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悟り全般に関すること
658
:
慧空
:2015/04/26(日) 16:53:54
仮定の話は、私は嫌いです。
たらればの考えは、いくらやっても殆ど意味がありません。
ですから、牢獄中での極限状態についても、実際にそれをリアルタイムで体験しているのでなければ、考えても無意味です。
泣き言はいくら言ってもいいんですよ。
私自身も泣き言や、悪態はいろいろ言ったりやったりしてきました。(^o^)
苦しいときは、ジタバタともがき苦しむものです。
それはそれでいいんです。
ジタバタと悪あがきをしながらも、どこかでその困難な状況や苦しみに向き合っていればいいんです。
そして、何らかの納得が得られるまで、逃げ出さ出したり、放り出したりしなければいいんです。
逃げ出したり、放り出したりすると、多くの場合、また同じようなことの繰り返しになります。
しかし、多くの人はそれが出来ないんです。
みんな逃げ腰で、表面的な判断で、楽な方、楽な方への安易に行動します。
それではダメなんです。
取りあえず、これでお答えとさせていただきます。
気が向かれたら、いつでも書き込みしてください。
大歓迎です。
659
:
st
:2015/05/03(日) 18:22:45
ああ、慧空
私はあなたをとんでもないカルト野郎だと思う。
あなたは自身が陥った欠落を言葉巧みに教えているに過ぎない。
あなたは涅槃に入るが、代償が大きすぎる。
あなたはトラップにかかっていると思う。自覚ワーク?そんな
ブラックなものに囚われているあんたはやはり新興宗教者だ。
660
:
st
:2015/05/03(日) 18:26:38
それに、あなたが私と名指ししたコメは名無し以外
すべて私のコメントではない。
あなたは何も見えていないんですよ。節穴です。
あなた涅槃に入る。それだけが真実です。
661
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:29:48
stさん、こんにちは。
こりゃまた言いたい放題ですねぇ。(^o^)
まあ、ブラックだろうが、新興宗教だろうが、
なんと言われようといいんですが。(^o^)
特にお返しする言葉はありません。
どうぞお好きなように仰ってくださいな。
662
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:32:10
>それに、あなたが私と名指ししたコメは名無し以外
>すべて私のコメントではない。
そうだったのですか。
それは大変失礼いたしました。
すみませんでした。
仰る通り、私の目は節穴です。
663
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:35:44
>あなた涅槃に入る。それだけが真実です。
う〜〜ん、これについてはどうかと思いますよ。
涅槃がどういうものなのかよく分かりませんし、
これが真実だと言えるものもないですから。
664
:
st
:2015/05/03(日) 18:38:17
教祖になろうとするな。
あんたの教えは穴だらけだ。
言いたいことはそれだけ。
後は自覚して自身で考えろ。
あと、コメ読んでると子供への虐待癖があるな?
それだけは絶対やめろ。
665
:
st
:2015/05/03(日) 18:41:12
あなたが思っている涅槃に入るんですよ。
他のものが入る涅槃ではない。
666
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:45:09
>教祖になろうとするな。
私が教祖になろうしているように見えますか?
そう見えると言われたら、返事のしようがないですが。(^o^)
>あんたの教えは穴だらけだ。
stさんにはそう見えるのですね。
>あと、コメ読んでると子供への虐待癖があるな?
それだけは絶対やめろ。
どういう行為を虐待というかは主観によるところでしょうね。
それに、仮にそれが虐待だとしても、どうしてやめろ必要があるのですか?
私の行為を虐待として捉え、そして絶対やめろと仰る、その考えは誰の考えですか?
667
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:47:19
>>665
私にはもう、これが涅槃だというような考えがないんです。
涅槃がどういうものか、少し分かったような気になっていた時期も確かにありましたが、
いまはもう本当に分からなくなっているんです。
668
:
st
:2015/05/03(日) 18:50:46
そう、あなたが言う二元論だ。子供を虐待するのは間違っている。
ごく当たり前の捕われだ。
あなたは大悟に至ったいう感慨で、子供を行楽に連れて行くこともやめ、頭を
衝動に忠実に蹴り倒す。
これが虐待でなければなんなのだ?
669
:
慧空
:2015/05/03(日) 18:57:37
>あなたは大悟に至ったいう感慨で、子供を行楽に連れて行くこともやめ、頭を
衝動に忠実に蹴り倒す。
ちょっと偏った思い込みをされているようです。
頭を蹴っ飛ばしたりもしますが、子供の遊びにつきあったりもしていて、
ある程度はいろいろやってるんですよ。
いまさっきだって、子供を回転寿司に連れてってきましたし。
670
:
st
:2015/05/03(日) 19:02:18
あとは私とあなたのやりとりを他者がどう思うかに任せます。
埒が明かない。
671
:
慧空
:2015/05/03(日) 19:16:05
>埒が明かない。
はい、まさにそうですね。
ただちょっと、このやり取りを読まれる方に対して少し補足しますね。
そもそものところ、やっちゃいけないことや、こうあるべき等の否定的または制限的な縛りはないんです。
そういう否定的な考えや制限的な考えが、私たちを縛っている囚われなんです。
やりたいように、思うように行動すればいいんです。
しかし、多くの方はそれができない。
これがダメ、あれがダメ、こうあるべき、これが真実であれは誤りだ、などと自分や周りを縛り付け、
窮屈に生きています。
そういうことなんです。
672
:
st
:2015/05/03(日) 19:20:39
それが屁理屈とういう。
だからあなたはあなただけの涅槃に入る。
他のものと違う絶対的な消滅。
私があなたに見た「涅槃」そのものです。
他のものが入る涅槃と違う。
673
:
慧空
:2015/05/03(日) 19:32:43
>それが屁理屈とういう。
多くの方はそう思うでしょうね。(^o^)
屁理屈にしか聞こえないんです。
私としては、本当のことを言っているのに。(^o^)
でも、それでいいんです。
普通の人は、常識や分別を大切にして生きたらいいんです。
私はある意味、既に人間ではありません。
人間には常識的な分別があります(どうやら神と呼ばれる存在にもそれはあるようです)。
しかし、私にはもうそれが無い。
674
:
ケロケロ菩薩
:2015/05/14(木) 12:41:21
慧空殿、解っていながらすぐ議論に付き合うんだから〜(^.^)
Stさんも苦しいんでしょうね、何かに投影しないと身が持ちませんよね。私も投影しまくりの悪役作りまくりです。
偉そうなこと申しましたm(__)m
((笑))
675
:
慧空
:2015/05/14(木) 13:33:11
ケロケロ菩薩さん、こんにちは。
私の場合、ヒマなのもありまして、
どんな舟でも来た舟には取りあえず乗っかるようにしてます。(^o^)
私はどんな舟でも、振り落とされたり、悪酔いしたりしませんから。(^o^)
676
:
名無しさん
:2015/06/07(日) 05:54:04
>ただ、何かを極める道と悟りを極める道は、決定的に違う点が一つあるんです。
>何かを極める道には終わりが無いですが、悟りの道は終わりがあるんです。
これはよくわからない。この部分がかなり特殊ですね。たとえばエベレストの頂点
に立つことみたいな意味ですかね。それ以上高いところはないですから、そこで
終わりですね。でもそれは人が歩いて登れる一番高いところを目指しているから
それが終わりだということであって、目標を設定してそこに到達したというだけですね。
別の目標はいくらでも立てられる。だから終わりなんてない。
つまり悟りという目標を立てたら最後、その目標に到達したら目標を立てること
すら終わりになってしまう。
「人(目標を立てる)として終わる」ということですよね。
おいおい、ちょっと待て!! 苦しみは解決したいんだが、苦しむ人そのものは
残しておかないとヤバいよね。それは解決ではなくて切除だよ。それは困る。
677
:
慧空
:2015/06/07(日) 07:30:45
>>676
>おいおい、ちょっと待て!! 苦しみは解決したいんだが、苦しむ人そのものは
残しておかないとヤバいよね。それは解決ではなくて切除だよ。それは困る。
大丈夫ですよ。
苦しむ人は最後まで決してなくなりません。
最後の最後まで否でも堪能できますよ。(^o^)
678
:
思路
:2015/06/07(日) 09:06:56
それを聞いて安心しました。 で苦しみの何が解決したの? つまり
苦しみがよりリアルになるので、いままでぼやーっと苦しんでいたのが、チクチク
と激しく苦しむようになるとかですか?
