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日本近現代史にわか勉強スレッド

1鎌やん:2002/06/27(木) 17:21
只今にわか勉強中なので、メモを書きこんでみるテスト

112鳥山仁:2004/01/17(土) 07:15
110さん>
最近、レスポンスが悪くて申し訳なし。

それはあり得ないです。
というのも、20兆円というのは単純戦費で、
この中には戦後復興のための費用は含まれていません。
戦争前での概算でも、戦争から復興までで、
概算で1兆ドル(約110兆円)がかかることが見こまれていました。

http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/colCh.cfm?i=t_takahashi36

http://tanakanews.com/d0311iraq.htm

しかも、110さんの説を採ると、
「特定の企業はアメリカ大統領を示唆して、
イラクと戦争を起こすだけの政治力を持っている」
事になります。

日本の反戦運動では、それが石油会社と軍産複合体、
ということになっているのですが、
これらの企業体の経営がアメリカの財政悪化と共に上昇した、
という話はついぞ聞いたことがありません。

ブッシュはクリントン政権下で蓄積された黒字を、
たった2年間で食いつぶしてしまいました。
しかも、アメリカ国内の経済状況は悪化しています。
そうしたお金が全て特定の企業に流れてしまったのでしょうか?

日本経済の問題もそうですが、物事はそんなに単純ではありません。

たとえば、日本にデフレーションを引き起こしている大きな一因は、
中国経済であって国内のハコモノ公共事業ではありません。
さすがに、どんな腐敗政治家でも、
経済悪化の直接原因が企業だった場合、
それを庇ってまで税金を注ぎ込むことは不可能です。
つまり、一国の経済の流れをコントロールできるような企業体は、
少なくとも日本には存在しません。

もうちょい考えてくださいな。

113・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/18(日) 02:29
>>111
スレ違いだけど、この作者の「紅一点論」はトンデモ漫画(と伝記)評論本ですな…
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480036660/qid=1074360453/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/250-3776447-9051434

114110:2004/01/18(日) 02:55
>「特定の企業はアメリカ大統領を示唆して、
>イラクと戦争を起こすだけの政治力を持っている」
>事になります。

特定の政治家およびその関係者は、特定の企業と密接な関係があり
その特定企業に有利になるように、戦争をしかけた可能性も捨てきれないと言う事なのですが。
また、常に戦争が出来るという事は無いでしょう。9.11があり、
かつ、共和党政権下だから出来た戦争ではないでしょうか。
ちなみに、秘密組織による秘密戦の可能性を否定している訳ではありません。
仰るとおり、物事はそんなに単純ではないでしょうから。

>戦争前での概算でも、戦争から復興までで、
>概算で1兆ドル(約110兆円)がかかることが見こまれていました。

リンク先のデータによると、概算では
数百億ドル/5年〜1.9兆ドル/10年と言う事でしたね。

ちなみに、鳥山さんが仰った

>イラクの国民総生産は最盛期でも350億ドル前後で、
>経済制裁を受けた以降は150億ドル前後、
>その大部分を石油輸出で獲得しています。

の、経済制裁の内容石油輸出の原則禁止ですので、
石油利権を150億ドル以下と見積もるのは間違いでしょう。

イラクの石油生産力は、日量300万バレル程と考えられてますので
石油価格は現在高騰(1バレル=35ドル)していますが
1バレル=25ドルくらいで計算すると、年間273億ドルです。
これなら、低い方の概算では充分元が取れますし、高い方の概算になった場合は
なんとか石油の取れる所だけ死守し、復興したと言い切ると思われます。

>つまり、一国の経済の流れをコントロールできるような企業体は、
>少なくとも日本には存在しません。

利権誘導政治家のやる事が、国家的にトータルとして赤字と言ってるだけで
特定の企業体が一国の経済の流れをコントロールしてるとはいっとらんですよ
デフレの原因はそりゃ中国でしょう。

あと、ハコモノ財政出動を否定してる訳ではないですよ。
経済状態に合わせた範囲で、かつ、作られる物が意味のある
ハコモノであり、それが市価に近いマトモな価格で作られるならば
全然無問題です。

なんか、スレ違いっぽくなってきてるので、この辺で失礼します。

115鳥山仁:2004/01/18(日) 05:31
110さん>
>特定の政治家およびその関係者は、特定の企業と密接な関係があり
>その特定企業に有利になるように、戦争をしかけた可能性も捨てきれないと言う事なのですが。
これが問題なのです。
何が問題かというと、「誰に最終責任があるのか?」という疑問を、
ぼかしてしまうという意味で問題なのです。
企業「にも」責任があるという言説は受け入れられます。
しかし、企業に「最終責任がある」という言説は異常です。
これは企業家、政治家、官僚を同一のカテゴリで視る考え方で、
とうてい受け入れられるものではありません。
一種の無限責任論で、裏返せばただの無責任を、
容認することになりかねません。

「経済戦争発生論」がトンデモなのは、
この受け入れがたい価値観を正当化する点にあります。
つまり、特定の経済状況になれば、
政治家、官僚、経済人が自然発生的に(あるいは運命論的に)
戦争を起こすので、戦争に荷担した全ての人間に責任がある、
あるいは全ての人間に責任がない、
という問題に議論がすり替わりやすいですし、
実際に反戦運動をしている人間の間では、
そうした意見が主流を占めています。

私がカマヤンさんに「止めろ、止めろ」と言っているのは、
彼の著作であるアニマルファームで、
「無限責任の厳しい倫理は、巨大な無責任へ転落する」
という丸山真男の言葉を引用しながら、
戦争問題では平気で無限責任論を振りかざしているからです。
(続く)

116鳥山仁:2004/01/18(日) 05:54
イラクに限らず、ここ10年程度のアメリカの戦争は、
「冷戦に勝ち残った唯一の超大国」という、
誤った自国への認識から発生しています。

もっと正確に言うなら、崩壊したソ連の兵器類、
軍事技術を中小国に持たせないし、
これを用いてアメリカの政策に反抗した場合は、
容赦なく叩くべきだという発想です。

だから、大量破壊兵器の有無が問題なのです。
また、フランスがイラク戦争に反対なのは、
自国も武器の輸出を積極的に行っているからでしょう。

以上の理由から、今回の戦争に責任があるのは、
「イラクに大量破壊兵器がある」という、
虚偽の報告を行った組織、あるいは個人と言うことになります。

ところが「経済戦争発生論」は、
このターニングポイントをぼやかしてしまうのです。
個人的には、元CIA長官のパパブッシュが、
息子に「戦争は止めろ」と警告しているのが、
全てを表していると思います。

仮に企業体が戦争を誘導しているのであるとすれば、
湾岸戦争の当事者が戦争反対を表明するでしょうか?
しかも、自分の権力地盤を引き継いだ息子に対して、です。

117鳥山仁:2004/01/18(日) 06:08
これと同じような欺瞞は、
太平洋戦争に負けた日本でも、ほぼ同様の形で発生しています。

それは、アメリカの石油禁輸政策が、
真珠湾攻撃を引き起こしたという「経済戦争発生説」です。
こういう説は、先制攻撃を行った国で、
しかも戦争が何らかの理由で上手く行かなかった時に、
責任逃れの理由で必ず発生します。

太平洋戦争の場合は、日本が戦争に負けたことと、
政治目的よりも戦術の奇襲性を重視した、
海軍がアメリカとの戦争を引き起こしたことを、
隠蔽する目的で流布されましたが、
アメリカの場合はどうでしょうか?

118鳥山仁:2004/01/18(日) 06:31
こうやって、責任所在を限定していくと、
日本におけるイラクへの派兵問題も焦点が合ってきます。
どうして、日本は大量破壊兵器の存在が無いと解った今でも、
イラクに自衛隊を送らざるを得ないのでしょうか?
どのような圧力が政府に働いたのでしょうか?

