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地獄

1カトリックの名無しさん:2017/02/27(月) 00:39:06
地獄について

2カトリックの名無しさん:2017/02/27(月) 00:39:21
地獄に関するキリスト教の教え
1信仰の教え
大罪を犯してから、その許しを願わないで、大罪の状態のまま死ぬ入はみな、死ぬとすぐさばきをうけて、直接地獄におとされる、と教会は信じている。
自由意志を乱用して、かたくなに罪にとどまり、最後まで神のあわれみを断わる人は、永遠に神から遠ざけられてしまうのである。本当は、人は、天国で神の姿をありのままにみて、永遠の幸福をうけるように召されているが、罪においてかたくなったために、死ぬとき罪の状態にかためられた人は、天国の幸福を絶対に受けられないようになる。この人たちは、あわれみ深い唯一の神にそむいて、その不信仰をもって、むしろ"この世の神"である悪魔に従うことをえらんだ。"この世の神"という衷現を使徒聖パウロは使っている(1)が、それは悪魔のことである。キリストも悪魔のことを"この世のかしら∬と呼んでおられる②。こうしてかれらは、神に対するこの上もない侮辱と敵対を示し、まことの神の敵である悪魔を神として礼拝し、これに服従する。
111コリント後4・4。
{2}ヨハネiz・3ユ。14・30。16・11参照。

3カトリックの名無しさん:2017/02/27(月) 00:39:41
(マタイ5。22と29-30。マルコ9・43-48)。ゲヘンナに不減の業火があって、その火は消えないといっておられる。地獄をまた、℃もえさかるかまど"と呼び、そこには、なげきとはがみがあり、そこでは、うじがっきず、その火は消えることがないと明らかに忠告しておられる。
キリストは、地獄を招く罪を犯すよりも命までもぎせいにしなければならないと教えておられる。また、「体を殺せても、霊魂を殺せないものを恐れることはない、むしろ体と霊魂をゲヘンナで亡ぼせるお方を恐れよ」(マタイ10・28)といっておられるが、ゲヘンナで亡ぼせるお方とは、神のことである。
最後の審判について話されたときキリストは、選ばれた人々を祝福された者と呼び、亡びた人々を呪われた者とよんで、恐ろしい宣告をくだす。
「呪われた者よ、わたしを離れて悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火に入れ」というだろう。そして亡びた人々は「永遠の罰をうけるだろう」と福音書にあきらかに書いてある(マタイ25・41-46)。
最後の審判の時にキリストは、神を知らない人々と主イエズスの福音に服従しない人々をさばき、「その人々は、主のみ顔とその力の光栄から遠ざけられて、永遠の亡びの罰をうけるであろう」(テサロニケ後1・9)、また、「救いにいたる真理への愛をうけなかった亡びる者」
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4カトリックの名無しさん:2017/02/27(月) 00:39:54
たしたちは本当に言葉でそれを言い表わすことが出来ないけれど、主がそんなに悲しんでおられるのは、何とかわいそうなことだろう。わたしは、主イエズスを慰めることが出来れば、どんな犠牲をも献げたい」
ある日、わたしたちは牧場のペドレイダへ行った時、羊を放牧してから、岩から岩へ飛んで、深い谷底で、声のやまびこをしました。フランシスコは、いつものように岩の中の穴にかくれました。長い時間経ってから、わたしたちはわたしたちとマリア様を呼ぶかれの叫び声をききました。かれに、何かが起こったと思い、わたしたち二人は、その名を呼びながら悲しんでかれを探しに走ってゆきました。
「どこにいるの?」と呼ぶと、
「ここに、ここに」と答えました。
けれどかれを見っけるまで、かなりの時間がかかりました。やっと見つけた時、かれは恐れのために震えて、立ち上がることさえ出来ませんでした。
「何が起こりまみたか」かれは恐れで窒息しそうな声をして、
「わたしたちが地獄で見た一匹の恐ろしい野獣がここにいたんだ。ここで火の炎を口から吹き出した」と答えました。
わたしとヤチンタは、何も見ませんでしたから、笑いながら、
「あなたは前には地獄のことを考えたくないので、少
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5カトリックの名無しさん:2017/02/27(月) 00:40:05
(同2・10)も同じ天罰をうけるであろうといわれている。
神の真理を認めるなら救われるようになるが、このためには、神の真理をうけ入れて愛さなければならない。真理を信じないなら、不義を好むことになるから、神のさばきを受ける(同2・12)。
4使徒聖パウロの教え
ローマ人への手紙の中で、「真理に従わず不義に従う反逆者のために」地獄の罰が残っている(ローマ2・5-8)とある。
悪を行う人はみな神の罰をよびくだす(エフェゾ5・6)。悪を行う者は神をあなどることになるから、その恐ろしい報いをうける(ガラツィア6・7)。神のおきてに逆いて、神のみ旨に従わない人は、天罰を招き(コロサイ3・6)、神の国をっがない(ガラツィア5・21。エフェゾ5・5)。
聖パウロは、コリント人への第1の手紙(15・28)の中で、世の終わりに、「すべてが神に服従するであろう。それは、神がすべてにおいてすべてとなるためである」といっている。そうすると、すべてといえば、悪魔と亡びた人も含まれている。
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6カトリックの名無しさん:2017/02/27(月) 01:05:02

