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悟り以外のいろいろなこと

157あなわ:2015/12/18(金) 23:38:31
名無しさん

じゅんころさんは悟ってる感じですね。

今悟りのバーゲンセールのようですね(^^)
問題は、悟後の修行。。これがこの時代の課題となるのではないか。

私は悟ってもいませんが、法理はなぜかよく
わかりまして、なぜわかるのかと疑問に思ってましたが、理由がわかりました。多分ですが、私は、絶対苦の境地、無限大の愛の境地、今瞬間の境地。

全て経験してるから理解できるのかも知れません。
仏教の絵本を子どもの頃みたとき、釈尊の中道の話、張りすぎた糸も緩み過ぎた糸もよくない。だからわたしは中道をいく。みたいな話が記憶に残ってるんです。
なぜか昔から中道が引っかかってました。

この中道とは、つまり絶対苦でも至福の境地でもない、今、この瞬間を指すのではないかと。
瞬間の境地などは誰もが経験してる境地でしょうから特に気にも止めませでした。

今、この瞬間とは、今この瞬間しかないではないか、他に何があるのかと確信がある境地です。

仏法ではこの、今この瞬間をも今だと認識しませんがそうすると、純粋な今に目覚めるはずです。
そして仏法ではその純粋な今以外は魔境としますので、超現実主義といえます。

その落とし方ですね。それが私は悟ってないんでわかりませんが老師は、今を認めない今を只生きる、只管を只管で破るとか言ってました。

心境はなーんも無いらしいんですが、今の縁によって慈悲となり、怒りとなるだけだとか。

悟りとは巨大な信念になるらしく、悟後の修行というぐらい大変かと思います。ここからは推測ですが、

認めない。とは触らないとも言い換えることが出来ると思います。例えば、怪我をしてかさぶたになったとします(つまり何か認めている対象)認めるとはかさぶたを剥がし続け血がでるようなもの(苦)。解脱とは全てを手放す事。つまり認めなければ(かさぶたを放置)自然にはがれ傷あともなくなり完治する(解脱)捨て尽くすとはこのような方法をとるのではないか。

釈尊の境地とはここまで捨てきる事ではないかな。従ってすい空さんは結構正しい事を言っているとは思います。確かに至福や愛、その素晴らしい境地を語るのも一方に寄っているからです。悟りや信念が落ちてない可能性がある(それが実は囚われなので本質的に自由ではない)

しかし、すい空さんの場合、最終的に残るという苦があるとのこと。これを捨てきれば、仏法の解脱と一致すると私は思います。だから是非それにチャレンジして頂きたいのですが、私も解脱してませんから恐らくは、多分、という推測に終わってしまいます(笑)自分が解脱して立証するしかないですね。


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