私は表現問題や人権問題に関わる限り、
組織体が引き起こした問題は、
あくまでも責任所在を追求すべきだと思います。
無限責任論、あるいはそれに近しい理論を、
規制反対派の立場の人間が唱えるべきだとは思いません。

というのも、同じ理屈が我々に降りかかってきた場合、
それを振り払うのが困難になるからです。

たとえば、ある漫画家が自己の空想をモチーフに、
少女に悪戯をするという、ポルノを描いたとしましょう。
そして、これを読んだとある男性が、
このモチーフを元に実際の犯罪を起こしたとしましょう。
また、その目的を達成するために、
ビデオカメラと大人の玩具を使ったとしましょう。

漫画家と家電メーカと大人の玩具製造業に、
果たして責任はあるのでしょうか?
これらの人々には、確かに利益は発生しているのですが。

119鳥山仁:2004/01/18(日) 06:45
「企業責任論」、あるいは「資本家責任論」は、
あくまでも倫理の範疇で語られるべきであって、
直接的な責任論へと発展させるべきではありません。

よく、兵器や薬物は、人に危害を加えることが、
物理的、あるいは因果関係的に証明されているが、
表現物はそうでないからシロだと言われていますが、
実際に被害が出ており、なおかつ責任所在が問題になっている場合は、
そうした指摘は重視されないようになります。

表現規制の問題も、同様の経緯で発生しているのではないでしょうか?
兵器の製造に携わる、あるいはそうした企業体の経営に関わるのが悪ならば、
ポルノの出版に関わる、あるいはそうした出版社の経営に関わるのも悪でしょう。

兵器を製造するのと、それを実際に使うことの間には、
大きな隔たりがあると考えるべきなのではないでしょうか?
少なくとも、私にはポルノと性犯罪と同程度の隔たりがあるように思えます。

120110:2004/01/18(日) 22:00
>鳥山さん

一連の投稿で、鳥山さんが言っていた「戦争の原因は経済ではなく
政治である」という主張がようやく分かりました。

「石油利権が無ければ、パパブッシュの警告を聞き入れた可能性もある」
「石油利権が無ければ、国連の決議に従ったかもしれない」
と言う程度には石油利権は影響してるかもしれないが、それが主原因ではない。
というカンジですかね。

凄くためになりました。理解が遅くて申し訳ない。

121φ(。。 )m@カマヤン:2004/01/19(月) 23:20
阿南惟幾 あなみこれちか 1887-1945
 陸軍軍人、陸軍大臣。大分県出身。明治38年陸軍士官学校卒業(十八期)、翌年歩兵少尉に任官。秀才型ではなく、陸軍大学校も三回目の受験で合格した。重厚誠実な純武人型軍人として声価を高め、参謀本部勤務、侍従武官、人事局長を経て、昭和十四年(1939)陸軍次官に累進、中国・満州の軍司令官を勤め、昭和十八年陸軍大将に昇進。昭和二十年航空総監から鈴木内閣の陸軍大臣に就任。ポツダム宣言の受諾の可否をめぐって、断固抗戦を主張する陸軍部内の少壮幕僚に突き上げられ苦悩したが、終戦の聖断が下ると、承詔必謹を唱え強硬派を慰撫し、八月十五日夜割腹自決をとげる。年五十九。
 出典;『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)27pより抜粋要約。

豊田副武 とよだそえむ 1885-1957
 海軍軍人。大分県出身。父は漢学の素養があって副武も素読を習う。明治十八年海軍兵学校卒業。砲術を専攻し海軍大学校を終えたあと、大正八年(1919)から約二年半、イギリスに駐在。戦艦「日向」艦長・軍令部第二班長・連合艦隊参謀長・海軍省教育局長を歴任、中将に進むと昭和十年(1935)、海軍省軍務局長に就任。日中戦争拡大に対し陸軍の無統制をつよく攻撃し、その反感を買う。昭和十二年第四艦隊司令長官となり現地で杭州湾上陸作戦・青島上陸作戦を指揮。青島では作戦中陸軍部隊と激しく対立し、その反豊田感情を決定的にした。第二艦隊司令長官を経て十四年艦政本部長となったが、対米開戦には反対。十六年大将に進み呉鎮守府司令長官。東条内閣成立前、海相予定で上京したが、東条英機の忌避により就任が流れる。横須賀鎮守府司令長官在任中の十九年、連合艦隊司令長官となり、マリアナから沖縄までの作戦を指揮。二十年五月に軍令部総長となり、終戦には米内海相とは異なる態度を示したが、陸軍のクーデターを防止するためであったと豊田は述べる。戦犯犯罪では無罪。昭和三十二年死去。七十二歳。
 出典;同前729pより抜粋要約。

122・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:20
 梅津美治郎 うめづよしじろう 1882-1949
 日本陸軍最後の参謀総長。大分県出身。明治三十六年、第十五期生として陸軍士官学校を卒業。翌年歩兵少尉に任官と同時に第一師団小隊長として日露戦争に出征。四十四年陸軍大学校を主席で卒業、参謀本部に配属、ドイツ・デンマーク駐在、スイス公使館付武官、軍務局課員、歩兵第三連隊長、参本課長、軍事課長と順調に累進、昭和五年(1930)少将に進級、参本総務部長を経て支那駐屯軍司令官時代には日本の華北進出の第一歩となった梅津・何応欽協定(昭和十年六月十日)を結び、一躍その名を知られた。緻密・冷静な事務家型軍事官僚の一典型だったが、二・二六事件勃発当初、動揺した幹部が多かった中で第二師団長としていち早く叛乱軍討伐の意思を宣明し、事件終結後の粛軍体制を固めるため陸軍次官に起用され、いわゆる新統制派の代表として軍政手腕をふるった。十三年第一軍司令官として中国戦線に出動、十四年関東軍司令官に転じノモンハン事件後の再建にあたり、この間陸軍大将に昇進。東条内閣崩壊により十九年七月参謀総長に就任。二十年九月ミズーリ号上における降伏調印式には大本営を代表して参列、A級戦犯に指名され、終身禁固を宣告された。服役中病気により、二十四年一月死去。六十八歳。
 出典;同前156pより抜粋要約。

123・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:20
 鈴木貫太郎 1867-1948
 和泉国に生まれ、千葉・群馬で育つ。明治二十年(1887)海軍兵学校卒業、二十二年海軍少尉、水雷艇艇長として日清戦争に参加。三十一年海軍大学校卒業、駆逐艦司令として日露戦争に参加。戦後、明石・宗谷・敷島・筑波などの艦長を歴任。海軍省人事局長を経、大正十二年(1923)海軍大将、十三年連合艦隊司令長官、十四年海軍軍令部長となる。昭和四年(1929)予備役となって侍従長兼枢密院顧問官に就任、八年間侍従長として天皇の側近に仕えたが、十一年の二・二六事件では重臣の一人として叛乱軍に襲われ重症を負う。同年侍従長を辞し男爵を授けられる。十五年枢密院副議長、十九年枢密院議長となる。二十年、七十九歳の高齢で小磯内閣のあとをうけて内閣総理大臣となった。鈴木は高齢であるのと、軍人は政治に関わるべきではないことを理由にして固辞したが、木戸幸一内大臣や近衛文麿らの重臣の多くは、天皇の信任の厚い鈴木に戦争終結の任務にあたることを暗に期待して、鈴木を推薦したといわれている。首相としての鈴木は、表向きは、「戦争完遂」を主張し、強硬な主戦論者をなだめながら、原爆投下・ソ連参戦をむかえて、天皇の裁断によるポツダム宣言受諾を選んだ。降伏決定後の二十年八月十五日内閣総辞職を行なった。同年十二月再び枢密院議長に就任し、新憲法草案を可決した二十一年六月まで在任。政治的野心も手腕ももたない誠実な海軍軍人であると広く認められていたが、それだけにかえって宮中の経歴が長く、敗戦という天皇制にとって最も重大な危局に、首相の任につくことになった。昭和二十三年死去。八十二歳。
出典;同前555-556pより抜粋要約。

124・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:21
 平沼騏一郎 1867-1952
司法官、政治家。美作国に生まれる。兄は経済史学者平沼淑郎。明治十六年東京大学法学部に入り(「明治十六年事件」で一時退学処分を受けた)、二十一年帝国大学法科大学を卒業。司法省参事官試補を命ぜられ、民事局勤務。判事試補として芝区・京橋区・東京地裁・千葉横浜地裁・東京控訴院部長を経、明治三十二年東京控訴院検事に。三十八年大審院検事に、三十九年司法省民刑局長に。四十年英独仏へ派遣、法学博士称号を与えられる。日糖疑獄の処理や幸徳事件(大逆事件)の取扱いで名を上げた。四十四年刑事局長、大正元年(1912)検事総長。大正三年シーメンス事件、四年大浦内相事件、七年八幡製鉄所事件で腕を振るう。明治四十年法律取調委員、大正八年臨時法制審議会副総裁に任命され、立法・法改正に参画。大正四年、東洋道徳学術の究明振興のため「無窮会」を創立。大正十年大審院長、十二年第二次山本内閣の司法大臣に。関東大震災直後に組閣されたこの内閣では重鎮の一人で、十一年に発布された「国民精神作興に関する詔書」に関与。この内閣は虎ノ門事件で辞職するに至る。無政府主義・社会主義の勃興に危機を感じ、大正十三年それまで東京帝大学生中心に組織されていた「国本社」を改組し社長に就任、司法関係者・軍人・財界関係者・官僚・学者などを会員とする国民精神作興のための大団体に成長させる。大正十二年「修養団」団長も引き受け、国本社の別働隊と見なされた。大正十二年日本大学総長に就任。十三年貴族院議員に勅撰されたが、枢密顧問官に任じられ、十五年副議長就任、男爵を授けられる。この前後から反政党的で「復古」的な「現状打破」をめざす閥として平沼閥が喧伝され、首班候補として話題に上るようになる。満州事変以後は軍部からも期待を受ける(海軍の加藤寛治、陸軍の真崎甚三郎と連携)が、元老西園寺公望は平沼の「右翼」的体質を好まず機会を得なかった。ジャーナリズムからファッショ的存在と見られたが、昭和七年(1932)内外にこれを否定する声明を発し、昭和十一年枢密院議長就任にあたり国本社会長を辞任、国本社解散。昭和十四年近衛内閣を引継ぎ内閣を組織した。「支那事変処理」を中心議題として掲げ、近衛内閣の「革新」政策は引き継がなかった。緊張した国際環境の中で、国内で対立する諸勢力の調整に苦慮したが、独ソ不可侵条約の締結を機に八ヶ月で総辞職。この時期から「現状維持」派と目される。昭和十五年第二次近衛内閣改造で内務大臣に就任。第三次近衛内閣には国務大臣として留任(十六年には「現状維持」派として狙撃され重症を負う)、東条内閣の成立に伴ない辞職。以後重臣の一人として重きをなす。昭和二十年枢密院議長就任。敗戦とともにA級戦犯として収監、二十一年東京裁判に起訴され終身禁固の判決を受ける。昭和二十七年死去。八十四歳。
出典;同前879-880pより抜粋要約。