ある種の苦しみは消えてしまうけども、別の根源的苦しみはより強度を増して
くる。自分なんかは鈍感で能天気なので、もしかしてたぶんありえないとは思う
けれども、もしかして悟りを開いたら今より100倍苦しくなるかもしれないね。
苦しくはなるけど面白くなるみたいな感じですかね。たとえばマラソンが楽しい
みたいな感覚と同じとか。
679
:
慧空
:2015/06/07(日) 09:59:56
思路さん
苦しみについては、私のブログの次の記事をお読みください。
それで、何か気になられることがあれば、またご質問ください。
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/789f46846244da521004dea8949513b1
ちなみに、悟りを深めるにつれ、楽しさや楽しみを追求することは減っていきますよ。
楽しいというより、つまらないという感覚の方が勝っていきます。
なぜなら、どうしようもなく飽きてしまって、飽き飽きしているからこそ、最終的な悟りに到達するという側面がありますから。
680
:
思路
:2015/06/07(日) 10:38:58
そうなんですか? 自由になるので天真爛漫で愉快になるんじゃないのですか?
解放というのはそういう風になるのだと思っていました。だから芸術性とかが
豊かになる。和尚とか下手だけど面白い絵をかいてましたよね。
681
:
慧空
:2015/06/07(日) 11:47:24
自由、天真爛漫、愉快は小悟階層の典型的な特徴です。
浅い悟りです。
ラジニーシさんも小悟の方です。
682
:
思路
:2015/06/07(日) 19:10:25
ということは小悟の方が絶対に面白いですね。なるべく小悟レベルにとどまろうとは思わなかった
のですか? それとも必然的に大悟がやってくるのでしょうか?
683
:
慧空
:2015/06/07(日) 19:59:42
どの悟り階層がいいかは、人それぞれだと思います。
私は中途半端は嫌いなので、徹底的にやりました。
そうしたら、いつの間にか悟りの道がそこで行き止まりになっていました。
悟りが必然かどうかは、人それぞれだと思います。
私の場合は、運命的なものも感じたりしてはいますが、本当のところはどうなのかはよく分かりません。
684
:
思路
:2015/06/08(月) 06:56:39
大悟というのは脳の破壊と関係あるのではないでしょうか? こういうたとえが正しいか
どうか解りませんが、苦しみというのはある臓器に関係しているのだと思います。その臓器を
苦しい臓とよぶとすると、苦しい臓はそれほど重要な役割をしているわけではないので
盲腸と同じように切除しても殆ど問題ない。その切除方法が瞑想なのではないでしょうか?
メスを使わないので切除というのは想像しにくい人もいるかもしれませんが、使わない
臓器は簡単に消滅していきます。寝たままだと1週間もすれば筋肉が衰えて立ち上がること
すらできなくなります。苦しい臓に関わる思考を止めると、苦しい臓は萎えてしまう。
あとはハレ晴れの世界になります。
ただそれをさらに徹底的にやってしまうと、ハレハレも通り越して、物静かになってしまう。
義母が脳梗塞で倒れました。以前は普通の物静かな人でしたが、脳梗塞以後は凄く陽気に
なりました。半身不随ですし、痴呆も少し入っていますが、陽気なので皆から喜ばれています。
入院期間が終わって、施設に移らなければならないのですが、面接も一発で受かりました。
ボケていても陽気で面白いので、施設も大喜びです。梗塞ももう少し当たり所が悪いというか
場所が違うと、喧しく説教を始めるタイプもいるらしいです。院長が往診に来ても説教をする。
こういうのになると、施設も嫌がって引き取り手が少なくなります。
685
:
思路
:2015/06/08(月) 07:14:23
脳梗塞で悟る例としては、脳科学者のジルボルトテイラーが有名ですね。
彼女の場合は左脳をやられて天国を垣間見たようです。左脳がやられると
陽気になり、右脳をやられると論理的で口うるさくなるようです。右脳をやられた
大学教授の話も聞いていたので、義母が倒れた時は直ぐにそのことが頭に浮かびました。
義母の場合は左脳ではなくて右脳でした。
「ヤバイ。左脳だったらなー」と思ったのですが、右脳がいかれても陽気になるケースは
あるようです。脳は不思議ですね。
クリシュナムルティなんかも壊れ方が独特で、彼の場合は脳腫瘍で脳梗塞とは違いましたが
非常に面白いですね。クリシュナムルティは大好きです。
686
:
慧空
:2015/06/08(月) 09:03:59
>大悟というのは脳の破壊と関係あるのではないでしょうか?
思路さんは、私という意識と身体の関係について、思い込みや誤解があるようです。
私という意識は、脳や身体の機能の上に成り立っているとお考えなのかもしれませんが、
そう結論されるのは早計かもしれません。
私にはもう、こうだとか、これに間違い無い等の確信や断言はないのでハッキリとしたことは申し上げられませんが、
おそらく、意識と肉体との関係は逆なのです。
肉体の上に意識が成り立っているのではなく、意識が、あたかも肉体が実体としてあるかのような認識を起こしているのです。
ですから、脳の働きと悟りとは、そりゃあ、何らの関係はあるでしょうが、
その関係は本質的なものではありません。
むしろ、どうでもいいことです。
本質的なことは、私という意識そのものや、その動きの中にすべて含まれています。
それと、大悟(見るものは見られるもの)と最終的な悟り(解脱)との関係について、少しコメントしますね。
大悟と最終的な悟りとの間には、まだ大きなギャップがあります。
クリシュナムルティは、見るものは見られるものを知っている大悟者のようですが(私は彼のことは殆ど知りません)、
最終的な悟りに至った方ではありません。
687
:
思路
:2015/06/08(月) 10:10:35
>思路さんは、私という意識と身体の関係について、思い込みや誤解があるようです。
>私という意識は、脳や身体の機能の上に成り立っているとお考えなのかもしれませんが、
>そう結論されるのは早計かもしれません。
>肉体の上に意識が成り立っているのではなく、意識が、あたかも肉体が実体としてあるか
>のような認識を起こしているのです。
そうですね。厳密なところはともかくとして、たとえば肉体的な修行を通じて意識が変わる
とか、意識の修行を通じて肉体が変わるとかというようなことは多く体験されているのでは
ないでしょうか?
