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聖人伝 5月

1カトリックの名無しさん:2015/05/01(金) 03:06:42
今日の聖人(5月1日)
労働者聖ヨセフ

1052年-1132年

 ヨセフは、イエス・キリストの養父として、大工の仕事にいそしみながら、イエスとマリアを養った。彼は、労働は人間性を高める手段であることを教えてくれた。1955年に教皇ピオ12世は、この日を労働者の模範であるヨセフの保護のもとにおき、感謝の日と定めた。肉体的な労働にせよ、知的労働にせよ、わたしたちがどういう意向で働くかが大切である。

2カトリックの名無しさん:2015/05/02(土) 05:35:58
今日の聖人(5月2日)
聖アタナシオ司教教会博士

294年-373年

 エジプトのアレキサンドリアに生まれた聖アタナシオは、20歳のとき砂漠の隠遁者聖アントニオと出会い、彼のもとで数年間修業した。修道生活を東方から西方にもたらしたのもアタナシオである。

 そのころ同じ町でおこったアリウス派の異端(キリストの神性を否定)がしだいに広がり、社会不安にまでなっていった。このため、時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、325年にニケア公会議を開いた。司教からの依頼を受けたアタナシオは、綿密な論陣をしいてこの異端と大論争をし、大多数の司教たちの支持を受け、教会は「キリストは本性において神である父と同一のもの」であると宣言し、信仰をはっきりさせた。このときに定められたのが、ニケア使徒信経である。アタナシオは、328年にアレキサンドリアの司教になり、公会議とその教えを支えたが、歴代のローマ皇帝の変転する宗教政策により、追放5回のべ17年間の亡命生活を余儀なくされた。その間多くの優れた著書を残した。

3カトリックの名無しさん:2015/05/03(日) 08:52:13
今日の聖人(5月3日)
聖フィリポ 聖ヤコブ使徒

?-78年ごろ/?-62年

 聖フィリポは、ガリラヤのベトサイダで生まれ、イエスに従った最初の弟子の一人であった。福音書には、フィリポについてわずかしか記されていないが、イエスと親しく交わり、素朴で用心深く、現実的な人であったといえる。その後の活動については、伝えによると、今のトルコのフリジアで宣教し、そこで殉教したといわれる。彼は、さらし業と帽子業の保護の聖人である。

 聖ヤコブは、使徒大ヤコブと区別するために、小ヤコブとも呼ばれる。ヤコブは、イエスの親類であり、エルサレム教会の初代司教となった。彼は市民から尊敬され、多くの人を信仰を導いたが、そのためファリサイ人の反感をかい、殉教した。最後の瞬間まで、自分を殺す者たちのために祈った。

4カトリックの名無しさん:2015/05/04(月) 03:15:16
今日の聖人(5月4日)
聖十字架発見の記念

 312年に「ミラノ勅令」で信教の自由を保証たコンスタンティヌス大帝の母聖ヘレナ皇后は、熱心なキリスト信者であった。彼女は、イエスの釘付けられた十字架を一目見たいという望みにかられ、ゴルゴダの丘を発掘させ、3つの十字架を見つけた。その中の一つに触れると病気が治ったりするなど、かずかずの奇跡が起こったので、その十字架こそ、キリストがはりつけられた聖十字架であるということが確証された。コンスタンティヌス大帝は、キリストが十字架に付けられた場所と復活された場所に、キリストの死と復活を記念する十字架聖堂と復活聖堂を建てた。(早い時期から聖十字架は分割され、あちこちに置かれた)

5カトリックの名無しさん:2015/05/05(火) 01:03:44
今日の聖人(5月5日)
アルルの聖ヒラリオ司教

400年-449年

 アルルの聖ヒラリオ司教は、フランスの貴族の家庭に生まれ、地方の役人として有望な職に就いていた。しかし、親戚であり、後に司教となったホノラトゥスのすすめで、共に修道生活をはじめた。ホノラトゥスがフランス南東部にあるアルルの司教に叙階されたとき、ヒラリオは補佐として選ばれ、彼自身も29歳のときに司教となった。

 彼は司教になってからも、修道者のように祈りと労働に励み、持ち物を売っては、貧しい人たちに施していた。才能に恵まれた、すぐれた説教家であり、質素な服装で、あらゆるところに歩いて旅をした。

 当時、南部のガリア地方(現在のフランス、ベルギーなどの一部にあたる)では、マルセイユのカッシアヌスの指導を受けた修道者を中心に半ペラギウス派が広がり、レランス修道院はその拠点であった。彼らは、神は善を求める人間の意志を助けるが、神ではなく、人間がはじめの第一歩をなすと考え、ヒラリオも半ペラギウス派であったと言われている。