125・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:21
米内光政 1880-1948
海軍軍人。岩手県に出生。明治三十四年海軍兵学校卒業。オーストラリア方面への遠洋練習航海を終え海軍少尉に任官、日露戦争には中尉として従軍、日本海海戦に駆逐艦電乗組として参加。砲術専門の海軍将校として進み大正三年(1914)海軍大学校甲種学生協定卒業。旅順要港部参謀のあと第一次大戦ではロシア駐在、革命勃興を体験。六年帰国して佐世保鎮守府参謀、軍令部出仕・同参謀となり、シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付を勤めた。九年大佐に進み、十年ポーランド駐在員監督となり、大戦後の東欧の実情を見聞。装甲巡洋艦春日・磐手・戦艦扶桑・陸奥の艦長を歴任。十四年将官に。第二艦隊参謀長、軍令部第三班長、第一遣外艦隊・鎮海要港部の司令官、第三艦隊・佐世保鎮守府・第二艦隊・横須賀鎮守府の司令長官を歴任、昭和十一年(1936)連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官となる。林内閣で海軍大臣に就任、十二年大将に任ぜられ、第一次近衛・平沼の両内閣に留任。昭和十三年から十四年までの第一次日独伊同盟交渉では、陸軍の同盟条約賛成意見に抵抗して反対し、交渉を流産させる。平沼内閣が退陣するとき軍事参事官に退く。十五年内閣を組織。海軍は現役に留まったまま首相就任を願望したが、米内は首相は文官であるべきだとの信念からみずから予備役に編入された。内閣総辞職後は重臣の一人となったが、予備役であるため実質的権限はなく、傍観者的な立場に立った。昭和十九年、海軍部内で米内を現役に復帰させ海相にしようとする運動が起こり、小磯国昭と並んで組閣の大命を受け、副総理的な立場で天皇の特旨により現役に復帰し海相に就任。鈴木内閣に留任。東久邇宮・幣原両内閣に留任、戦後処理にあたる。昭和二十三年死去。六十九歳。
出典;同前1147-1148pより抜粋要約。

126・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:21
東郷茂徳 とうごうしげのり 1882-1950
外交官。太平洋戦争開戦・終戦両時の外務大臣。鹿児島県日置郡に生まれる。明治四十一年、東京帝大文科(独文)を卒業。大正元年(1912)外交官・領事官試験に合格。大正二年領事官補として奉天総領事官に赴任、外交官補として在スイス在勤、公使館三等書記官となりベルリンに出張駐在。大正十二年欧米局第一課長。大正十四年大使館一等書記官、米国在勤。昭和四年(1929)大使館参事官、ドイツ在勤。昭和八年外務省欧米局長。内田外相に「国際連盟脱退後ニ於ケル帝国ノ対欧米外交方針」と題する意見書を提出。九年外務省欧亜局長。昭和十二年特命全権大使に任命されドイツ駐在。東郷の赴任後、日独防共協定の強化問題が起る。昭和十三年駐ソ連大使に転任。在任中、日ソ漁業交渉、ノモンハン事件停戦交渉、日ソ不可侵条約、日ソ中立条約締結交渉を進める。十五年松岡洋右外相より帰朝命令をうけ帰国、松岡の辞職勧告を拒否。十六年東条内閣の外務大臣兼拓務大臣に就任。十七年元旦、外務省員に早期終戦に努力すべしと訓示。同年、大東亜省設置に反対し、東条首相と激論、外務大臣を単独辞職。貴族院議員となり、二十年鈴木貫太郎内閣の外務大臣兼大東亜大臣に就任。五月中旬より秘密裏に終戦の仲介をソ連に求める。八月九日ソ連が対日参戦、同日長崎への原爆投下。東郷は国体護持のみを条件にポツダム宣言受諾を強く主張し、八月十日未明、同十四日午前、鈴木総理は再度聖断を仰ぐ。天皇は東郷外相の意見に賛成し、八月十四日夜、終戦の詔書公布。東郷は八月十七日外相を辞任。二十一年極東国際軍事裁判所に起訴され、二十三年に禁固二十年を言い渡され、拘禁中病気入院、二十五年米陸軍病院で病没。六十七歳。
出典;同前695-696pより抜粋要約。

127・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:22
近衛文麿 1891-1945
政治家。明治四十五年東京帝大哲学科に入学するが、河上肇らをしたって京都帝大法科に転じ、西田幾多郎・戸田海市らから影響を受けた。大正三年『新思潮』にオスカー・ワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載、発禁となる。五年貴族院議員。六年京大卒業、内務省地方局見習に。大正七年『日本及日本人』誌上に論文「英米本位の平和主義を排す」を発表、持てる国と持たざる国の対立という図式を公表。八年パリ講和会議に随員として出席。十年森恪らと憲法研究会を設ける。十年日本青年館を設立、理事長に就任。昭和六年貴族院副議長に。満州事変へ賛成表明。昭和八年貴族院議長。昭和九年日米関係の悪化を憂い訪米、アメリカの政財界の巨頭らと会談。十二年林内閣のあとをうけて第一次内閣を組織。日華事変が勃発するが、事変収拾に成功せず。事変との関連で軍部中心に推進された「革新」政策をおおむね実行、国家総動員法成立、国民精神総動員運動展開、「近衛新党」計画に関与。十三年陸軍が推進した防共協定強化問題をめぐり閣内に対立、十四年内閣総辞職。首相になった平沼騏一郎に代わり枢密院議長就任、平沼内閣の無任所相を兼摂。十五年、欧州戦線でのドイツの動きが活?になるにつれて、近衛新党への期待が高まり、木戸幸一・有馬頼寧とともに新党結成を決意、枢密院議長を辞任。七月、組閣の大命を受け、陸・海・外相予定者を荻外荘に招いて会談(荻窪会談)、枢軸強化、対ソ関係調整、日華事変遂行、対米英仏蘭方策、新政治組織の結成などを協議、第二次内閣を組閣。日独伊三国同盟締結、汪政権承認、十六年日ソ中立条約調印と、ほぼ荻窪会談の線で外交を進めたが、日米交渉をめぐり、独ソ開戦への対応をめぐって松岡洋右外相との対立が激化。新体制は十五年大政翼賛会として発足したが、「革新」派と「復古」派の対立が激しく、平沼・柳川平助を入閣させ、大政翼賛会から「政治性」を除去し、政府の外郭団体化するに至る。十六年第二次内閣総辞職、翌日再び大命は近衛に下り、第三次内閣組閣。対米交渉は緊迫していた。交渉打ち切りを主張する東条陸相と対立し、内閣総辞職。十七年ごろから早期和平のため陸軍皇道派と海軍を連携させ東条ら陸軍主流に代わらせようとし、吉田茂・小畑敏四郎・真崎甚三郎らと連絡をとる。二十年早期終戦を天皇に上奏(「近衛上奏文」)、七月天皇に召されソ連への和平仲介依頼特使を望まれ受諾したが、実現せず敗戦を迎える。十月マッカーサーから憲法改正の研究調査を示唆され、内大臣府御用掛として改正案起草に従事、十一月改正案を奉答したが、十二月戦争犯罪人容疑者として逮捕令が発せられる。十二月十六日自殺。五十五歳。
出典;同前428-429pより抜粋要約。

