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ネット・ウヨサヨ論
134
:
カマヤン
:2003/06/04(水) 03:05
右翼の反戦
1
1951年のサンフランシスコ講和会議、1952年の講和条約発効によって日本右翼は
勢いづいた。辻政信元大佐、只野直三郎らは国会に進出した。
陸海軍旧職業軍人は、偕行会、水交会を結成し、新国軍建設への布陣を整備した。
2
しかし旧右翼人の精神的基礎である天皇が動揺し、政治的経済的掩護物だった
軍隊と財閥の復活が正調に戻らず、旧右翼陣営の整備は進捗しなかった。
特に、農村青年の再軍備反対熱は意外に強く、旧東亜連盟の主体勢力の継承者
である武田邦太郎らの協和党が再軍備反対を強く―あまりにも強く打ち出していたのは、
故石原莞爾の遺志によるというよりは、これら農村青年の覚醒ということに、より多く
客観的根拠をもっているといえる。
一時旧「勤皇まことむすび」の本間憲一郎が再軍備反対であると伝えられたのも、
青年層の意識の反映であったとみられた。織田正信の救国青年連盟がはじめ再軍備
反対を唱えたのも、また渡辺捷三の民族新生運動が、“アジア人はアジア人を打たず”
などといったりするのも、同様の理由にもとづいたのである。
出典;木下半治『日本右翼の研究』(現代評論社、1977年)168-169頁から構成。
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