 彼はガリア地方における裁治権を広げようと、フランス東部にあるブサンソンの司教をやめさせたが、教皇レオ1世によって取り消された。彼の残した著書『聖ホノラトゥス伝』には、ホノラトゥスの生涯と説教が描かれている。449年、49歳で亡くなった。

6カトリックの名無しさん:2015/05/07(木) 02:32:51
今日の聖人(5月7日)
聖ローザ・ビテルリー

1656年-1728年

 ローザは、イタリアのヴィテルボで生まれた。父は医師であった。修道院に入ってから父親が亡くなったので、一人になった母親の世話をするために家にもどった。リーダーシップがあるローザは、やがて近所の若い女性たちを集めて祈りの集いを開くようになり、1685年には、女性たちのための学校を開いた。ローザは天才的な教育者だった。子どもを通わせる親たちは、品位を重んじたローザの教育をとても喜んだ。

 ローザの評判は広がり、司教に招かれて学校を組織化したり、教師を育てたりし、その後、さまざまな地域で学校を組織化していった。1713年、教皇クレメント11世は、ローマに学校を開いたローザを祝福した。この熱心でひたむきな教師は、1728年5月7日、72歳の生涯を閉じた。1952年、教皇ピオ12世によって列聖された。

7カトリックの名無しさん:2015/05/07(木) 07:59:52
今日の聖人(5月6日)
聖フェルナンド3世・王

1199年-1252年

 フェルナンドは、スペイン国王アルフォンソ9世とカスティリアのベレガリアの間に生まれた。1217年にカスティリアの国王となり、国民の幸せを願い、熱心な信仰生活の手本を示しながら人びとを導いた。質素な生活をし、国政をとるのも祈りのうちにしたといわれる。当時のスペインは大半がイスラム教の支配下にあったため、フェルナンドはそこを攻略しスペイン全土をカトリック国として統一した。彼は、フランシスコ会第三会に入会したので、その保護の聖人の一人とされている。

8カトリックの名無しさん:2015/05/08(金) 03:43:55
今日の聖人(5月8日)
聖ペレグリーノ修道者

1260年-1345年

 ペレグリーノは、イタリアの中部フォルリー市で育った。彼が少年のころ、市は教皇の権利を無視するようになっていた。そのため、教皇は聖フィリポをその市に送り、人びとを教会に立ち戻らせようとした。ペレグリーノも、フィリポの説教と熱意にうたれ、フィリポがいる「マリアのしもべ会」に入った。ある日、聖母マリアがペレグリーノに現われて、彼の名前「ペレグリーノ」は「旅人」の意味であり、その名が示すように地上において旅人になると言われた。そのとおり、彼はいつも立って出歩くことを自分の生涯と決めた。彼はフォルリー市の貧しい人びとや病人を訪れて慰め、懸命に働いた。

9カトリックの名無しさん:2015/05/09(土) 01:31:59

今日の聖人(5月9日)
聖パコミオ

290年ごろ-346年

 エジプトのパコミオは、青年時代に自分の望みに反して軍隊に入れられた。そのため軍隊に反発する若者たちとともに、係の士官から罰として監禁され、囚人としてナイル川を下って連れて行かれた。そのとき出会ったキリスト信者に、彼らは食べ物を与えてもらった。パコミオは、その親切な行為に感激して、軍隊から解放されたとき信者となった。そして砂漠にこもり祈りと修行に励み、その後ナイル川の岸に修道院を創立した。彼は、 聖なる規則のもとに聖書を読み、仕事をし、祈る生活をする、高度に組織化された修道院を作った。

10カトリックの名無しさん:2015/05/10(日) 01:38:38
今日の聖人(5月10日)
聖アントニーノ大司教

1389年-1459年

 アントニーノは、イタリアのフィレンツェに、公証人ピエロッチの子として生まれた。彼は小さくておとなしかったので、人びとからアントニーノ(小さいアントニオ)と呼ばれた。学問や美学の才能に恵まれ、16歳のときにドミニコ会に入る。後に、イタリア各地のドミニコ会の院長および総長を40年間務めた。彼の教会法の学識は高く評価され、1439年のフィレンツェ公会議に神学顧問として列席し、1446年にフィレンツェの大司教になった。生活は質素で、お金や食べ物などを貧しい人びとに与え、ペストが流行したときにはその援助に尽くした。

11カトリックの名無しさん:2015/05/11(月) 01:49:28

今日の聖人(5月11日)
聖レステルプのウォルター大修院長

?-1070年

 ウォルターは、フランスのレステルプの修道院で、亡くなるまでの38年間院長を務めた。1062年に目が見えなくなるが、仲間の修道士たちの願いから、院長職を続けた。ウォルターの判断力はとても優れていたので、教皇は彼に、キリスト教の教えに不忠実で罪を悔い改めない者を、カトリック教会から破門する権力を与えた。ウォルターは寛大な人物で、料理人がうっかりして金曜日(その日は、キリストが十字架にかかった日であるから、肉食を避ける規則があった)に肉料理を作ってしまったときも、彼は自らその肉料理を食べ、人びとに規則を越えるキリストの愛を示したといわれる。