肉体と意識には密接な関係があって、一方から一方へ作用を及ぼすことができます。
だからどちらがより本質的かというと、その人の性質によるように思います。
自覚はマハルシの「私はだれか」と同じ手法ではないでしょうか? この系統が好きな
人とボディーワーク系がよく合う人と別れるような気がします。
分け方としては、ハート派と頭脳派とボティ派のような分け方もあるかもしれないですね。
自分はホディ派ですかねー。痛い目にあって初めて解る。W
688
:
慧空
:2015/06/08(月) 10:21:30
> 分け方としては、ハート派と頭脳派とボティ派のような分け方もあるかもしれないですね。
自分はホディ派ですかねー。痛い目にあって初めて解る。W
確かに、浅い悟り階層ではそのように複数のルートがあり得るのかもしれません。
ですが、ボディーワークを使って至れるのは、小悟が限界です。
なぜなら、小悟階層に至ると、ある意味、肉体の死を超越してしまいますから、
肉体から意識への影響が基本的に切れてしまうのです。
また、ハートのワークを使って至れるのは、大悟が限界です。
なぜなら、大悟に至るとハートそのものが消失しますから、
そもそものところ、ハートは使いようが無いのです。
689
:
慧空
:2015/06/08(月) 10:33:07
肉体と小悟(明け渡し)との関係について少し補足しますね。
明け渡しとは受け入れですが、その受け入れによりどういう囚われを手放したか等により、
明け渡しの内容や深さにはいろいろ違いがあります。
しかし、典型的な明け渡しには、肉体の死の受け入れも含まれています。
ですから、典型的な明け渡しを経験して小悟に至ると、肉体や肉体の死に対する恐れや囚われが
かなりの割合で消失してしまうのです。
もちろんそれでも、肉体を維持するための最小限のものは残ることが多いですが。
そういう訳で、小悟階層に至ると、私という意識が、肉体やエネルギーのことに対して、
本質的な影響を受けるようなことは無くなってしまうのです。
690
:
思路
:2015/06/08(月) 10:53:10
>肉体から意識への影響が基本的に切れてしまうのです。
>また、ハートのワークを使って至れるのは、大悟が限界です。
>なぜなら、大悟に至るとハートそのものが消失しますから、
>そもそものところ、ハートは使いようが無いのです。
なるほど。解るような気がします。
しかしハートが無くなるのですか? でも慧空さんは随分優しい感じがしますが
それはハートとは違うのですか?
たしかに思い当たることはいろいろあります。宗教の入り口は愛だとか慈悲だとか
甘い蜜がたんと積まれていますが、いざ中に入るといろいろきわどいこと
を突き付けられます。
「成長したくないのですか?あなたは本当にそれでいいのですか?」
みたいな感じで無理難題が山と積まれます。あの甘い香りはどこに行ったのだ?
これはキリスト教でも仏教でも新興宗教でもカルト宗教でも同じで、うだうだ
言いながら入信はしないで、周辺をうろついている時が一番楽しい。W
ちやほやされて、親切にされる。一旦入信しようものなら、ボロボロに使い倒される。
まあそれが修行だから仕方ない。W
691
:
慧空
:2015/06/08(月) 11:15:48
私にはもうハートはありません。
私のことを優しいと言ってくださる方がおられるのは確かですが、
私は優しくはありません。
優しそうに見えるこきもありますが、人でなしのように見えるときもあります。
私はそのときどきによって、くるくると変わります。
ところで、思路さんは、何を求めておられるのですか?
思路さんの一番大切なことや、一番大切にしたいと思うことは何ですか?
ご自分の内面をしっかりと見つめられて、ご自分の本心と向き合ってみてください。
自分が何を求めているのか。
一番大切と思うことは何なのか。
まずはそれをしっかりと捉えて頂きたいと思います。
そして、それが分かったら、そのことに全力を尽くして頂きたいと思います。
時間は貴重です。
692
:
思路
:2015/06/08(月) 12:42:15
残虐にもなるのでしょうか?
あなたがというよりも、イエスやブッダ、そしてその精神を引き継いだもの達も
同様でしょうか?
693
:
思路
:2015/06/08(月) 12:55:44
>ところで、思路さんは、何を求めておられるのですか?
>思路さんの一番大切なことや、一番大切にしたいと思うことは何ですか?
何が大切かは一概にいえないです。一番優先順位が高いことを今やっているのだと
思います。
風呂に入る時は、とりあえずそれが今の最優先事項なのでしょう。
「そんなことをしている場合じゃないだろ」と言われれば仕方なしに1か月くらいは
風呂なしでも我慢しますが、でもどこかでやっぱり風呂に入ります。
694
:
思路
:2015/06/08(月) 13:23:38
>一番大切と思うことは何なのか。
>まずはそれをしっかりと捉えて頂きたいと思います。
何が一番大切なのでしょうか?
悟りですか?
よくわからないのですが、悟りも面白そうです。ですがピアノレッスンや筋トレと
同じようなものだろうとおもっています。自分の場合悟りも筋トレもうまく行きません。
かなりお金をかけてトライしてますが、グワーーーンと成功した実感がありません。
ちょっと前進したかなくらいです。そんなに目標は高くなくて小悟ていどで十分です。
坐禅の接心に参加して三昧がわかるようになったときは
「ス、凄い。これで悟れる!!!」と思ったものですが、そこから先が全くダメです。
三昧ってわかりますか? すこし坐禅をしていると気持ちよくなります。
慣れてくると別に坐禅をしなくてもその状態に入れます。変性意識状態っていうんですかね。
一年くらいやってもダメなので「これは違うな」と解りました。
695
:
慧空
:2015/06/08(月) 14:52:20
>残虐にもなるのでしょうか?
そうですね、残虐に見えるようなことも、私は平気でやることもあると思います。
いまのところは、息子の頭を足で蹴るくらいのところで収まっていて、かわいいものですが。(^o^)
>あなたがというよりも、イエスやブッダ、そしてその精神を引き継いだもの達も
同様でしょうか?
