマヤン
:2005/03/09(水) 01:59:38
>>180
スレ違いなような気がするのだが、投稿意図を説明いただけないだろうか?
182
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2005/04/13(水) 13:01:27
オンブズマン
ombudsman
〔名〕(複 om・buds・men, om・buds・women)
1 オンブズマン:行政機関に対する住民の苦情を聴取し,当局に必要な勧告をする.
2 (個人の権利の)擁護者[スウェーデン語]
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