128・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:22
岡田啓介 1868-1952 
海軍軍人、政治家。福井に生まれる。日清戦争は少尉で出征。日露戦争では春日副長として日本海海戦に従軍。昭和二年(1927)田中義一内閣の海軍大臣、臨時艦船建造部を組織、造船会社を軍管理下に置き、金融恐慌で苦しむ造船業界を救済。翌年大臣を辞任、軍事参事官に。昭和五年のロンドン軍縮会議では、岡田は、政府・海軍軍令部・海軍省三者の間の斡旋に奔走、軍縮条約締結に寄与、政治的手腕を認められる。昭和七年斎藤実内閣に海相として入閣、森恪をとうして対政友会工作を行う。八月大臣を辞任、後備役に。九年内閣総理大臣兼拓務大臣。革新右翼から現状維持派として激しく攻撃を受ける。十一年、二・二六事件、奇跡的に殺害を免れる。十二年前官礼遇の沙汰があり、重臣の列に加わる。十八年以後戦局収拾を企図し、東条首相退陣に努力、十九年に重臣たちが申し合わせ東条内閣を総辞職させることに成功。二十年鈴木貫太郎内閣には、女婿の迫水久常を書記官長として送り込み、全面的に協力、影響力行使した。二十七年没。八十四歳。
出典;同前215-216pより抜粋要約。

迫水久常 1902-1977
鹿児島市に生まれる。大正十五年東京帝大法学部を卒業して大蔵省に入省。各地の税務署長を勤めた後、昭和九年(1934)岡田啓介首相の秘書官となり、十一年二・二六事件に際し首相官邸から岡田を救出するのに貢献。大蔵省理財局金融課長・企画院第一部第一課長・大蔵省総務局長・同銀行保険局長などを歴任、革新閣僚として知られる。昭和二十年鈴木貫太郎内閣の書記官長に就任し、終戦工作に奔走、終戦詔書の起草に参画。翌年公職追放、一時実業界に身を置き、昭電疑獄事件に連座したが無罪。追放解除とともに政界に入二十七年鹿児島一区から参議院議員に当選、以来現職のまま没するまで参院当選四回。自由党から自由民主党に所属、三十五年第一次池田内閣時に国務大臣・経済企画庁長官、翌年第二次池田内閣に郵政大臣に。党内では副幹事長・政務調査会副会長・参議院自民党幹事長などを歴任、参議院における自由民主党の中心的存在だった。昭和五十二年死去。七十四歳。
出典;同前467pより抜粋要約。

129・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/19(月) 23:22
高松宮 宣仁親王 のぶひと 1905-87
大正天皇の第三皇男子。幼称光(てる)宮。大正二年(1913)高松宮の宮号を賜って宮家を創立、勅旨によって有栖川宮家の祭祀を継承。大正十四年海軍少尉、昭和十七年(1942)海軍大佐に。昭和五年公爵徳川慶久の女喜久子(有栖川宮威仁親王の外孫)と結婚。同年ガーター勲章答礼使として渡英。太平洋戦争末期には終戦促進をはかって苦心し、戦後の皇室安定のため陰の役割を果たしたと伝えられる。昭和六十二年没。享年八十二。
出典;同前808-809pより抜粋要約。

130鳥山仁:2004/01/21(水) 12:50
110さん>
いえいえ。
お気になさらないでください。
戦争に関する事柄は、他の行政と同じで専門化しているので、
戦争に関して著作をものにしている人間ですら、
正確なことを理解していない場合があるのです。

たとえば、カマヤンさんが列記している人物の中で、
東郷茂徳はハルノートを改竄して天皇に上奏したという、
特級の戦犯に値する人物ですが、
日本では何故か軍部の暴走を止めようと努力した、
平和推進派の外交官だったという評伝が広まっています。
しかも、彼の悪評は戦後GHQが流したというおまけ付きです。

こういう官僚美化の言説がねつ造され続ける限り、
近代史の実像は歪曲されたままになるでしょう。
こうした方向を正すためにも、「経済戦争発生論」には、
どこかで終止符を打つ必要がありますね。

131・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/01/23(金) 23:56
法政大学大原社会問題研究所_大原デジタルミュージアム
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/museum/index.html

132magenta:2004/01/28(水) 13:43
デヴィ夫人関連情報
http://khon.at.infoseek.co.jp/chosha/t079.html

133magenta:2004/01/28(水) 18:29
デヴィ夫人
http://tv.2ch.net/geino/kako/998/998559103.html

134magenta:2004/02/04(水) 19:50
山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/410366701X/ref=sr_aps_b_3/249-3088417-5973125

135magenta:2004/02/04(水) 20:08
>>134関連

自民ハト派、再出発 休眠10年のAA研が活動再開へ
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/seiji/20040126/K0025201910002.html

大鷹(山口)淑子元議員はAA研所属議員の一人でした。

136カマヤン:2004/04/07(水) 09:23
 松本清張の『日本の黒い霧』を(上巻だけ)読む。ゾルゲ事件についての記述があった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167106027/qid=1081297029/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-9479339-9838607
 連想的に、ビデオ『スパイ・ゾルゲ』を見る。映画としては出来はよくなかったが、第一次大戦から
日本終戦までの略史としては判りがいい。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000CFB32/qid=1081297085/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-9479339-9838607
 webでゾルゲを調べてみる。いくつか面白いサイトを見つける。

http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/isidou.htm
> なかでも目をひくのが、陸軍省軍務局長の【武藤章】、(略)陸軍統制派の最も有力な人物です。
>この武藤が、ゾルゲをたいへん信頼していて、憲兵隊長を呼びつけて「ゾルゲ先生にあらゆる情報を
>提供せよ」と軍務局長の名で命令しています。(略)
>戦前のコミンテルンの最高幹部であり、戦後ソビエト共産党の最高幹部であったオットー・クーシネン
>という人がいますが、その奥さんかアイノ・クーシネンといいます。彼女はゾルゲのもとに配属され、
>三年間、日本で情報活動に従事します。(略)尾崎・ゾルゲ事件の調書をみますと、ゾルゲグループ
>のなかにイングリッド(Ingrid)という名前の人物が出てきます。(略)
>アイノの伝記(Aino Kuusinen.Der Gott Sturszt Sein Engel 一九七二年 邦訳 アイノ・クーシネン
>「神はその天使を破滅させる」一九九〇年 事情があって社会評論社は発売中止)が出てはじめて
>それがアイノ・クーシネンであることがわかった。(略)彼女が最も親しかったのが【秩父宮】だった。

 昭和天皇には弟が三人いる。秩父宮、高松宮、三笠宮。昭和天皇と弟たちは仲が悪い。
秩父宮は陸軍に所属していた。2.26事件は、昭和天皇を廃して秩父宮を新天皇にしようとするクーデター
だったという噂がある。
 「近衛上奏文」という、有名な文章がある。15年戦争末期、1945年2月に、近衛文麿が御前会議に
上奏した文だ。日本史上有名で重要な史料だが、まだあまり研究が進んでいない文章だ。
文章作成には殖田俊吉(戦後の大臣)や吉田茂が関わっているようだ。(続く)

137カマヤン:2004/04/07(水) 09:24
 「近衛上奏文」の論旨は、以下だ。

 1;日本の敗戦は必至だ。
 2;憂慮すべきは敗戦よりも、敗戦に伴なって起きる共産革命だ。
 3;共産革命の条件は揃っている。生活の窮乏、労働者発言権増大、英米への敵愾心高揚の反面
として親ソ気分、軍部内の革新運動、新官僚の運動。とくに憂慮すべきは軍部内の革新運動だ
〔カマヤン注;具体的には統制派を指すようだ〕。
 4;少壮軍人は国体〔天皇制〕と共産主義は両立すると信じている〔北一輝の論などを指すか?〕。
皇族にもこの主張に耳を傾ける方がいる。〔秩父宮のことか?〕 
 5;満州事変・支那事変を起こし拡大し、大東亜戦争に導いたのは、軍部内の計画による〔実際には
軍部内主導権はリレー状に、あるいは玉突き的にバトンタッチされ、一貫した計画が成立したわけではない〕。
満州事変の時、彼らが事変の目的は国内革新にあると公言したのは有名な事実だ。
 6;いわゆる右翼は、国体の衣を着けた共産主義者だ。
 7;一億玉砕を叫ぶのは、これによって国内を混乱させ、革命の目的を達そうとする共産分子だ。
 8;戦争終結の最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進してきた軍部内の「かの一味」
〔具体的には統制派のことらしい〕だ。
   出典;『外交資料 近代日本の膨張と侵略』(新日本出版社、1997年)380-383pより抜粋構成。(続く)

