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自覚スレ
276
:
武
:2018/12/13(木) 03:29:21
原始仏典の悟り(慧解脱)は真我(アートマン)の別称です。
これを否定されてしまうと、
私の意志脱落の境地は根底から成り立ちません。
ざっくりとその本質は、不可知、非対象化です。
気付く者と気づかれる対象、
このような技巧的な妄想で構築された本来余分なものは
私にはありません。
すっきりと、不可知、非対象化のみ、それ以外は余分なものです。
ヤージュニャヴァルキヤ
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
>15. いわば二元対立というものがあるならば、
>その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
>その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
>その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
>その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。
>
>しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
> 彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
> 彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
> 彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
> 彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
>
>この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。
>
>この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
>捉えることができない。捉えられないから。
> 壊れることがない。壊されないから。
>こだわりがない。こだわらないから。
>つながれず、動揺せず、損なわれない。
>ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
EO氏 はみだしQ&A集(EO):2
>ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。
>これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。
>
> 『不可知、只在あるいは只不在』と。
>
>だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年
>も40年も言い続けた。しかし『悟りは、絶対に知り得ない』、
>というその結論は、それを全身全霊で知ろうとした、
>彼らの苦しい地獄のような葛藤こそが割り出した結論なのである。
http://www.mumyouan.com/e/eoa2b.html
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