イエスやブッダなど他の人のことは知りません。
ですが、最終的な悟りを得た人なら、何の拘りもありませんから、
それこそ何をするか分からないところはあると思います。
>何が大切かは一概にいえないです。一番優先順位が高いことを今やっているのだと
思います。
はい、それは一つの正解です。
696
:
慧空
:2015/06/08(月) 14:57:07
>何が一番大切なのでしょうか?
>悟りですか?
それは、思路さんご自身のことですから、私に聞かれても分かるはずがありません。
ご自分の本心を見つめてください。
三昧は何となく分かります。
経験はしたことは無いと思いますが。
座禅をやられるのでしたら、ぜひ私のブログに書いてあります、自覚をやってみてください。
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/b46f53e9aba8cee84f1abc9507a3ecbb
697
:
思路
:2015/06/08(月) 15:49:48
>それこそ何をするか分からないところはあると思います。
残虐なことも違法なこともするということでしょうか?
なぜそんなことをする必要があるのでしょうか?
オーム真理教の暴走はなぜ起こったのでしょう? 宗教の暴走自体はよくあることで
数々の教団がたくさん事件を起こしています。そんなに珍しいとではないとおもいま
すし、オームの場合もそれらの一つに過ぎませんが、やはり死人が多かったので結果的
には非常に大きな影響を与えた事件になりました。
悟りを開くということは危険なことなのでしょうね。
その意味では堕落したと言われる葬式仏教の坊主の方が害がなくて安全ではありますね。
たとえば共産主義などはある意味非常に理想的で人間的美しさに溢れていて、殆ど聖なる
システムと言っていいくらい完璧に見えますが、実態は全く逆で残酷で出鱈目ですね。
きれいごとを並べても全く機能していない。
聖なるシステムは大いに悪用される可能性が高い。坊主を見るとその実腐ったのが多い。
これは一般的感覚ではないでしょうか?
698
:
思路
:2015/06/08(月) 15:53:44
>座禅をやられるのでしたら、ぜひ私のブログに書いてあります、自覚をやってみてください。
ザッと読んだだけですが、よくまとまっていていい方法ですね。
699
:
慧空
:2015/06/08(月) 16:13:22
>残虐なことも違法なこともするということでしょうか?
>なぜそんなことをする必要があるのでしょうか?
ですから、最終的な悟りに至るということは、そういうことなのです。
残悪を含めた一切の囚われが無くなりますから。
良い悪いの判断は、その基準を誰がそう決めてやっていることなのでしょう?
「私」という自我が、自己の握り締めた固定観念や社会通念等の囚われに基づいて、
やっていることなのです。
善悪等の判断は、すべて妄想なのです。
善悪なんてものは本来無いんです。
ただこと(現象)が起こっているだけです。
それを、私という自我が各自好き勝手な判断基準で、善悪等に色分けしてるだけなんです。
オームは、単なる盲信による暴走です。
悟りとは何の関係もありません。
浅原を含め、あの組織の中で、何らかの悟りを得ている人はいなかったのだろうと思います。
社会現象は、物語のようにそれなりの仕組みや、起承転結等のストーリー性もあって面白いですね。
700
:
思路
:2015/06/08(月) 19:27:13
素粒子のレベルまで覚醒すれば、残虐もへったくれもないでしょう。そこには人間は
存在しない。しかし人間といういわば妄想レベルでの話です。覚者と言えども人間です。
それもまた妄想の塊です。
「それもまた過ぎ去る」という言葉をご存じでしょうか?
言い換えれば
「それもまた妄想」なのです。
そして過ぎ去るものや妄想の始まるところとして「今」があります。
自覚とは今を捉えることでしょう。それは根源的「今」だし、同時に根源的な
「私」のことです。
しかし根源的私とは素粒子の集合体でしょうか? そうではなく人です。これは
前提です。
インドの聖者などは、言葉に窮して「私は既に死んでいる」などというものがいます。
しかしそれは違う。勝手に死んでもらっては困ります。W
701
:
慧空
:2015/06/08(月) 19:38:36
>自覚とは今を捉えることでしょう。それは根源的「今」だし、同時に根源的な
「私」のことです。
自覚とは、第一にまずは、「私」に意識を向けることです。
第二に、「私」を捉え、「私」に起きてくる考えを捉えることです。
>しかし根源的私とは素粒子の集合体でしょうか? そうではなく人です。これは
前提です。
「私」とは、考えです。
人と言うと、それにはさまざまな規定や固定概念等の囚われがまとまりついています。
「私」は、人などという狭い概念や存在ではありません。
「私」は、考えそのものであり、意識そのものです。
そして、幻です。
702
:
名無しさん
:2015/06/09(火) 06:15:58
「考え」は人ではない。それは当然「私」ではない。
狭くても窮屈でも人であることの制約を外してはいけないでしょう。それを外すなら
人以上ではなくて人以下です。
もしそれを完全聖者と呼ぶなら、完全聖者の内で考えだけが単独で暴走する。
それは完全聖者にとっては暴走ではなくて正常です。人には意味が
解らないので暴走に見えるだけです。人は人を前提にしています。
完全聖者も人の延長にあるもの、つまり並みの人以上の偉大な人だと思っています。
だから意味が分からない。
オームは単なる盲信による暴走でしょうか? そうではなくて完全聖者の計画的
行動です。信者がそれに従っただけです。
宗教学者の島田裕巳にしろ中沢新一にしろ一級の知識人ですが麻原を高くかっていた
節があります。麻原は悟りを開いていたと思います。悟りは善悪とか知性とは関係
ありません。麻原は聖人特有のオーラを持っていたのでしょう。
そうでなければ島田や中沢が簡単に認めたりはしない筈です。
オーラや超能力は聖人の証拠にはならないということです。悟りも同様です。
完全聖者は完全化することで人を逸脱したキチガイなのです。
703
:
慧空
:2015/06/09(火) 07:03:13
麻原やオームのことはどうでもいいです。
私には興味がありません。
>完全聖者は完全化することで人を逸脱したキチガイなのです。
これは当たっているところがあると思います。
私はもう人ではありませんから。(^o^)
704
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 18:23:55
ご無沙汰してます。以前書き込みした孤独な羊です。
その後の経過で善悪について及んだ考えがあります。まず善悪の有無で言えば、勿論あるわけです。
善悪基準がないなんて野性的本能で生きる動物と何ら変わらないじゃないですか。
悟ったような人なら必ず善を身につけます。
なぜなら善を行うことが最上の快楽であることを理解するからなのです。
実行を伴う環境にないから苦しいのではないでしょうか。
705
:
慧空
:2015/06/09(火) 18:45:05
孤独な羊さん、こんにちは。
ではそう仰るなら、ちょっと追求させていただきますよ。
「善悪の基準はある」と仰るその根拠をここに示して、あるいは述べて頂きたいです。
善悪の概念が、私という自我が考えている考え(幻)でないという根拠をここに示してください。
あなたが、これは確かな根拠だ、証拠だと思われることをここに示してください。
お話しはそれからお伺いいたしましょう。
706
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 19:24:01
根拠は良心です。
707
:
慧空
:2015/06/09(火) 19:36:04
良心は根拠になりませんよ。
言葉を言い換えているだけに近いです。
まあいいでしょう。
では、さらに追求させていただきます。
良心が絶対的なものとして「ある」という根拠を示してください。
708
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 19:40:47
良心があるかないかですか?それは自分でしかわからないのではないでしょうか?
