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悟り以外のいろいろなこと

166あなわ:2015/12/26(土) 12:02:58
悟りを開いたという覚者が落ち入るケースとして、一番多いのが①悟りを開いたという信念。でしょう。
従って、覚者が覚者を痛烈に批判する場合は、その覚者は悟りに至ったという、信念、絶対的確信という囚われから抜け出していないはずです。

確かにその経緯は事実なので、それが確信となるはずです。おそらくはその確信、信念がまだ残る囚われなのでしょう。私が思うに、推測ですが悟りには3つの入り口がある可能性をみてます。

一つ目はマインド、二つ目はハート、三つめは丹田です。この3つのチャクラは本気になった時はそれぞれが呼応している気がするよーな気がします^^;
これはまあ、わかりません。可能性としてあげときます。

次に落ち入る可能性として②今、この瞬間以外の何かを認めたり、意識、感覚、境地に浸る。
この瞬間とは現実世界の今ですから、悟ったら目の前の世界が消えてなくなるわけではないでしょう。何時も通り朝起きて、身支度をして電車にでも乗って職場に向かうとします。現実は現実として今確かにあるわけですから、絶対的真実なはずです。それ以外を認めたり、浸ったり、意識したりすると、つまりそれ、に囚われる事になります。つまりそれ、がそれという囚われなんです。
これが思考のワナなので、覚者に限らず、全ての法の人は気をつけるべきと思います。
私はこのワナを思考の影武者と呼んでます。
これが絶対的確信や信念のなかで影のようにぴったりと一体化している為、解ろうはずもありません。沢庵禅師が古歌より「思はしと思ふも物を思ふなり、思はじとだに思はしやきみ」と戒めているのはこの事かと思います。

いづれにしろ、悟る瞬間は無念無心の境地に達した可能性があり、瞬時の事なので認識できていない可能性もあるのではないか?無念無心なので認識出来るわけがないはずです。認識している時点で無念ではないはずですから。という事は、悟った後も、悟った事による、信念、確信、意識も、同じ原理で落とす事になると考えられます。この無念無心がミソだと思います。今、瞬間の境地にいると何故今まで今に生きられなかったのか不思議でならないのです。しかしその心境は無念なのでそれを探った瞬間に今は消え去ります。

つまり最終的な解脱とは、この無数の思考のワナを超えて、それすら捨てさった時、悟りの終息にして解脱となるはず。捨てるものも無く、悟るものもない。そして残るのは今すら認めない純粋な今のみ。縁によっては慈悲となり、法に触れれば怒りとなり、自由自在にして何者にも囚われることのない境地。かもしれません。
以上、私の推測する仏法の解脱でした(^^)


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