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★聖体奉仕会5〜秋田の聖母マリア101回の涙の奇跡〜★
49
:
D.Christian☆Mary☆Jacob Israel
:2024/06/19(水) 13:25:00
>>24-40
>>41-45
>>46-48
よりつづく
★☆★人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです★☆★
主イエス・キリストご自身が旧約聖書にある神さまの御言葉を用いて、
ご自身の到来の預言を解き明かしておられるのに、
グノーシス主義の方々はどうして、
その旧約聖書の神さまの御言葉を否定できるのか、理解に苦しみます。
新約聖書には聖書の御言葉が引用される個所が他にも数多くありますが、
当然のことながらいずれも旧約聖書のものです。
神さまは御子主イエス・キリストに
私たち人間ひとりひとりの罪を負わせ十字架にかけることで、
私たち人間ひとりひとりの罪を赦し、
私たち人間ひとりひとりにご自身との親しい交わりの関係を
回復する道を開いてくださいました。
神さまは御子主イエス・キリストを信じる「信仰」のほかには
いっさいの条件を付けず、救いへの門戸を、
私たち人間ひとりひとりすべての人に開いて、
救いにあずかるよう今も招いて待っておられます。
神さまを慕い求め、敬い、崇める心をもって、
神さまに出会わせていただき、心を開かせていただいた方々は、
神さまの御子主イエス・キリストを信頼し自身をゆだねて、
神さまの御子主イエス・キリストの御心に従う
「信仰」の恵みに与かられることでしょう。
ほんとうにアーメンです。
『口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から
復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです』
50
:
カトリックの名無しさん
:2024/06/24(月) 12:33:51
★【特集】ペトロダラー合意を巡りざわつくSNS、
サウジはドル建て取引を続けるのか?<コモディティ特集>
https://kabutan.jp/news/marketnews/?b=n202406190568
51
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 10:26:21
★#400「最も大切なこと」〜福音の三原則〜 コリント人への手紙 第一 15章2〜6節より
高原剛一郎 2022年5月6日 レディースタイム 東住吉キリスト集会
チャンネル登録者数 6.85万人
https://www.youtube.com/watch?v=AdHUrADfLPo&t=19s
52
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 10:29:13
★#400「最も大切なこと」〜福音の三原則〜 コリント人への手紙 第一 15章2〜6節より
高原剛一郎 2022年5月6日 レディースタイム 東住吉キリスト集会
チャンネル登録者数 6.85万人
https://www.youtube.com/watch?v=AdHUrADfLPo
53
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 13:45:27
★プラハで考えたガザ戦争 / 苦闘するイスラエルは明日の日本か
ごうちゃんねる チャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=idXk1s-dB7Q
54
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 13:54:18
★#648「人よ。メシヤに行こう」〜欧州伝道旅行 フィンランド編〜
ガラテヤ人への手紙 2章19-20より 高原剛一郎 2024年6月30日 日曜福音集会
東住吉キリスト集会 チャンネル登録者数 6.85万人
https://www.youtube.com/watch?v=D213J5yumvc&t=4s
55
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 13:57:26
★#648「人よ。メシヤに行こう」〜欧州伝道旅行 フィンランド編〜
ガラテヤ人への手紙 2章19-20より 高原剛一郎 2024年6月30日 日曜福音集会
東住吉キリスト集会 チャンネル登録者数 6.85万人
https://www.youtube.com/watch?v=D213J5yumvc&t=4s
56
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:00:15
★#648「人よ。メシヤに行こう」〜欧州伝道旅行 フィンランド編〜
ガラテヤ人への手紙 2章19-20より 高原剛一郎 2024年6月30日 日曜福音集会
東住吉キリスト集会 チャンネル登録者数 6.85万人
https://www.youtube.com/watch?v=D213J5yumvc
57
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:33:03
★地球誕生45億年の嘘 創造主はおられるシリーズ#8
ごうちゃんねる チャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=Hdjp8-WJDl0
58
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:34:19
★崩れ去った進化の証拠ー痕跡器官 創造主はおられるシリーズ#9
ごうちゃんねる チャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=RYNy6tM2ang
59
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:36:02