人を殺して平気というのであれば邪心ですよ。人を殺して罪悪感があれば、それが良心の働きではないでしょうか。
709
:
慧空
:2015/06/09(火) 19:49:25
>良心があるかないかですか?それは自分でしかわからないのではないでしょうか?
それはその通りです。
良心という囚われの集合体がある人にとっては、確かになんらかのそのような葛藤なり、感触があるでしょう。
私も以前はありました。
いまは無いです。
私は、もし仮に人を殺してしまったとしても平気でしょうね。
間違い無いと思います。
それを邪心と呼ぶ人はいるでしょう。
それはその人に、これは邪心だという囚われがあるということです。
私にはそんな囚われも無いですから、例え人を殺しても何ともないです。
へっちゃらです。(^o^)
710
:
慧空
:2015/06/09(火) 19:50:22
そうだ、まだ私の追求は終わってませんよ。
善悪の基準や、良心が、絶対的なものとしてあるという根拠を示してくださいな。
711
:
慧空
:2015/06/09(火) 20:03:24
やり方を変えて、私の方から少し攻め込んでみましょうかね。
善悪の基準や、良心について、これらは何か普遍的な基準やものがあるというより、
人によってかなりまちまちで、もの凄い場合だと、人によっては真逆になっているようなことがありませんか?
例えば、Aさんの良いと思ってCさんにしたことも、Bさんから見たら本心からあれは悪いことだと思ってしまうケースがあると思うのです。
これは善悪に限らず、私たちの周りにあるあらゆる基準や社会通念について言えることです。
人によりバラバラで、もの凄いケースだと、真逆の判断を下すことがあります。
善悪や良心なんて、そんなあやふやなものだということです。
そうやって、善悪や良心について追求していくと、私という自我が好き勝手に考えている考えであり、囚われに過ぎないということが分かってきます。
これは、本当です。
712
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 20:28:23
そうですね。だから私達は翻弄されてしまうのでしょう。。邪心によって。
宗教で扱われる道理は、、良心から生じています。
現代人は型から習おうとして木を見て森を見れなくなっているのではないでしょうか。
苦しみ体験と自省を繰り返すことによって漸く目覚める理解のできることなのかもです。
そのために生きていると言って過言ではないかと思いますね。
713
:
慧空
:2015/06/09(火) 20:36:10
>そうですね。だから私達は翻弄されてしまうのでしょう。。邪心によって。
良心、邪心を羊さんがどのように考えておられるのか分かりかねますが、
正反対のものとして捉えておられるのなら、自分に都合のいい方、つまり良心の方だけ取り上げようとしてもダメですよ。
良心があれば、必ず対になって邪心もあります。
良心的に見える人の内面には、必ず邪心が秘められています。
必ずです。
邪心だけが、人を翻弄するのではないんです。
良心も、ベクトルの向きが違うだけ、同じように人を翻弄してるんです。
714
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 20:40:58
そうすると仏陀の悟りなどもないことになります。宗教もですよね?
戒律がありますから。戒律は何を意味するかに還りませんか?
私は今日はこれで、失礼いたします。
715
:
慧空
:2015/06/09(火) 21:59:20
>そうすると仏陀の悟りなどもないことになります。宗教もですよね?
そうです。
無いと言えば、すべては考えであり、妄想ですから、無いですね。
>戒律がありますから。戒律は何を意味するかに還りませんか?
戒律がなぜつくられたのかは、私には分かりません。
おそらく、何か縛りが無いと生きられない幼い人たちがいたのでしょう。
716
:
慧空
:2015/06/09(火) 22:31:16
上の
>>713
の中の文章について、少し補足というか、修正しますね。
>良心的に見える人の内面には、必ず邪心が秘められています。
これはちょっと的確性に欠けます。
より的確には、良心に対する執着があり、自分は良心に従って生きている、
あるいは、良心的な人間だと思っている人の内面には、必ずその同じ分量と強さの邪心が秘められている、ということです。
717
:
孤独な羊
:2015/06/09(火) 23:23:22
ちょっと寄らせてもらいました。対話を続ける前に質問です。
人を殺して平気なら生きてて楽しくもない。
自分が、それでいいというなら、それでいいじゃないですか。
何を求めてるのですか?
だから、あなたは自分に嘘をついているのです。
そして、そんなことばかり口にしていると善人でありたい人は誰も関わらなくなりますよ。
たとえば私は盲目なスティービーワンダーの描くような世界観が好きなんです。
人を殺して平気という言葉を改めない限り、もう関わらないでしょう。
わかりますか?