『地獄について この無視された真理』デルコル神父

 教会の教えの中に、現代無視された一つの真理がある。それは、地獄のことである。聖書によると地獄は一定の場所と状態であり、地獄の天罰が永遠であるということは信仰箇条であって、信仰箇条の中で一番恐ろしいものである。聖書と教会の伝統的な教えを大事にし、永遠の天罰をさけるために信仰を守ろう。


★1、地獄に関するキリスト教の教え

◆1、信仰の教え

 大罪を犯してから、その許しを願わないで、大罪の状態のまま死ぬ人はみな、死ぬとすぐさばきをうけて、直接地獄におとされる、と教会は信じている。

 自由意志を乱用して、かたくなに罪にとどまり、最後まで神のあわれみを断わる人は、永遠に神から遠ざけられてしまうのである。本当は、人は、天国で神の姿をありのままにみて、永遠の幸福をうけるように召されているが、罪においてかたくなったために、死ぬとき罪の状態にかためられた人は、天国の幸福を絶対に受けられないようになる。この人たちは、あわれみ深い唯一の神にそむいて、その不信仰をもって、むしろ"この世の神"である悪魔に従うことをえらんだ。"この世の神"という表現を使徒聖パウロは使っている(1)が、それは悪魔のことである。キリストも悪魔のことを"この世のかしらと呼んでおられる(2)。

 こうしてかれらは、神に対するこの上もない侮辱と敵対を示し、まことの神の敵である悪魔を神として礼拝し、これに服従する。

(1)コリント後4:4。
(2)ヨハネ12:31。14:30。16;11参照。

9カトリックの名無しさん:2017/03/13(月) 00:06:12
『地獄について この無視された真理』アロイジオ・デルコル神父、15

◆6、聖アウグスチノ司教(354-430年)「神の町」(413-426年)から

 人はよみがえったとき、霊魂と体は再びいっしょになる。この世で死ぬとき体の苦しみは終わるが、来世において、亡びた人は、神を見ることができないから、本当の命よりも、永遠の死をうける。

 人間の霊魂は肉体ではないのに、今は肉体の中に宿っている。そしたら肉体のない霊〔悪魔の霊と死んでからの人間の霊〕が不思議な方法であるにしても、実際に物質的な火によって苦しめられるといえないだろうか。なぜなら、人聞の霊は、もちろん肉体とは違うが、今のところ肉体と結ばれているだけでなく、来世において自分の肉体と、ときはなすことのできない方法で結ばれるようになるからである。

・・・〔黙示録(20:10)にあるように〕"火と硫黄との池"ともいわれるあのゲヘンナは、物質的な火であり亡びた人の体を苦しめるだろう。人間も悪魔も苦しめるだろう。人間の場合は物質的な体があるものであり、悪魔の場合は霊的な存在物である。人間の体はその霊魂とともに、悪魔の霊は肉体なしにいっしょに苦しみをうけるだろう。

 物質的な火によって命を与えるのではない。真理〔そのものである主〕がいわれるように、"悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火"(マタイ25:41)に愚魔も呪われた者も入らねばならないのである。

 〔短い期間で犯された罪のために地獄の永遠の火で苦しめられるのは、矛盾ではないか、と考える人に答える〕永遠の命を認めるなら、永遠の天罰も認めなければならない。なぜなら、キリストは同じところで、そして唯一の同じ文章をもって"これらの人は永遠の罰をうけ、義人は永遠の生命に入るであろう"(マタイ25:26)とおおせになったからである。

 両方とも永遠であるなら、その永遠とは、両方の場合いつか終わりがあるという意味だろうか?そうではない!両方の場合とも決して決して終わらないという意味にとるべきである。なぜなら、永遠の罰と永遠の生命は同程度でいわれているからである。もし、永遠の命に終わりがないといいながら、永遠の罰に終わりがあると同じ意味でいうなら、それは非常に矛盾したことである。


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