138カマヤン:2004/04/07(水) 09:24
 1945年2月時点で日本の敗戦を断言した有力者は近衛だけだ。暗殺対象になるのが怖くて、有力者たちは
皆空元気を述べていた。「労働者発言権増大」と近衛は述べているけど、そうかなあ? 「親ソ気分」と
いうのは奇妙な話だが、実際この後、日本政府は終戦の仲介としてソ連に期待している。ずっと日本の
仮想敵だった、思想的にも敵であるソ連に終戦仲介を期待する国際政治センスが不思議すぎるが、
そういう変な判断をした原因の一つとして、ゾルゲの存在があるのかもしれない。「近衛上奏文」時点では
ゾルゲは処刑されている。
 近衛文麿が「憂慮すべき軍部内革新運動」と呼んでいるのは、具体的には、統制派を指すようだ。
近衛文麿は皇道派と繋がりがあり、皇道派から意見を聞いた。皇道派は神がかっていて理性的判断が
できない集団だ。皇道派から見ると統制派は「共産主義」に見えたようだ。
 「満州事変・支那事変を起こし拡大し、大東亜戦争に導いたのは、軍部内の計画による」という言葉には、
皇道派による統制派への恨みと、吉田茂ら英米派による軍部への憎しみが渾然となっているように思う。
 そして近衛のブレーンの一人が、ゾルゲの協力者だった尾崎秀実だった。ゾルゲ事件は近衛にショックを
与えたはずだ。そのショックが「近衛上奏文」には色濃く反映していると思う。…だが、尾崎秀実は特高警察に
よってむりやりスパイ扱いされただけで、当人はスパイではないようだ。尾崎秀実への嫌疑は、特高警察が
捏造した事件だったようだ。
 余計な話だけど、「関特演」は関東軍特別大演習ではなくて「関東軍【特種】演習」が正しいそうな。
ふつう「関特演」と呼んでいて、正式な名称は学者の中で意見が分れていたが、近頃公式文書が
見つかって「【特種】演習」だと決着がついたそうだ。(続く)

139カマヤン:2004/04/07(水) 09:24
 上で引用したサイトは面白い。以下の文もある。
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/isidou.htm
>  横浜のように手荒なことをやれば、沢山の犠牲者が出る。犠牲者にしたてられた人は大変な災難です。
>まったく町を歩いていて、屋根から瓦が落ちてきたようなもので、偶然の災難ですけれども。しかし、
>政府は誰かを犠牲にしなければならなかった。それによってこの新しい思想の芽をいまのうちに枯らして
>おかなくてはならなかった。
> これが政府の方針だった。その証拠に、近衛文麿が最後に天皇に手紙を出します〔近衛上奏文のこと】が、
>そのとき、一番恐ろしいのは共産主義革命だといっている。何をたわけたことをいうのか、そんな革命を
>やるような勢力が当時の日本のどこにあるか、革命思想がどこにあるか。具体的に革命にむけての方針を
>もっている人間がどこにいるのか。何にもないのです。
> 共産党はリンチ事件やギャング事件で国民から見放されている。だからそれを恐れることはない。
>しかし、敗戦は必至である。敗戦になれば、いいまでの指導層は国民の信用を失って後退する。
>政治的真空ができる。そのときに新しい革命がおこっては困る。
> これを近衛は、天皇にむかって共産主義革命が起こるといったわけです。誰が共産主義革命を起こすか。
>たとえば、軍部を考えていたかもしれない。当時の軍部が、なぜ共産主義かわかりませんが、おそらく
>革新将校のなごりみたいなものがあって、国民を組織すれば、国民はそれに吸収される恐れがある、
>とでも考えていたのでしょう。
> 私は敗戦のとき、満州で捕虜にならずに帰ったのですが、除隊するときに、昨日までわれわれを犬畜生の
>ように殴ったりしていた将校が、「これからはお前たちの世の中になる」などといいました。
> いままで自分たちが酷い目にあわせていた連中が、こんどは主人公になるという本能的恐怖だと
>思われます。
(続く)

140カマヤン:2004/04/07(水) 09:25
 理論家としてのゾルゲを扱った以下のサイトも面白い。
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/sonter.htm
 学者としてのゾルゲと、スパイという響きに不一致感を覚えるが、ゾルゲは「公開資料」しか利用しなかったと発言しているそうだから、本質的に学者だったのだろう。
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C111252006/E1647782899/
 ゾルゲのキャラクターについて。
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage31.html

 以上、>>136-140、日記サイトに書き込もうと思ったら、文字数オーバーしたので、ここにポスト。

141magenta:2004/04/11(日) 10:29
小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記 皇族妃の見た明治・大正・昭和』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093870632/ref=sr_aps_b_/249-3088417-5973125

142・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/04/30(金) 12:53
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/itami_mansaku.html
   戦争責任者の問題  伊丹万作
 (略)さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)私の知つている範囲ではおれが
だましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、
それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や
官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらに
もつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が
残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいない
のである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、
いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえて
だますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互に
だましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、
さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的に
だます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(略)
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、
苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の
顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や
交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、
我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々で
あつたということはいつたい何を意味するのであろうか。(略)
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に
自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任
などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが
できなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を
等しくするものである。(略)

143・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/05/01(土) 06:06
日本人民に歴史の真相を理解させる 南京大虐殺写真展は今日から日本関西で開催
http://www.xmwb.com.cn/20040430/gjxw/200404300144.htm
4月30日 新民晩報
 今日、南京大虐殺写真展が日本の姫路地区で幕を開けた。これは日本関西地区の南京大虐殺写真
巡回展のうちの1つだ。展覧会は12個の構成に分けられており、主要内容は南京城陥落で、城内外の
掃討、難民収容所、埋葬された死体と被害者加害者の証言なども展示する。展覧会ではまた、
世界各国の南京大虐殺関連の歴史記録と専門書を展示し、そして会場の中では慈善バザーも行う。
華僑、学者達は展示期間中に講演会を開催し、それによって日本市民は更に深く突っ込んで歴史事実を
理解するのだ。
  開催地で準備中に右翼の激しい阻止活動に遭遇
 関西で日本軍国主義の罪悪の歴史の巡回展覧会を展示しようとすると必ずこの手の嫌がらせに遭う。
それは大阪、神戸を含む関西地区にはかねてから右翼勢力が比較的はびこっている地区なためだ。
各種右翼団体はここで意外と大きな地盤と影響がある。つい最近発生した日本右翼分子による我が
駐大阪領事館突撃突発的事件のほかにも、以前何度も右翼勢力は数十台の街宣車を展開し、侵略の
歴史を否定するの宣伝活動を行ってきた。その中で最も悪名高いのは、大阪で開催された南京大虐殺を
否定する反中国集会で、いくつかの右翼学者と団体は公然と「南京大虐殺は20世紀最大の嘘だ」と
わめきたてた。(中略)
  愛国華僑が日本の団体に協力をもちかける
 巡回展の提案者と準備者は有名な愛国華僑の林伯耀先生で、彼は旅日華僑中日交流促進会の
責任者だ。数十年来、彼は神戸の華僑総会などの華僑団体と日本の市民団体と提携し、歴史事実を
広めることに尽力、平和反戦、両岸の統一的活動促進、その真心がこもった国を愛する心と着実なる
精神は、中日人士の尊敬を深く受けられる。林先生は、南京大虐殺は中国民衆が日本軍国主義の
残虐なる蹂躪に被害を受けたシンボルで、右翼分子に反撃する最有力の歴史事実で、一部の極端な
分子による威嚇によって、私達が歴史の真相を更に多くの日本市民に伝達することを阻止することは
決して出来ないと語った。彼の組織と感化呼びかけの下、写真展計画は1歩ずつ着実に前進する。
 展覧会計画は日本の華僑団体、労働組合、平和団体の大きな協力を得た。関西地区の行政、教育、
文化、メディア、宗教の各領域の40個近くの民間団体が賛助した。兵庫県知事はわざわざ展覧会の
ために挨拶を書いた。(後略)