自覚もなく人に危害を加えても平気というのであれば専門家に掛かってください。
718
:
思路
:2015/06/10(水) 05:06:11
>それはその人に、これは邪心だという囚われがあるということです。
>私にはそんな囚われも無いですから、例え人を殺しても何ともないです。
>へっちゃらです。(^o^)
それは囚われがないということではなくて、人として破綻しているのです。
破綻の原因は悟りです。悟りが特別なものという思い込みがあるから破綻
に気が付かない。
コカインを飲んで作った音楽には、彼らにしかわからない強い共感があります。
仏典も同じで、多くは普通の人には意味不明なゴミのような文章なのに悟りを
得た人にとっては彼等にしかわからない共感があります。いわばラリッた文章
なのです。殆どはゴミですが、中には普通の人にも響くものがあります。
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジはラリッていても宗教的天才
なので美しい言葉で世界を語ることができる。
悟りは切除です。金玉を切るのと同じで不具者になることです。ブラブラして
いたものを切ったらスッキリする部分もあるけど、大抵は副作用が生じます。
電子レンジのだす電波に反応したり、自然におこる電界現象にも反応してエネルギー
を感じたりします。だから地震の予知ができたりする。そういう便利な部分もある。
719
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 05:13:24
慧空さん、おはようございます。
前文ではあなた様の掲示板を来訪しているにも関わらず、無礼な言い方の内容に仕上がってしまいました。
大変に申し訳ありませんでした。
ご縁が許されましたら、また楽しく語り合うことができればと思っています。
720
:
思路
:2015/06/10(水) 05:31:32
悟りは「ラリッている」状態ということは理解しておかなくてはなりません。
仏教では修行で悟りを得た後10年間は表に出さない。ラリッた状態を調整するためです。
この間仏典の勉強を詰め込んで、自在に説教をできる話術の達人になります。同時に
精神的には普通に戻るのです。嘗てはこういうことが行われていた。
悟りを開いただけで自在に説教できる話術の達人になろうとしても無理です。これは
また別の技術です。
悟りを開くと、非常に敏感になります。ですから、僅かな表情などから人が思っている
ことや生い立ちなどが理解できるようになる。なので話術を身につければよいアドバイザー
になる可能性もあります。また逆にその能力を利用して高額なセミナーをしたりと
お金儲けに走る人もいます。
いづれにせよ、次は利用技術を身に着ける修行が必要になります。
721
:
慧空
:2015/06/10(水) 06:49:11
孤独な羊さん、思路さん
善悪は妄想だというこの私の言葉は、普通の人には届きません。
それでいいんです。
普通の人は、それぞれが考える善悪の範疇で、まだまだ精一杯生きる必要があります。
私は、普通の人に向けて語っている訳ではありません。
善悪の妄想から覚め始めた人に向けてだけ、語っています。
もっと言えば、解脱に向けて歩み始めた人に向けてだけ語っています。
ですから、私の言葉に違和感や嫌悪感を感じる人がいて当然だし、
批判や攻撃を受けることがあっても、当然だと思っています。
私や私の言動に対し、何を言って頂いても結構です。
私は何とも思わないです。
722
:
思路
:2015/06/10(水) 07:46:09
病院に行くと「胃を半分きった」とか「俺は腎臓と肺の半分を取った」とか病気自慢
に花が咲きます。大手術はカッコイイのです。小悟とか大悟はそれと同じです。
大悟はカッコイイ。しかし損傷が大きくイカレかたも半端でないの苦しいはずです。
折角大手術をしたのだからそれを有効に使った方がいい。
有効にということは不用意な発言は控えた方がいいということです。聖者には
それなりの需要がある。
ラマナなどもしつこい質問にまれにはブチ切れていました。ですが聖者としての役割を
チャンとこなしました。和尚やクリシュナムルティは脇が甘くてスキャンダルが
表に出てしまいました。そうなると格がワンランク下がります。
723
:
慧空
:2015/06/10(水) 08:06:50
>不用意な発言は控えた方がいいということです
何のために?
何を狙ってわざわざそういうことをする必要がると言うのですか?
私はこうやって、ここで好き勝手に語っているだけで十分です。
自分でも意外なほど、伝わるべき人にはちゃんと伝わっています。
また、私は口も悪いですが、素行もそれほど良くはありません。
息子の頭を平気で蹴り飛ばすくらいですから。(^o^)
私は、わざわざ私のところにやってくる人に対しても、「あっちへ行け、もう来るな」とか、
「お前はどうしようもないから、そのまま死ね」なども平気で言います。
私は、それでいいのだと思っています。
むしろ、それくらいでちょうどいいのです。
依存は排し、また準備の不十分な人を遠ざけるには、それくらいでちょうどいいんです。(^o^)
724
:
思路
:2015/06/10(水) 09:43:28
>何のために?
>何を狙ってわざわざそういうことをする必要がると言うのですか?
いまのあなたには解らないでしょうが、病的な状態だからだということです。
>自分でも意外なほど、伝わるべき人にはちゃんと伝わっています。
そうやって集まってくるのは雑魚だけです。あなたの師をどうおもいますか?
集まっているのは雑魚でしょ。
言葉や姿勢をただせば、それなりのレベルの取り巻きが集まります。聖者は不具者です。
サポーターつまり檀家や取り巻きが必要なのです。その時初めて悟りが生きてきます。
725
:
たこりん
:2015/06/10(水) 09:54:01
慧空さんはある意味正常だと思います。
世の中綺麗事に酔いしれている人多いです。
自分の気持ちにフタしてる人多い。
悟り関係のことはよく分かりませんが、善悪なんて人が勝手に作ったものである事は、なんとなくみんな気付いていると思われます。
726
:
思路
:2015/06/10(水) 10:19:36
>あるいは、良心的な人間だと思っている人の内面には、必ずその同じ分量と強さの邪心が秘められている、ということです。
底抜けに明るい天真爛漫さというのに出会ったことはないですか?
邪心など無縁の天使のように無垢の人もいます。
727
:
慧空
:2015/06/10(水) 11:22:04
思路さん
病的で大いに結構です。
不具者、いいですねぇ〜。
病的、上等、キチガイ、大いに結構です。(^o^)
雑魚ねぇ・・・、あなたの目にはそう見えるのですね。
そう見えるのならしょうがないですねぇ。
私としても言うことないです。
雑魚で結構です。(^o^)
私は誰の世話にもなりたくありません。
社会の中で生きていけないのなら、社会を捨てるだけですし、
自分の力で生きていけなくなったら、死んでいくだけです。
728
:
慧空
:2015/06/10(水) 11:24:53
>底抜けに明るい天真爛漫さというのに出会ったことはないですか?
>邪心など無縁の天使のように無垢の人もいます。
あなたは余り賢くないですね。
どこに目を付けているのですか。
本当に無垢で天真爛漫なら、そりゃあ、善悪も無いですし、良心なんて欠片もないですよ。
その人の振る舞いは、相当めちゃくちゃなものになるでしょうね。(^o^)
あなたは、自分の都合のいいところしか目に入っていないのです。
729
:
慧空
:2015/06/10(水) 11:28:56
たこりんさん
たこりんさんは、私の言っていることがそれなりにお分かになるようですね。
>悟り関係のことはよく分かりませんが、善悪なんて人が勝手に作ったものである事は、なんとなくみんな気付いていると思われます。
善悪の囚われは、そんなに甘いものではないですよ。
良心の呵責は、本人の気が付かない心の奥深くで起こっていることもあります。
730
:
名無しさん
:2015/06/10(水) 12:51:15
悟りは善意識の結集なのです
必ず殺してはならない殺させてはならないものです
そこを勘違いされては邪心にやられてしまう
また歩みを始めることになるのです
731
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 12:53:09
最初から悟りを開きたくて開く人は殆どいない
だからお釈迦様は最初から志があり最初から輝く良心のある特別な人物だった
732
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 12:56:28
どんな痛みにも耐え切れる人などいないのです
だから悟れるのでしょう
733
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 13:03:21
早い段階で信仰と戒律に落ち着く人ほど優位であることは確かと思います。
良心(真実)の理解に対する差異によって行動が生じるため善悪基準がないと仰る方がでてくるのではないでしょうか。
734
:
慧空
:2015/06/10(水) 13:11:26
ダメだこりゃ〜(^o^)
>悟りは善意識の結集
ため息が出ます。
あなたは悟りや、悟った人に対して、とてつもない妄想をつくっておられるようです。
過去から現在まで、修行者や出家者に、深い悟りに至った人が殆どいないのはなぜなのか、ということも、
あなたに語っても意味はないようですね。
この掲示板はお好きなように何を書いて頂いても結構ですから、
どうぞお好きなことを思う存分書かれたらいいです。
735
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 14:56:19
わかりました。出直し致します。
ありがとうございました。
736
:
慧空
:2015/06/10(水) 15:38:32
孤独な羊さん、自覚をやってみてください。
あなたにとって大切なことは、あなたのまわりにすべて揃っているはずです。
自覚を共として、日常を生きて頂きたいと思います。
737
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:19:34
慧空さん、そうですか。では是非お尋ねしたい。
>修行者や出家者に、深い悟りに至った人が殆どいないのはなぜなのか
如何なお考えで、根拠はどこにあるでしょうか?
