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自覚の方法に関すること
80
:
麒麟
:2014/10/19(日) 00:59:50
>>78
宇宙の法則とか、宇宙の源泉と聞くと、自分から離れてあると思う。
そうではなくて眼が見たら見える、耳が聞いたら聞こえるということです。
まきりんさんと僕も同じです。
道元さんが空手で帰ってきた、分かったことは目は横、鼻は立てである。
なにも手に入れない。
そのまんまの自分で、ある。
与えるものが受け取るものとは、どういう意味でしょうか。
目の前に茶碗があるとして、それを見ているのは自分でしょう。
茶碗と自分があって初めて、そこに事があるわけです。
この自分というのは、こころのことです。
眼が見ていると思うけれども、それは、心に映っているのです。
このようにして自分も対象も不可分です。
どちらかが欠けても、成立しない世界を生きているのです。
ここに、この茶碗は大嫌いだと「思う」としましょう。
そうすると大嫌いな茶碗を受け取るというそれだけのことです。
与えたものを受け取っている。
概念(イメージ)を与えているのです。
それでは、宇宙の法則とは、与える者が受け取る者。
つまり自分自身のこころが、自分を生かしているということだけです。
また宇宙の源泉というのは、こころの事です。
まきりんさんにも、僕にも、こころがあるのは当然ですよね。
このこころは対象とはなれてあるわけではないのです。
宇宙の源泉というのは、自分とはなれて、どこかにあるものではない。
何もしないでも、それは、そのまんま、不可分にここにあり続けるのです。
だから、何もしなくてもいいのです。
概念を手放すとか、修行するとか、特別になるとか・・・・・・。
しなくてもいいのです。
こころは不可分であり、それは、もう済んだことなのです。
こころの迷いをとることが、悟りであり、事実に気がつくことです。
なにか、自分を離れて、特別なことがあるわけではなく。
当たり前の話で「あー、そんだけのこと?」となるのです、笑
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