★自然淘汰は真実か 創造主はおられるシリーズ#10
ごうちゃんねるチャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=H_AMKmTF8q0
60
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:38:22
★遺伝情報のプログラマー 創造主はおられるシリーズ#11
ごうちゃんねる チャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=dxDczHYCxlU
61
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:40:45
★聖書が語る恐竜の謎 創造主はおられるシリーズ#12
ごうちゃんねる チャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=m8UlfqqagB0
62
:
カトリックの名無しさん
:2024/07/15(月) 14:43:01
★地動説を語るバイブル 創造主はおられるシリーズ#5
ごうちゃんねる チャンネル登録者数 4.58万人
https://www.youtube.com/watch?v=fVetHk04T2M
63
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/18(水) 17:01:42
>>49
よりつづく
★『聖書と歎異抄』 五木寛之・本田哲郎 共著 東京書籍刊より
「歎異抄」五木寛之私訳 から抜粋
あるとき、親鸞さまは、こう言われた。
善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。
「あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、
善人が極楽往生するのはきまりきっていることではないか」
こういうところが、普通一般の考えかただろう。
そのことばは、なにげなく聞いていると、理屈にあっているように思われないでもない。
だが、あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、
仏の願いにまったく反していることがわかってくる。
というのは、いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを
疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。
ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、
すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。
だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心をあらためて、
他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない。
・・・
わたしたちは、すべて悪人なのだ。
そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人々こそ、
仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。
おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人さえも往生できるのだから、
まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。
>>64
へつづく
64
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/18(水) 17:02:23
>>63
よりつづく
★『聖書と歎異抄』 五木寛之・本田哲郎 共著 東京書籍刊より
五木寛之氏と本田哲郎氏の対談から一部を抜粋
〇五木寛之
阿弥陀さんという仏さんがいて、その仏は向こうからわざわざこっちへやって来るのだと、と。
向こうからどんどんこっちへ近づいて来て、自分からあなたたちの袖をつかんで抱き留めて、
引き寄せて、救ってくださる仏さんだと。
その仏さんに抱き留められることが嬉しいと思ったら、
「なんまんだぶ(南無阿弥陀仏)」、阿弥陀様に帰依します、という感謝の気持ちの宣言、
つまり念仏をとなえなさいと、それだけでいいんだと。
●本田哲郎
うーん。
〇五木寛之
だから、お願いの念仏じゃないんだよ、と。ありがたい、という報恩感謝の念仏なんだと。
向こうから与えられ、おのずと口から出てくる念仏。
あなたは救われる、私も救われる。誰もが救われれる。嬉しいじゃないですか。
はい、嬉しいです。じゃ嬉しいということばを「南無阿弥陀仏」と言いましょうというので、
「ああ、なんまんだ、なんまんだ、なんまんだ」とおのずから口をついて出てくる念仏がある。
●本田哲郎
ああ......。
〇五木寛之
それまでにあった念仏は、依頼、依願の念仏でした。
●本田哲郎
こうして欲しい、と......。
>>65
へつづく
65
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/18(水) 17:03:07
>>64
よりつづく
〇五木寛之
こういうふうにしてください、お願いします。
一生健康で一家繁昌とか、病気快癒とか、世界平和とかね。
そうじゃなくて、あなたたちは信じれば必ず救われる。
救われたことで、たったひとりの仏さんから抱き留められて、
胸の中に抱えられたことで、
ああ、嬉しいとつぶやかない人がいるか。
そのことばが南無阿弥陀仏という念仏なのだと。
自分が唱えるのじゃなくて、いただいた念仏、というのです。
これが「他力」の念仏ということでしょう。
●本田哲郎
うーん。すごいですね。
〇五木寛之
阿弥陀さんというかたは自分の願として、