738
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:30:36
体調不良で時間がありますので、先に自論を展開しておきます。
確かに偏った信仰に執着してしまっても理解したとは限らないでしょう。
私が先に言った信仰のメリットは何処にあるかについてですが、処罰といいますか苦が起きたとき対する反省の度合いが小さくて済むこと、猶予と機会が許されるメリットが少なくてもあるものとして考えています。
ですが逸早く言葉の真意を理解できれば、苦の経験による障害は最小化することができる。
その最善の道が信仰の教えの中にあるとした理由からです。
739
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:33:39
すいません、少し文章が変です。猶予と機会が許されるメリットなどと書いてますが、説明しにくいのもあるので此処は無視で結構です。
740
:
慧空
:2015/06/10(水) 17:37:13
>修行者や出家者に、深い悟りに至った人が殆どいないのはなぜなのか
私の考える最大の理由については、今日のブログ記事に書いた通りです。
多くの人の場合、その人にとって最も大切なことは日常の中にあるからです。
だから、日常を離れたところで悟りの成就は難しいのです。
もう一つの大きな理由は、依存です。
典型的なものは、その修行組織の教えやマスターに対する依存や、組織そのものに対する依存です。
依存は、悟りの成就にとってとても大きな障害となります。
741
:
慧空
:2015/06/10(水) 17:38:51
ですから、何かを信仰する等の心持ちでは、悟りの成就にはほど遠いのです。
信仰するとは、何かを信じることであり、依存することに他なりません。
742
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:49:07
なぜ、戒律があるのかわからないと仰ってましたね。
解釈は沢山あるはずですが、知りませんので自説です。
例えば良心(真実)に従って生きれば、本人にとって最善の人生になることは恐らく間違いないことと思うのですが。一般的には。
現実は周囲との比較により決定した心に従った選択を行う生き方が一般的となる見方でいます。
良心(真実)の理解度で行動に差異が生じて、そうした環境に適応していくと善悪基準がないとかという話がでてくるのが最近の傾向ではないかと考えられるのです。
でも良心を理解していないとき、良心を無視すれば結果的に過ちを犯したりすることになるのです。自説は。
過ちを犯した後に処罰(苦)を受けれたとき、過ちに気付ければ自省へ至ることができます。
この処罰(苦)を受けない条件にあると邪心を恐れなくなり、甘い囁きのある楽な方向へ誘導されていくのが人類の性というか特徴としてます。
過去に処罰(苦)経験があり且つ自省に至る人の何割かは知りませんが、再発を恐れたり理解を求めて信仰へ導かれるのです。
処罰(苦)経験を受けないですむ手段を取り続けるため、宗教等の戒律に従った生き方を目指す場合があるわけです。
これが戒律の制定ではないでしょうか。
とか考えることで整合性を見出してます。
743
:
慧空
:2015/06/10(水) 17:53:52
戒律についてせっかく解説いただきましたが、
私は戒律に対してまったく興味がありません。
すみません。
744
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 17:57:09
そうでしたか、わかりました。
ブログ拝見させてもらいます。
745
:
孤独な羊
:2015/06/10(水) 18:04:57
今日のブログ記事は拝見させてもらいました。私も大筋は変わりません。
そうですね精一杯が正しいですが、何を精一杯やるかという話の違いですかね?
いまのところは。
ありがとうございました。
746
:
名無しさん
:2015/06/10(水) 23:05:15
あー!はがゆい!!…!!
羊さん!!
違うんだってばー!!!
今の自分の殻に気付きそれが破らないと
747
:
はがゆいのよ〜その良心〜♪
:2015/06/10(水) 23:10:24
あー!はがゆい!!…!!
羊さん!!
違うんだってばー!!!
今の自分の殻に気付きそれが破られないとすいくうさんの話は腑に落ちないですよー!
…って感じ〜♪
748
:
孤独な羊
:2015/06/11(木) 00:42:26
はがゆいのさん、多数派意見が勝っても、それが必ず正しいとはかぎりませんよ。
留まれば苦しいのは承知ですし、易々とわかってもらえるとも思ってません。
自論を書き出させていただいたまでです。
この世界が無秩序だったら、どうなると思います?散々の結末を迎えて漸く秩序が形成されますね。
それ同様では結果的にダメなんだということです。世の矛盾はロジックで、すべて結ばれる。完璧なものです。
すべて平等で完璧に出来ているには出来ているのですが、好き放題すればよいということでもない。
この辺りが知れ渡ってしまえば人生の意味もなくなります。
正直言うと、私もこれ以上は理論に関わりたくない。そう思っています。
ただ理論は完成してるのですよ。耳に届かないだけで。
命の尊さだけは最低限学んでください。
自省に当たって、いい例がふと浮かんでしまいましたので一つだけ記させてください。
愛する人と死別の時、悲しみに焦点があたってばかりになりぎみですが、真意は残された人の学びのために旅立つケースは少なくないかと思います。
皆さんは御存じでしょうが、死別を悲しみとしてしか捉えられないために弔いの機会が多く与えられてしまいました。
自省ができなかったためです。一期一会の心境で接することができなかったことは大きく影響していました。
くれぐれも、そのようなことで悔やむことがないようにお気を付け下さい。
だらだらと綴りましたので出来栄えはわかりませんが、私は はがゆいのよさん の言われる「破るから」の意味は承知しています。お言葉に甘えて、この投稿で意見を終了の予定です。
では、またの縁がありましたら、軽いフィーリングで皆様と接することができるのを楽しみに、お別れしましょう。
あー!はがゆい!!…!!あー!はがゆい!!…!!:はがゆいのよ〜その。。(^○^) 南無 。。。
ありがとうございました。
749
:
思路
:2015/06/11(木) 04:04:41
悟りっていうのは、執着はかなりなくなる。だから殺人くらいじゃ心は痛まない。
でも執着が全部なくなるわけじゃない。
なぜならプライドが傷つくような場合はカチンとくる。高名な聖者でもブチ切れることは
よくある。並みの聖者なら石ころに躓いても怒り出すことはある。
それに執着がなくなっても幸福なわけじゃない。執着がなくなると喜びもなくなる。
無邪気さや天真爛漫さもなくなる。
>あなたは余り賢くないですね。
>どこに目を付けているのですか。
>本当に無垢で天真爛漫なら、そりゃあ、善悪も無いですし、良心なんて欠片もないですよ。
>その人の振る舞いは、相当めちゃくちゃなものになるでしょうね。(^o^)
>あなたは、自分の都合のいいところしか目に入っていないのです。
天真爛漫さが解るような人は頭が悪くて、行動は滅茶苦茶で不快なものに感じる。という
ことらしい。
悟りたいと思うのはなぜなのだろう? 何が魅了するんだろうね。
750
:
思路
:2015/06/11(木) 04:41:46
「偽物の悟りと本物の悟りがあって、本物の悟りは凄いのだ。」
「そいつの悟りは偽物だ」「そいつの悟りは低級だ」
そういう意見もあるが、本当にそうだろうか?