144・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/05/16(日) 20:35
  田中隆吉 『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122015359/qid=1084707223/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-7736389-0015451
 満州事変発生以後特に三国同盟前後より観念右翼の跋扈ははなはだしかった。
 彼らの多くは口に天下国家を論ずるも、概ね時の権勢に阿付迎合してその衣食の資を稼ぐを常とする。
故に一定の職を有せずして、自ら浪人と称する彼らの私生活は意外に豪奢 である。そのあるものは常に
羽二重の五つ紋の羽織を纏って白昼堂々と大道を闊歩する。
 口を開けば国家の安危を語り、意に充たざるものあるときは脅喝と殺人をもあえて辞せぬ」
 「日中戦争特に三国同盟の成立以後においては、彼らの多くはわが国の政治経済の実権を掌握せる
軍部に近づき、これに阿付迎合した。彼らの衣食と運動の資金は概ね軍あるいは これと連絡ある実業家の
手によりて供給せられた」
 「大東亜戦争の勃発に際し、軍部の内意を受けて、無知にして善良なる国民を煽動せるものは主として
彼らであった。中にはドイツ大使館より莫大なる黄金を運動資金として提供 せられたるものもあると
伝えられる」
 「内地における観念右翼に比し、さらに悪質なるものは大陸に進出せる右翼である。彼らが一部の
政治軍人と結託して中国民衆を搾取し、その私服を肥やせることは天下周知の事 実である。中には巨万の
富みを蓄えたるものすらあるとの噂もある。口を開けば天下国家を論じ、定まれる職なくして巨万を蓄え
得るとすれば、かって何人かが「乞食と右翼商売 は三日すれば止められぬ」と皮肉った言葉は、けだし
適評と言わねばならぬ」
 ある高級司令部では政治経済の監督の責任を有する特務班の幹部全員が相語らって、巨額の公金を
遊興の費に充てた。ある守備隊長は、富裕にして親日家たる華僑を惨殺して巨額の黄白(=金銀)を奪い、
これを土中に陰蔽して他日の用に備えた。ある憲兵隊長は、愛する女に収賄せる多額の金額を与えて
料亭を経営せしめ、その利益を貯えた。ある特務機関長は、関係せる女の父親に炭鉱採掘の権利を
与えた。ある中隊長は戦地における部下の兵の携行する写真により、その妻が美貌の持主であることを
知り、陸大受験のために内地に帰還するや、東京の宿にその兵よりの伝言ありと称してこの妻を誘い寄せ、
忌わしき病気さえも感染させた。

145・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/05/16(日) 20:35
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122015359/qid=1084707223/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-7736389-0015451
 賄賂は公行した。虐殺と掠奪と暴行は枚挙にいとまがなかった。私の親友遠藤三郎中将は、漢口より
兵務局の私宛に私信を送り来て、「高級将校にしてその心懸けを改めざる限り、戦争は絶対に解決の
見込なし」と憤慨した。
 内地においても、大東亜戦争の中期以後における軍隊の暴状は、あたかも外地に似たものがあった。
暴行もあった。収賄もあった。掠奪もあった。拳銃をもって威嚇し、人民の家屋を強奪したものもあった。
ある大隊長は民がひと月五合の酒に舌鼓を打ちつつあるとき、常に四斗樽を備えて鯨飲日も足らなかった。
国民が乳幼児と病人のため、牛乳の入手に多額の金を工面しつつあるとき、健康なるある連隊長は、
配給所に対し1日五合の牛乳の配給を強制した。国軍の将校を養成すべきある学校の高級将校は、
生徒に配給せられたる石鹸数百個をその家庭に運び、これを米麦と交換して一家の生活の資とした。
 ある兵工廠の経理官は、地方のボスと結托し、軍需品の横流しを行い、巨額の金を私した。熊本では
外出した兵が女学生を強姦した事件があった。しかもこれらはわずかにその二、三の例に過ぎぬ。
 海軍もまた、概ねこれと同工異曲であった。否、陸軍よりもさらに腐敗していた。呉の工廠では数年に
わたって工廠長以下が出入り商人と結托し、多額の収賄を行った事件があった。ある地方では、海軍の
兵が婦女子を強姦した。父兄が抗議すると、隊長は昂然として言った。「戦に負けて青目玉の子供を産む
よりよいだろう」と。
 さらに奇怪千万なるは食糧である。国民が一日二合三勺の主食の配給に、日に日に痩せ衰えつつある
とき、軍隊は戦時給養と称して一日六合の米麦を貪り食った。肉も魚も野菜も国民の配給量の数倍で
あった。国民が雀の涙ほどの配給に舌を鳴らしつつあるとき、ある師団の移転の際には、携行し得ざる
二百石の清酒が残った。大都市の民が、椀の底が早えるような雑炊を主食の代りとして吸い込みつつ
あるとき、高級官衛に勤務しある軍人及び軍属は、外食券を用いずして二十五銭の弁当にその腹を
膨らました。
 以上・関東軍参謀・羅南要塞司令官として終戦を迎えた田中隆吉氏(1893年生)の回想

146・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/12(土) 02:28
沖縄戦:日本軍の住民虐殺 自己規制で教科書から削除
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20040612k0000m040149000c.html
 太平洋戦争末期の住民を巻き込んだ地上戦「沖縄戦」で起きた日本軍による住民虐殺の記述が、
05年度用の小学6年生の社会科教科書から消えたことが、琉球大教育学部の高嶋伸欣教授らの
調べで分かった。高嶋教授は「文科省の検定前に執筆者自身が自己規制している可能性が強い」
と危機感を募らせ、08年度を目標に沖縄で執筆・編集する「沖縄版中学生社会科教科書」の制作
に乗り出す。
 検定教科書は5冊。このうち96年度以来3回の検定で住民虐殺に触れてきた大阪書籍の教科書
から「県民のなかにはスパイのうたがいで日本軍に殺されたり集団自決をせまられたりしたものも
いました」(02年度横注)との記述が消えた。これで5冊のすべての教科書から、住民虐殺のくだり
がなくなった。
 平良宗潤・糸満市史編集委員長によると、住民虐殺は45年6月、各地のガマ(自然壕(ごう))で
乳幼児が「泣き声で敵に見つかる」などを理由に、日本軍の命令で兵隊や家族に絞殺、薬殺、斬殺
されるなどの形で起きた。一般人の殺害も含めて沖縄県史や県平和祈念資料館(同市)の証言室
などでも広く紹介されている。〔略〕毎日新聞 2004年6月12日 0時42分

147・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/20(日) 06:10
 ”その八年前の一九二三年(大正十二年)九月一日、日本では関東大震災が発生した。
正力松太郎ら警察の扇動によって、朝鮮人と中国人が虐殺された事件にまぎれて、十六日に
甘粕正彦大尉が憲兵隊内で社会主義者の大杉栄を殺し、有罪となっていた。この大震災で
虐殺がおこなわれたとき、東京南部警備部隊の司令官をつとめていたのが石光眞臣だったが、
その妹・マツの夫は、橋本卯太郎であった。一九九七年現在の首相・橋本龍太郎の祖父である。
 朝鮮人虐殺は、なぜ起ったのであろうか。
 当時、一九一五年(大正四年)からすでに、陸軍軍医学校では、ドイツが第一次世界大戦で
使用した毒ガス兵器の効果を知っており、以来、衛生学教官の小泉親彦が主導して、
化学兵器研究室が設立され、毒ガスの研究に着手していた。
 その研究室が、関東大震災の地震によって大きな被害を受け、毒ガスの白煙もうもうとして、
内部は呼吸もできない危険な状態となった。小泉教官らは、何とかそれを処理したとされているが、
その直後、どこからか、東京の至るところで「不逞鮮人毒物撒布」の噂が流れはじめたという
ことであり、朝鮮人が井戸に毒をまいたという、この根も葉もない噂がきっかけとなって、
朝鮮人虐殺がおこなわれたのであった。誰がこの[毒物撒布]という悪質な噂を広めようと
思いついたのであろうか。
 ただちにこの井戸水検査を実施した組織こそ、小泉親彦が主導する陸軍軍医学校の
衛生学教室であった。のち、橋本卯太郎の義兄で、警備部隊の司令官だった石光眞臣が、
このような小泉らの働きに対して、感謝状を贈った記録が「陸軍軍医学校五十年史」に
記されている。こうして[朝鮮人と中国人]が[毒物撒布]の悪質な噂で結びつけられたあと、
満州・蒙古・中国・朝鮮での戦争を想定して、小泉らの化学兵器研究が大がかりなものに
なったのは、単なる偶然ではなかった。