「貧しき人びとをひとり残らず救う。
救わない限り自分は仏にならない」という誓いを立てたのだがら、
その人が仏になっているということは、もう間違いなく、
あなたたちは救済されている証拠なのだと。
そういうふうに法然は言うんですね。
●ああ、そうか。
・・・
>>66
へつづく
66
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/18(水) 17:03:57
>>65
よりつづく
〇五木寛之
「後生わが身をいかにせん」と嘆いていたところへ、
法然や親鸞が、なに言っているんだ、
あなたたちこそ救われる、もう救われることは決まっているのだ、
信じさえすればいいんだ。
「ただ信あるのみ」。だから、そこはキリスト教と似ているのかもしれません。
ただ信じるだけなのだ、と。
●本田哲郎
そうそう。神のはたらきに信頼して行動を起こす。
〇五木寛之
信じたらもう救われた、後生は浄土へ報われるということがわかったならば、
そこでおのずと感謝のことばが洩れてくるであろう。
それが南無阿弥陀仏だよ、南無阿弥陀仏と言えばいいのだと。
●本田哲郎
なんかそっちのほうがいいな(笑)。
キリスト教の信仰、「ピスティス」とは、信頼して歩みを起こすという、
自分から動くことを条件にしていると思います。
〇五木寛之
自力が必要なんですね。
●本田哲郎
自力が必要なのです。だけど浄土真宗の、五木さんのおっしゃることからすれば、
すべて任せていい、という。すごく優しいというか。
>>67
へつづく
67
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/18(水) 17:09:01
>>66
よりつづく
〇五木寛之
それは他力ということなのですが、僕は、聖書もやっぱり他力なのだと思っています。
●本田哲郎
なんと......。
〇五木寛之
『歎異抄』の「回心」は、こっちが走って行ってつかむものではなく、
向こうからからやって来るということです。
聖書の回心も、回心にぶつかるというか、
向こうから回心が自分をつかむのではないですか。
ですから聖書もやっぱり他力だなと思って僕は聖書を読んでいました。
★『聖書と歎異抄』 五木寛之・本田哲郎 共著 東京書籍刊より
五木寛之氏と本田哲郎氏の対談から一部を抜粋しました。
興味関心を持たれた方はどうぞ本書を購入いただいて、
対話全文をお読みいただければと思いますが、
今回取り上げた箇所で、気になりましたのはやはり
フランシスコ会の司祭でいらっしゃる
本田神父さまの信仰観でありましょうか。
五木氏がキリスト教信仰について語っておられる個所については、
プロテスタント信仰に依って立つ立場からすれば、
きわめてまっとう、違和感なく受け入れられる内容であるはずだと思うのですが、
カトリック神学の立場に立つ神父さまにとってはやはり異質なものと感じられるのか、
救済をただ信仰によってのみ神さまからいただく一方的な恵みとする、
聖書の御言葉に基づいた他力による信仰義認の信仰観を掴みきれていないようです。
>>68
へつづく
68
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/18(水) 17:11:37
>>49
>>63-67
よりつづく
聖書の御言葉にあるように、私たち人間はみな神さまの前に、
罪性を帯びて道を踏みはずした、的外はずれな人生を歩む罪びとであり、
ひとりとして神さまの前に悔い改めるべき罪のない人間はいない、と示されています。
「すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けることができません」
(ローマ人への手紙第3章23節)。
神さまはそのような罪びとである人間を赦し、永遠の命の賜物を与えるために、
完全で罪のないお方である御子主イエス・キリストを、
この世にお遣わしくださったのでした。
私たち人間は御一人子主イエス・キリストの御名を信じる信仰をとおして、
悔い改め、行いによってではなく、恵みによって、
神さまの御力-絶対的な「他力」により、救われます。
世の終わりのときには、永遠に生きることのできる命をいただいて、
神さまの栄光を称え賛美し、約束された御国を
御一人子主イエス・キリストとともに受け継ぐこととなるのでした。
ほんとうにアーメンです。
69
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:37:02
>>49
>>63-68
よりつづく
★『聖書と歎異抄』 五木寛之・本田哲郎 共著 東京書籍刊より
五木寛之氏と本田哲郎氏の対談から一部を抜粋
★悪人とは誰か
〇五木寛之
この世の中に、進歩ってあるのかな、と思うのです。
たとえば大きな戦争は、古代からわれわれの現代に近づいてくるに従って、
逆に多くなっているように思えます。
●本田哲郎
絶望ですか。
〇五木寛之
絶望とも違います。
私は基本的にやっぱり......救済を求めていないのですよ、自分自身の。
あまりにも幼い時から、戦中・戦後の体験をしてきた中で、
親鸞のいう「悪人」なんて、何を言っているんだ、
当たり前じゃないかと、そういう思いをすることもありました。
たとえば引き揚げの極限状態の中では、
トラックに三人しか乗れないということがある。
でも五人まだ残っているというときに、すがりついてくる人間を、
先に乗った人間は足で蹴落とさなければ、生きて帰って来れないわけですね。
●本田哲郎
はい
>>70
へつづく
70
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:37:39
>>49
>>69
よりつづく
〇五木寛之
あるいは、ああいう状況の中で、子供と親が共倒れになってしまいそうな時。
発疹チフスなども大流行して、次々に栄養失調で子供は死んでいく。
親も食っていけない。
そういうときに現地の人たちが......日本の子供って評判いいんですよね。
なぜか日本人というのは優秀だと思っている。
●本田哲郎
ああ......
