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自覚スレ
305
:
名無しさん
:2019/05/18(土) 20:49:10
お久しぶりです、以前skypeでお世話になった高橋です。慧空さんとの最初のセッションの中で鬼和尚が提唱されている「無認識」という悟りの段階があるらしいと私は言いました。
なんですが、一度「慧空さんが無認識になれるかどうか」試していただけないでしょうか?
一応無認識について鬼和尚が説明されている記事を下に貼ります。
下のリンク先のブログで赤文字で大きな文字で書かれている箇所です 。
http://onioshyou.blog122.fc2.com/category3-5.html
鬼和尚自身、無認識という目覚めの段階は彼自身が認識を厭離(=無認識)した後、非二元の本を読み漁って自身の体験と照らしてそのような目覚めの段階がある、と認識したそうです。そして「無認識」を大悟、「無我」を小悟として無認識を目覚めの最高の段階として提唱しています。
私自身としては慧空さんが無認識へ至っても至らなくても関係ないのですが、もし無認識という段階が「確かにある」なら慧空さん目線とてつもなく大きな見逃しをしていることになる、と感じたので今回話を伝えに来た次第です。
鬼和尚は無認識という段階へ至るにはまず観照が起こり無我に至り(この段階は慧空さんはクリアしていると思われます)その後、認識の働く作用を観察すれば認識(阿頼耶識)が厭離(手放し)されるそうです。
認識の働く作用というのは例えば目の前のりんごを「りんごだ」と瞬時に記憶と照合し認識する作用を観れればいいそうです。
認識を観察できる段階であろう慧空さんならこれほど簡単なことはないと思いますので、「無認識」という段階があるのかどうか一度トライしてみてはいかがでしょうか?
鬼和尚が「認識を観るとはどういうことか」を解説している箇所をネット掲示板から引っ張ってきました、下に記載します。
「何かを観たり聞いたりすれば、その特徴から記憶が照合されるのがわかるじゃろう。
それが認識されることとされているのも気づくのじゃ。
無我であればもはや認識の働く早さに関係なく詳細に観られるのじゃ。
記憶から認識したということもわかり、それを認識としていることもわかるのじゃ。
実際には記憶を観ていると気づくのじゃ。
言葉通りではないがのう。
実践によって確かめるのじゃ。」
「例えば感覚を観察し、厭離する時、その機能を観察し器官を観察しその働き等を観察するということをするのじゃ。
視覚ならば目という器官を観察し、目による機能を観察し、見るという領域等を観察するのじゃ。
そのように詳細に観察して厭離も起こるのじゃ。
認識もその通りに認識するものと、認識の働きと、認識の働く領域等を観察すれば完全に厭離できるのじゃ。
人によっては半分でも観察することで認識にきづき厭離が起こることもあるじゃろう。」
とのことです、無我にならないと自我(鬼和尚は自我という言葉を自己同一化の観念と定義しています)が障壁となり認識の働くプロセスを観ることはできないが、無我になれば(観照が起こってしまえば)容易に認識の働くプロセスを観れるそうです。
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