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自覚の方法に関すること

664ツヨシ:2016/09/21(水) 01:15:12
慧空さん、ご無沙汰しております。

自覚の基本は「私が考えを作っている」ですが、考えとは思考のことだけを指すのではなく、私も含め認識できるものすべてですと慧空さんは仰られてます。
私も感じるものすべてを「考え」として自覚をしているのですが、そもそもなぜ「考え」と呼ぶのだろうという疑問が以前からありました。
最近の実感と理解を交えると以下のように考えます。

よく哲学などで言われるのは、人は物に名前をつけることによって世界に起こることを分別しており、名前をつける前の実相世界は分別のないひとつの世界であると説明されます。
これはいわゆるワンネスと呼ばれるものと同じかと考えます。
まずワンネスがあり、それを思考によって名前を付け分離させていると言う理論です。
これは私も以前採用していた考えですが、観照意識に入り無思考となっても、やはりリンゴは赤く丸く目に映り、口に入れると甘いです。
赤という考えを落としても色は残り、色と色の境界もあります。

そこで気づいたことがあります。
夢を見ている状態の時、夢の中の出来事はすべて思考内での出来事ということは誰しもが納得するところと思いますが、
私とはひとつの意識のようなものであり、夢も現実世界も地続きならば、目の前に起こっていることは全部思考なんではないか?ということです。
思考というよりも想念のようなエネルギーのようなものでしょうか。

もし夢の中であえて実相があるとすれば、それは無となります。単純に無に映像が起きているのが夢です。
そして現実世界でもそれは同じであり、想念を落としたら無になってしまうのではないでしょうか。

私を含めたこの世界というのは、実相世界のようなものに概念で名付け分別しているのではなく、
まず先に概念または想念があり、それを元に現象が起きてるのではないでしょうか。
実相に浮かぶ赤く丸い玉に対し「リンゴ」と名付けたのではなく、「赤く丸い玉はリンゴである」という想念を元にリンゴができたとでも言いましょうか。
順序が逆なのではないかと考えました。
そうであるからすべて「考え」と呼ぶのではないかと。

この想念のような考えの連鎖が自我なのではと思いました。
無の中に自我が浮かんでいると言うイメージよりも、これらは表裏一体の関係かと思われます。
表裏一体の関係でひとつの意識と言うことなのかなと。

相変わらず理屈ばかりで気づいていない所もあると思いますが、体感としてもなんとなく感じてはいるところです。
散文で申し訳ございません、このようなことを考えていますが、慧空さんの考えをお聞きしたいです。


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