〇五木寛之
利口でよく働く、と思われている。で、子供を買いに来るわけ。
そうすると売るという人との間に入って両方の話をまとめたりするようなこととか、
女衒のようなこととか、もうありとあらゆる罪深いことをやって、
生きて帰って来ているものですから。
大陸から引き揚げの時、十人のうち五人帰って来て、五人帰って来られなかったとすれば、
帰ってきた人間は例外なく生きる執着心が他人(ひと)より強くて、
自分が大事で、他人を蹴落としても生き残ろうとする人間が帰って来られた。
「お先にどうぞ」なんていう優しい人は、全部もう死んでしまったように思います。
そう思うと、「悪人」だなんてあらためて言われても、
悪の自覚なんて、今さらなにを言うんだと。
ふつうの常識からすれば、こっちはもう地獄行きは当たり前じゃないか。
そんな中で少年時代から青年期になっていますから、
悪人救済なんて言われても全然、そんなんでいいの?というぐらい。
死んで、地獄・極楽があるのなら、自分は地獄行きだろう、そうしなきゃ、
この世の中のつじつまが合わないじゃないかと、ずっと思っていました。
>>71
へつづく
71
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:39:45
>>49
>>70
よりつづく
●本田哲郎
......。
〇五木寛之
親鸞の「悪人正機」という思想に出会って、目が開かれたように感動して、
親鸞のファンになったというより、むしろ親鸞の言う「地獄は一定すみかぞかし」、
つまり自分はもう地獄行きに決まっている。
そううまい話なんかないという、そういう感覚がずっとあります。
●本田哲郎
......。
〇五木寛之
「歎異抄」で親鸞の言っていることは、要するに、
生き残っている人間は全部悪人だということでしょうね。
●本田哲郎
そういうことですか。
〇五木寛之
ええ。仮に貧しき者、弱者であったとしても、この地上に生きているということは、
・・・弱肉強食の中で生き延びているわけだから。まあ原罪みたいなものです。
「歎異抄」では「宿業」ということばがあります。生きていることがすでに「業」である、という。
どんなに心の清い人であってもね。
百パーセント純粋な心で生きているわけでもないでしょうし。
人間は人間に対しても、やっぱり競争相手であり、
それは今の資本主義社会というのはそうだけど、昔の封建社会でもそうだったろうと思うし。
>>72
へつづく
72
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:40:28
>>49
>>71
よりつづく
●本田哲郎
ええ。
〇五木寛之
そう思うと、いわゆる善人とは、
自分が悪人だという意識などない人のことを言うのでしょうね。きっと。
●本田哲郎
うん、うん、うん。
〇五木寛之
自分は立派に生きていて、世間に対して何ら恥ずるところがなく、
胸を張って、誰からも後ろ指を差されず生きていると思いこんでいる人のことを、
「善人」というのかもしれません。
・・・・・・
〇五木寛之
・・・
これは書いたこともありますが、戦後、私たち家族が収容された場所は、
満州からの引揚者がいたり、ごちゃごちゃに、
セメント倉庫などに突っこまれているわけです。
そこにソ連軍が進駐してきた。
最初にやって来た部隊は囚人部隊、懲役大隊といわれる兵隊たちでした。
都市を占領して一週間とかはやりたい放題やらせる。
これはもうジンギスカンの時代から軍隊の伝統なのです。
自動小銃を抱えて深夜に乗り込んで来るのですね。
>>73
へつづく
73
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:41:06
>>49
>>72
よりつづく
家も接収されて追い出され、ありとあらゆるものが取り上げられたのですが、
そんなことぐらいでは済まない。
「女、出せ」と来るわけですよ。そうすると、倉庫にいる人たちは、
女性は隠しているのだけど、どうしても誰かをソ連軍に出さなきゃいけない、
ということになってくる。
誰を出すのかということを話し合います。
若い娘さんはダメだし、こっちの人は子供がいるし......。
結局、水商売をやっていたような人のほうへ、みんなが、
日本人会の世話人などが無言の圧力をかける。
するとそういう人は、あきらめるんです。「私が行きます」と。
●本田哲郎
......(深いため息)。
〇五木寛之
人身供養にして、その人が連れていかれる。
しばらくしてぼろぼろになって帰ってきたり、帰って来なかったりするのだけど、
帰って来たとき、ある母親が自分の子供に
「病気うつされてるかもしれないから近寄っちゃだめよ」と言ったんですよ。
ほんとうだったら、そこへ土下座して、涙ながらに拝まなきゃいけないのに。
●本田哲郎
ほんとに。
〇五木寛之
そういうものなんです。
そういう世界を通過してくると、悪人、善人を区別するどころの話じゃない。