ラマナ > クリシュナムルティ > 和尚 > 彗空 > 麻原
みたいな序列を考えるのだろうか?
いや大悟者ということだから
ラマナ = 彗空 >クリシュナムルティ > 和尚 > 麻原
ということだろうか?
なにが序列を決定しているのだろう。
麻原ってのは悟りが何をいみするかを理解するうえでは検証しておく必要があると思う。
「彼は悟っていない」というのはたやすい。それに関わりたくないというのも解る。
しかし、事件以前にはマスメディアも宗教学者も高名な聖者ですらも彼をそこそこの
宗教者と認めていたのだ。
一流のメディアですら彼を大々的に取り上げていた。
それに彼はまだ生きている。詐病といわれているが裁判官の前でマスターベーションを
したり、ウンコをしたり、まさに何でもありだ。枠なんて何もない。
>今の自分の殻に気付きそれが破られないとすいくうさんの話は腑に落ちないですよー!
麻原は殻がない見本だと思うがどうだろう?
751
:
思路
:2015/06/11(木) 04:55:12
>今の自分の殻に気付きそれが破られないとすいくうさんの話は腑に落ちないですよー!
>…って感じ〜♪
最初は「こいつらキチガイ?」と思っていても関わって馴染んでくると、何でもかんでも
腑に落ちるようになる。
層化でもヤマギシでもエホバでも天理でもオームでも同じ。ある程度馴染んでくると
不思議な共感が生まれる。悪口を言うやつは許せない…って感じ〜♪
752
:
名無しさん
:2015/06/11(木) 06:26:22
羊さん…私は朝原嫌いですしすいくうさんの言う全てに共感してませんわ
日常は良心に従って生活してます
自覚が進めば腑に落ちるのはそうですがね…だから何?って感じ〜♪
よい1日を♪
753
:
慧空
:2015/06/11(木) 07:01:36
>>750
>なにが序列を決定しているのだろう。
序列というといやらしい感じが出ますね。
序列というよりも段階というか、階層があるんですよ。
階層を決定するのは、私という自我が握り締めた囚われの量です。
非常にシンプルです。
囚われの量が少なくなるほど、悟りの階層が進みます。
でも、こんな説明をしてもご理解いただけないでしょうが、一応やってみました。
麻原に囚われ(枠)が無いというのは、大きな誤解です。
いまは、単なる狂人になっている可能性もありますが、あの一連の事件を起こしたときは、囚われの中にいたんです。
それはとても明らかことなのですが、どうして明らかか分かりますか?
彼が社会やその仕組みに対して積極的に関与しようとしたからです。
つまり彼には、社会をどうこうしようとする強い意図があった訳です。
その意図の根もとには、さまざまな二元の囚われがあるはずです。
分かりますか?
すべては考えであり、幻だという理解があれば、社会をどうこうしようなんて意図が出てくるはずがないのです。
すべては考えであるという理解に至らずとも、すべてはニュートラルであるという理解がある場合でも、
社会をどうこうしようなどと意図は出て来ないのです。
だって、社会は常にニュートラルであり、ある意味常に完璧な訳ですから。
分かりますか?
754
:
思路
:2015/06/11(木) 09:22:58
麻原は捕まってパトカーに乗せられたとき、ウンコを巻き散らかして抵抗したらしい。
そんなことができる人は悟りを開いた人でも少ないと思う。
さすがに最終解脱者だと思う。囚われがない。
修行によって殻を破った。最終解脱した。
ところが、そこで別の囚われができたんだよね。政治的欲望とかだね。
そもそも「殻を破りたい」「解脱したい」と思う人は「殻を作りやすい」体質のひとだよ。
蟻んこはほっておいたらドンドン巣をつくる。それと同じで殻を作りやすい人は
こまめにブログを書き進めるし、ほっておいてら殻をドンドン作り上げる。だから
常に殻を脱出するとか破るとか解脱とかを意識していないといけない。
でももともと殻を作らないタイプの人もいる。法律をまもらないのはへっちゃら。
ポリの金玉を蹴り上げて豚箱に入れられて初めて、「殻って大事だなー」「法律
をまもるって大事だなー」と反省する。
そういう人は殻を作る練習をしないといけない。
755
:
思路
:2015/06/11(木) 09:24:58
セミナーなどで洗脳にかかった人は自分の立ち位置がよくわからない。
それは「見えなくなる」からではなくて「よく見えすぎる」ことによります。
悟りは集中により視野を狭めて解像度を上げる方法なので、よく見えるようになるけど
視野が非常に狭くなります。
顕微鏡の解像度をドンドンあげていくようなものだから、ある段階からは全く別のもの
が見えます。違った景色に遭遇するので
「これは悟りだ」「これが本質だ」
と勘違いします。ですがそれは単に景色が変わるだけです。
求道者や研究者は集中力はあるけれども狭視野な人が多い。
洗脳を解くには相対化が必要と言われます。いろんな宗教を渡り歩くと
どれもこれも矛盾が見えてきて、洗脳されているのが解るようになります。
これは瞑想などの手法とは逆で集中ではなくて俯瞰です。俯瞰力があると
洗脳にはかかりにくい。悟りの見え方とは違う見え方になります。
756
:
思路
:2015/06/11(木) 09:36:45
>日常は良心に従って生活してます
良心は悟りをみつめてもわからない。
でも猫をみるとよくわかります。子猫がなぜ可愛いか?
いたづらをするし世話がやけますが、無邪気さがなんとも可愛い。
つまり人には無邪気さとか喜びが必要なのです。なので多少のいたづらは
目をつぶります。
1)可愛い、無邪気だ、愛すべきだ
2)目をつぶる、許す、大目に見る
こういうのが矛盾なく共存するのです。
同じ構図が良心にもあります。
つまりそんなに突き詰めて、「良心てなんだ」「お前はクジラをくっても
良心があるのか?」
と闇雲に責めるものでもない。まあそこそこ、ぼちぼちって感じでいい。
そういうところは良心的に考える。
757
:
慧空
:2015/06/11(木) 09:52:33
>麻原は捕まってパトカーに乗せられたとき、ウンコを巻き散らかして抵抗したらしい。
>そんなことができる人は悟りを開いた人でも少ないと思う。
>さすがに最終解脱者だと思う。囚われがない。
こりゃあ、どうにもならんわ。(^o^)
この場所は自由に使って頂いて結構ですから、存分にお書きください。
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