148・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/20(日) 06:11
 この小泉親彦とは誰あろう、関東大震災の十年後には、陸軍軍医学校の校長となり、
翌年に軍医として最高位の軍医総監に出世した人物であった。その後、廃帝の溥儀を
祭りあげて満州を自在に動かしながら、細菌戦争と生体実験を実施した関東軍七三一部隊の
生みの親だったのである。七三一部隊の隊長に石井四郎を抜擢した男である。
 こうした陰惨な事件が続くなか、有罪となった甘粕大尉は、軍法会議で懲役十年の判決を
受けながら、長い刑期を終えることなく、誰の指示によるものか、わずか三年後の二六年
十月九日には仮出所してしまい、憲兵に庇護されて東京を脱出した。
 二七年七月、朝鮮から中国・奉天経由で、上海からフランスへ旅立った甘粕は、フランスで
澄田來四郎の世話になり、しばらくルーアンに住んだ。この澄田來四郎の息子が、われわれの
時代、一九六九年から大蔵省の事務次官として霞ヶ関を支配しはじめた澄田智であった。
 澄田智はその後、輸出入銀行総裁となり、一九八四年から日銀総裁として、
中曽根康弘内閣の金融政策を背後からとりしきった。その翌年、八五年にニューヨークの
プラザ・ホテルで、国際金融マフィアが日本を国際金融界から締め出すプラザ合意を決定したため、
日本経済界は、もてあます資金を海外に投資することができず、国内に株価暴騰・地価狂乱の
バブル経済を演ずるようになった。住専(住宅金融専門会社)に端を発した金融界の膨大な
不良債権など、日本経済の破綻が、この澄田総裁時代のプラザ合意からはじまっていたのである。
 その澄田智は、大蔵省の天下り人事を動かすボスとして、今日まで霞ヶ関に君臨してきた。
 甘粕正彦がフランスで智の父・來四郎の世話になったころ、甘粕が秘密結社のフリーメーソンと
関係しているという噂が流れたが、彼は一九一二年一月にフランスを出発すると、二月末に
帰国した。しかし二九年七月、今度彼が姿を表わしたのは、溥儀の清朝を生み出した
満州であった。その行動は、資金面で後ろ盾がなければできないことばかりで、謎に
包まれている男であった。[予言された二十一世紀/広瀬隆著]”
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087742873/qid=1072525172/250-4891459-0776206
毎日新聞は原子力の事で、反原発の第一人者のこの著者を最近盛んに非難していたが、・・・・・。

149・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/20(日) 07:47
第25代日本銀行総裁、大蔵事務次官     澄田智[すみたさとし]     (1916〜)    
http://www.sanbou.net/retsuden/sa/sumita.htm
 1916(大正5)年9月4日、群馬県生まれ。1940(昭和15)年、東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省、
海軍主計科短期現役第4期。1940(昭和15)年5月20日、海軍経理学校入校。9月9日、同校卒業。
セレベス島で終戦を迎える。1946(昭和21)年、大蔵省に復帰。1963(昭和38)年主計局次長、1965(昭和40)年
経済企画庁官房長、1966(昭和41)年大蔵省銀行局長を経て、1969年08月大蔵事務次官就任。
1972(昭和47)年から1978(昭和53)年まで日本輸出入銀行総裁、1979(昭和54)年12月日本銀行副総裁、
1984(昭和59)年12月17日第25代日本銀行総裁に就任(1989(平成元)年12月16日まで)。その他、
【財団法人日本ユニセフ協会会長】、財団法人国際協力推進協会顧問、財団法人野村マネジメント・スクール
理事、読売国際経済懇話会理事長などを歴任。

150・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/20(日) 07:49
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4620315893/250-4646827-7919448
 いわゆる官僚批判のように漠然としたに組織批判に留まる限り、痛痒を感じることがない権力者たちには、
著者の文化勲章批判のように固有名詞・具体的所業で責任追求する他ないであろう。
"The world is better off without you, Mr. George W. Bush, not Mr. Saddam Hussein" である。
 平成不況、デフレスパイラル・・・反省するにしても責任の多寡があるはずである・・・
 庶民にとってバブル経済とは、降って湧いたように突然起こり、気がつくと終わっていた第二次大戦の如く、
何ら決定権をもてず、時流に踊らされていたというのが実情である。 
 では、地価・株価の異常高というバブルなるイベントを積極的に引き起こした集団は、いったいどこに
潜んでいるのであろうか?  簡単である・・・
 ここに、第25代日本銀行総裁(1984(昭和59)年12月17日〜1989(平成元)年12月16日)【澄田智】
(元大蔵省事務次官)という人物を挙げる。
 円高容認、公定歩合引き下げによる内需拡大という名のバブルの発端から不動産融資の総量規制に
至るバブル崩壊まで、一貫して金融政策の最高責任者として君臨し、日本経済を不良債権づくしにした
エライ人:【澄田智】の来し方をマスコミは決して教えてはくれない・・・
 経済現象では、皆が損をすることなどありえない。日本経済に大損害を与えたジキル博士:澄田智に
連なる集団こそ、ハイドという裏の顔をもつ利ザヤ稼ぎをした集団ではなかろうか?
 "24時間働けますか?" "モーレツ社員"なるキャッチコピーで単身赴任までさせられ、懸命に稼がされた
我が国の貿易黒字の大半は、金利・為替レートを指先一つで変動できる灰色ならぬ真っ黒高官:
【澄田智】一派の口座を通じ、ウォール街を越え、ヨーロッパアルプスの彼方へと運ばれていったはずである・・・
 タックスヘイブンとは、なるほどエライ人たちだけの天国である。庶民には調べようがない・・・  
【澄田智】さん、いったい今どこで何をしているんだい?
 年金受給に絶望し、死ぬまで働かざるをえないのだと諦観した一庶民より・・・

151・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/06/20(日) 07:49
http://members.at.infoseek.co.jp/saitatochi/13.html
 泉井純一から絵画をもらった大蔵官房長の涌井洋治は、次期事務次官の最有力候補と言われてきたが、
涌井は95年に再婚して、この山下英明につらなる一族となった。
 橋本内閣の厚生大臣・小泉純一郎の義兄が、資源エネルギー庁長官の豊島格で、彼は 長官から
天下りしてアジア石油社長、コスモ石油副社長になった人物である。石油業界幹部を歴任したのだから、
豊島がその疑惑の高官である可能性がある。しかも泉井から政治献金を受けたのが、小泉純一郎であった。
〔略〕
官僚の次の高級職場を世話する"天下り人事"を支配してきたのが、前述の 石油公団総裁・和田敏信で
あった。
〔略〕
 「霞ヶ関の天下り支配者は、日銀総裁の【澄田智】だ」と言われてきた。澄田は、 - -  父親の代から
フランス財閥と不思議な関係を深めてきた。満州事変の黒幕だったその父の 後継者として、自らは
大蔵事務次官から84年の日銀総裁を経て、金融解放とバブル経済へと、 わが国を疾走させて最大の
黒幕であった。 - - 右翼の政商・児玉誉士夫らと組んで 第一銀行と勧業銀行を合併させた立役者が
澄田智であり、彼が後任に選んだ事務次官が、 鳩山威一郎であった。
 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 この【澄田智】が、金融界での天下り人事の支配者であり、和田敏信が産業界での 天下り人事の支配者
であった。
 そして驚くまいことか、大蔵省・澄田智の長女と、通産省・和田敏信の長男が、 -  結婚していたのであった。

152magenta:2004/08/09(月) 01:50
これはどうでしょう?

ジョン・ダワー著、三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000244205/qid=1091983758/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-1325262-4453013
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000244213/qid=1091983758/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-1325262-4453013

153カマヤン:2004/11/01(月) 09:37
  通州事件

 一九三七年七月八日早朝、北京郊外約三〇キロの豊台に駐屯する日本軍と、マルコ・ポーロ橋(中国名、蘆溝橋)近くに駐屯する国民党軍との間で衝突が起きた。〈略〉
 日本軍の総攻撃は、天皇の裁可を受け、中央から出た命令に厳格に従っていた。戦闘のわずか二日後には、日本軍は北京と天津を占領することとなった。そこにはイギリスとフランスの租界が含まれていた〔9〕。支那駐屯の任務を在留邦人保護から中国領土への占領へ変更したことで、昭和天皇は事件のエスカレーションに拍車をかけ、華北に新たな事態を招いたのだった。
 七月二九日から三〇日にかけて、「暴支膺懲」の名のもとに再編された日本の侵略政策を正当化するのに格好なタイミングで、新たな事件が起きた。北京東部に通州という城壁で囲まれた小さな町がある。そこは対日協力者の殷汝耕(冀東政府の代表)と【その中国人保安隊】(【日本により訓練された】)が支配していた。七月二九日から三〇日にかけて、この保安隊が反乱を起こし、日本の駐屯部隊主力が近くの北京、天津に出撃して無防備となった日本人居留地域を攻撃したのである。日本の北京、天津占領に激しい憤怒の雰囲気があり、それが反乱の引き金となった。学生、労働者の支持を得て、中国人の部隊は一八名の日本兵、九名の情報将校、三八五名の日本人ならびに朝鮮人の居留民のうち、女性、子どもを含む二二三名を殺戮した。
 日本では、通州大虐殺が激しい怒りと好戦的な雰囲気をつくりだしていた。新聞は「第二の尼港」〔〈原注〉ニコラエフスク事件=一九二〇年二月から五月、シベリア出兵時、黒竜江ニコライエフスク〔尼港〕の日本守備隊・居留民がロシアのパルチザンにより包囲され、全滅した事件〕と報じたが、【日本の華北侵略が非武装地帯から行われている】こと、そこで日本人や朝鮮人が華北の諸省へ【密輸】する【ヘロイン】や【阿片】を作っていたことに言及することはなかった。中国人による蛮行の真相を正しく伝えることをしなかったのである〔10〕。