>>74
へつづく
74
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:41:58
>>49
>>73
よりつづく
●本田哲郎
ああ......。
〇五木寛之
これも前に書きましたが、亡くなった野坂昭如さんが選挙に出たとき、
応援演説に行ったことがあるんです。
彼が「二度と飢えた子供の顔は見たくない。戦争に反対だ」というのを
選挙のスローガンにしていた。
僕は応援演説に行って、彼(野坂)はこんなこと言っているけど、
僕は全然、反対だと。僕は二度と飢えた親の顔を見たくないと言った。
●本田哲郎
うーん。
〇五木寛之
それは、三十八度線を越えてケソン(開城)という所で
収容されて難民キャンプに入っていたときに、
食う物も食わず、妹と弟と、鉄条網のところに突っ立っていたら、
通りがかりの朝鮮人のオモニ、
おばさんが芋をひとつ鉄条網越しに渡してくれたんですよ。
子供が飢えて可哀想だと思ったのでしょう。
そうしたら、どーんと突き飛ばされた。
日本人の大人の男が、弟が持っている芋をかっさらって逃げて行ったんです。
●本田哲郎
ふう。
>>75
へつづく
75
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:42:34
>>49
>>74
よりつづく
〇五木寛之
だから、二度と飢えた子供の顔じゃなくて大人の顔を見たくない。
二度と飢えた子供なんて甘っちょろいこと言うよ、と思ったんですけどね。
そんな中で、自分を守るということより、
僕の場合には母親が終戦直後に亡くなっていましたから、
弟と赤ん坊の妹は、長男である僕の責任だ。
自分だけならともかく、その二人を守らなきゃいけないでしょう。
そのためには、ほんとうにもう、人を殺してでも生きていかなきゃいけない。
それはもう悪人とか善人とか......善と悪との区別って相対的なものなのです。
●本田哲郎
そうですね。そういうことなのですね。
〇五木寛之
そういう状況を超えて来ている多くの人たちは、引き揚げの体験者以外にも、
第二次世界大戦の体験者には、たとえばユダヤ人、
アウシュヴィッツ(収容所)の人たちとか、山のようにいるでしょう。
そんなかたに、戦中・戦後体験を語れ、なんて言うけど、
ほんとうの体験なんて語られていませんよ。
戦争の体験は、じつにいろいろなものが冷凍庫に入れられて扉を閉めて、
ほんとうのことは誰も言わない。
そういう欺瞞の上に成り立っているのが今のこの国の状況ですし、
昔もそうであったのではないかと思ってしまうわけです。
>>76
へつづく
76
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:43:12
>>49
>>75
よりつづく
このように、敗戦と引き揚げという混乱の中で、
人を押し退けてでも前に出るようなエゴの強い人間が
生き残ってきたという思いがあるものですから。
自分の中にその後ろめたさがある。
「悪人」とはこういう人じゃないかというのは、全然関係ないですよ。
とにかく、こういう人間が生き延びてきたという。
我欲が強く、人を押し退けてでも前に出るような人間が生きて帰ってきた。
「善き者は逝く」(善人は早く亡くなる)ということばが、
僕はすごく心に沁みるのです。
●本田哲郎
あぁ......。
〇五木寛之
そんな人間として生きてきたのだからという、
後ろめたさが戦後ずっとあって、青春時代でも、
能天気に嬉しかったことは、ほとんどないですね。
いつも心に一点、曇りがあった。
自分は人を蹴落として生き延びてきた人間だということ。
こういう気持ちの人は、きっと多くいると思います。
●本田哲郎
......。
〇五木寛之
日本へ帰って来られた人間はすべて「悪人」だと。
残された人間が善人なんだと。
>>77
へつづく
77
:
カトリックの名無しさん
:2025/06/23(月) 13:43:58
>>49
>>69-77
よりつづく
そういう気持ちがあるものですから、
こんなふうにして生きていていいのかな、
という後ろめたさがずーっとあり続けたのですが、
後に親鸞の考え方とかそのことばを聞いて、
いや、自分も生きていていいんだという、
それこそ赦されたという感じがしたのです。
●本田哲郎
そういうことですね。
〇五木寛之
親鸞のことばのなかに、
「ひとりいて喜んでいるときはふたりいて喜んでいると思え、
ふたりいて喜んでいるときは三人いて喜んでいると思え。
そのひとりは親鸞である」(「御臨末の御書」)とある。
ひとりで悲しんでいる、あるいは喜んでいる。
そういうときはひとりなのじゃない。この親鸞もそこにいる、と。
寄り添ってくれる存在の心強さがあれば、
孤独も恐くないのかもしれません。
●本田哲郎
そうですね。
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