〈原注〉
〔9〕藤原彰『昭和天皇の十五年戦争』青木書店、一九九一年、九二ページ。
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/417833fa4d0270102417?aid=&bibid=02273527&volno=0000
〔10〕江口圭一「蘆溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」『季刊 戦争責任研究』第二五号(一九九九年秋季号)、四ページ。http://www.jca.apc.org/JWRC/center/somokuji.htm

 出典;ハーバート・ビックス『昭和天皇 上』講談社、2002年、275-279p。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406210590X/qid=1099269175/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-9475508-4288344

154カマヤン:2004/11/01(月) 09:58
  通州事件 資料2

 一方、〈蘆溝橋事件が起きると〉華北では日本軍は七月三〇日までに北平・天津を占領した。その間の二九日冀東政権の保安隊が反乱を起こし、中国民衆も加わって、日本人居留民二二三名を惨殺する通州事件〈原補足〉が発生した。
 〈原補足〉保安隊は関東軍飛行隊に兵舎を誤爆されたことに憤怒して反乱したといわれる。また中国民衆は通州を拠点とする【日本のアヘン・麻薬密売の盛行】にたいして憤激を爆発させ、報復した〔23〕。この事件は日本国民の敵愾心をあおるために利用された。

 〈原注〉
 〔23〕信夫清三郎「通州事件」『政治経済史学』二九七号、一九九一年。

 出典;江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1991年。125p。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250910091/qid=1099270499/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/249-9475508-4288344

155・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/07(日) 11:54

2004年(平成16年)11月 7日
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=pol&NWID=2004110601003704
 米国が太平洋戦争開戦からわずか半年後の1942年6月、情報工作の一環として昭和天皇を
「平和のシンボル(象徴)として利用する」との計画を立てていたことが6日までに、CIA(中央情報局)
の前身の情報機関であるOSS(戦略情報局)の機密文書で明らかとなった。
 専門家によると、米国の公文書が天皇を「象徴」と初めて表現したのは、これまで確認された中では
同年12月であり、この史料が最も早い時期に当たるという。
 マッカーサー将軍がこの計画を知っていたことを示す文書も併せて見つかり、戦後日本の
象徴天皇制の起源を解明する上で極めて重要な手掛かりとなりそうだ。

156・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/07(日) 11:55
http://www.asyura2.com/0411/war62/msg/567.html
WA62 567 2004/11/07 04:51:25 投稿者: 木村愛二
 これは既知情報:すでに、詳しい研究書もあるが探す時間がない。
書名も出てこない。とりあえずの電網検索情報を示す。
1)------------------------------------------------------------
http://www.erc.nagasaki-u.ac.jp/(3)kouzaannai/(1)sennta-syusaikouza/(1)genngozemi/tuusin/gengo15.html
 [中略]酒井直樹は、最近、『文学』(岩波書店)に寄稿した「占領と国民主義」という短い論説の中で
興味深い事実を指摘している。
  日本占領のための合州国政府の計画はすでに真珠湾攻撃の翌年から練られていた。戦争中の日本の
東アジア支配の構想を横領するかのように、当時少壮の東アジア学者エドウィン・ライシャワーは戦争省
への提言のなかで天皇制を基軸にして日本占領を構想している。「慎重に計画された戦略にしたがって、
我々は思想闘争に勝利する必要がある。その第一歩とは、当然のことながら、日本国内の協力的な集団
を我々の側に引き入れることである。この集団が仮に、日本国民の少数部分を代表するものであるならば、
それはある意味で傀儡政権ということになるだろう。日本はこれまで傀儡政権を戦略として幅広く利用して
きたが、利用した傀儡が十分に機能しなかったために大きな成功をおさめることはなかった。しかし、
我々の目的にとっては、最良の傀儡を日本自身が産み出しているのだ。我々の側に喜んで協力させること
ができるだけでなく、中国における傀儡がつねに欠いていた、膨大な重みをもった権威をかれ自身備えもつ、
そのような傀儡が産み出されてきたのである。私が言わんとするのは、勿論、日本の天皇のことである。」
(「ライシャワーのメモランダム」)傀儡として利用するためには、天皇裕仁に戦争責任を帰してはならない、
と1942年の段階でライシャワーは主張していた。日本占領中合州国は、日本の人民から「日本人の自覚」の
基となる国民的伝統や国民文化の感覚を奪おうとはせず、天皇は国民的統合の象徴として「日本人全てが
一体である」という情緒を支える制度的な保証として温存された。ということは合州国の日本占領の構想
では、日本人の国民主義は何よりも占領のための道具の役割を果たしていた。ライシャワーの構想が直ちに
合州国の占領政策に結実したわけではないが、その後の歴史はそれが基本的に彼の構想と矛盾すること
なく展開したことを教えてくれる。                           (『文学』2003年 9-10月)
 酒井は日本占領が「巧くやれば、露骨な植民地支配の体制を作らなくても、国民国家の領土の外にある
地域により有効な支配の、いわば、生きた証拠」であり、イラク占領と平行的に米国政府内で論じられている
ことをふまえて、上記の小論を書いている。

157・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/07(日) 11:55
http://www.asyura2.com/0411/war62/msg/567.html
2)------------------------------------------------------------
http://www.php.co.jp/bookstore/serial/12/12_1.html
 [中略]保守合同の後、社会党が選挙で第二党になったことがある。当時、駐日大使のライシャワーに
インタビューしたジャーナリストが、「今度の総選挙で第二党になった社会党が次の選挙で第一党になり、
非武装中立を実行したらどうしますか」と質問した。すると、ライシャワーは「すぐにアメリカ軍は日本に進駐
します」と答えている。つまり、講和条約を結んで日本が独立国になったのだから、勝手に非武装中立を
宣言しても仕方がないと見るかと言えば、アメリカは見ないと言っているわけである。そして、もしそんな
政権が出たら、講和条約を破棄して、直ちに再占領すると大使が明言したのである。
 なぜ、日本の非武装中立をアメリカが認めないのか。日本を非武装中立にしたら、ソ連が入ってくるに
決まっているからだ。当時のソ連は極東軍を増やし、ポート・ツー・ポートで日本に上陸する力を持っていた。
ポート・ツー・ポートというのは、海岸で戦争しないで港に輸送船をつけて上陸する力があるということだ。
日本がソ連の支配下に入ることは、アメリカにしてみれば座視しがたい事態である。 [後略]

158φ(。。 )m:2004/11/20(土) 05:03
http://dion.oem.melma.com/mag/67/m00037767/a00000128.html
里見甫 出身地:福岡県
小倉市生まれ。戦前の経済人。東亜同文書院を出て、そのまま中国にいて新聞記者になるが、当時の関東軍参謀副長の板垣征四郎少将にから、財源確保の為にアヘン売買の仕事を頼まれる。彼は満州国の建国思想の五族協和に共鳴し、その仕事を引き受け、以後深みにはまっていくことになる。そして、和平を唱える汪兆銘をたて蒋介石に対抗する南京政府の資金として、今の金で五千億円というアヘン売買の取引をしている。戦後、戦犯として逮捕されるが釈放。戦後総理大臣を務める岸信介のスポンサーでもあった。

『其の逝く処を知らず』西木正明・集英社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087477177/qid=1100894140/sr=1-2/ref=sr_1_0_2/250-7275898-9788206
 里見機関。戦時中、中国にあってアヘン密売に手を染めた秘密組織。元締めは里見甫(はじめ)。別組織のボスが児玉誉士夫。ジャーナリストの時陸軍将校と縁を深め、満州国とおう兆銘政権を維持するための膨大な裏金作りという影の仕事を担っていく。この過程で、影佐禎昭、岸信介、古海忠之、野坂参三、さらに重慶や延安の工作者、米軍諜報機関OSSなどと接触している点で貴重な人士となっている。

159カマヤン:2005/03/05(土) 03:28:28
>>153-154の続き
「通州事件」への視点
http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html

160・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/05/02(月) 22:53:01
京都大学文学部基礎現代文化学系現代史学専修講義
日本現代史序説講義ノート
担当:永井 和
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/josetu/menu.html#2001

161へなちょこ:2005/05/10(火) 23:27:35
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/office/sitemap.html

超天才 電脳 哲学家 純丘 大先生の 偉大なるHOMEPAGE!
なんつーセンスの看板だと思わずに資料としてはいいものもある。
サイト下のほうにPDFだが
日本の経済社会構造とヤクザ− − 流動的産業支援寄生組織
という資料は保存の価値あり。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/paper/hpaper/1992yakuza.pdf


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