12カトリックの名無しさん:2015/05/11(月) 20:30:15
今日の聖人(5月12日)
聖パンクラチオ殉教者

289年ごろ-304年

 聖パンクラチオは小アジア(トルコ)のフリジアで生まれた。両親はローマの市民権を持っていた。母親のクレオニアはパンクラチオが生まれる際に亡くなり、パンクラチオが8歳のとき、父親は彼を残して去ってしまった。彼は叔父に育てられ、後にローマに移り、そこで受洗した。その後熱心な信者となったが、ローマ皇帝ディオクレティアヌスのときに捕らえられた。ローマの神々に犠牲をささげ、皇帝に忠誠を誓えば、富と権力を与えると約束されたが、彼は拒否した。パンクラチオの強い信仰は皇帝の怒りを買い、最後は首を斬られて殉教した。

 遺体はカタコンベ(ローマ)に埋葬され、500年、聖シンマコ教皇は聖パンクラチオの墓の上に大聖堂を建てた。現在、大聖堂にはパンクラチオの遺骨が収められている。

13カトリックの名無しさん:2015/05/13(水) 23:33:21
今日の出来事(5月13日) 
ファチマの聖母

 ファチマは、ポルトガルの山の中にある村です。1917年5月13日、ここに聖母がご出現なさったのは、第一次世界大戦さなかのことでした。聖母のご出現を受けたのは、3人の牧童でした。

 そのとき、一番年上が ルチアという10歳の女の子、次がルチアのいとこで9歳のフランシスコという男の子、そしてその妹で7歳のヤシンタでした。彼らは、祈ることは知っていましたが、まだだれも読み書きを知りませんでした。

 この日、いつものように羊たちと家を出て丘で遊んでいると、突然、非常に激しい閃光が光り、小さな柊(ひいらぎ)の木の上に、光そのもののように輝く貴婦人が立っていました。

 貴婦人は、子どもたちに6ヵ月間続けて、毎月13日に、今日と同じ時間に、ここに来るようにと願われました。そして、6回目のご出現で、貴婦人は「ロザリオの元后」であることを名乗られ、ここに聖堂を建てて欲しいこと、毎日コンタツ(ロザリオ)を唱えることを続けるように願われ、もうすぐ戦争が終わり、兵士たちが家にまもなく帰ることを告げられました。

 聖母は、ファチマでも、ルルドと同じように、病人を癒されました。そしてこのご出現で、3人の子どもたちにいくつかの啓示を与えられました。それは、現代の人びとのおごりに対する警告です。

14カトリックの名無しさん:2015/05/18(月) 01:09:41

今日の聖人(5月18日)
聖ヨハネ1世教皇殉教者

在位523年-526年

 ヨハネ教皇は、イタリアのトスカナに生まれ、聖職者の中では若いときからその雄弁さと模範的生活で知られていた。523年に教皇に選ばれる。当時イタリアは、異端を唱えたアリウス派を擁護する東ゴート族のテオドリックの支配下にあったが、東ローマ帝国のユスチノ1世は、アリウス派をカトリック教会と併合する勅令を出していた。テオドリックは勅令を取り消させるために、教皇ヨハネ1世を団長とし、失敗した場合にはカトリック教会への報復をほのめかして、無理やりに東ローマに折衝に行かせた。ヨハネは初めて東ローマ帝国を訪れた教皇となり、東ローマ側から歓待を受ける。だが、ユスチノ1世は妥協を示さず、使節団は成果を何一つ手にすることなく帰国した。テオドリックはその結果に激怒し、ヨハネを捉えて牢へ投じた。彼は即位時点でかなりの老齢であり、長旅と老衰からテオドリックの処分を受ける前に獄死する。教皇の死についてはいくつかの伝聞が残され、時代が下った14世紀に作られたラヴェンナのサンタ・マリア・イン・ポルト・フォーリ教会のフレスコ画では、テオドリックが教皇を死に追い込んだ様子が描かれ、さらに下った15世紀には直接の「処刑」の様子を描いた細密画が描かれている。

15カトリックの名無しさん:2015/05/22(金) 02:14:30
今日の聖人(5月22日) 
聖リタ(カシァ)修道女

1381年-1457年

 リタは、イタリアのウンブリアの小さな村に生まれた。両親が高齢になってから生まれたので、神からいただいた賜物として、両親は大切に育てた。リタは、カシアにあったアウグスチノ会の修道院に入ることを夢見ていたが、両親が決めた青年に嫁いだ。2人の間に双子が生まれたが、夫の激しい性格に苦しみ、リタは祈りによって家庭生活を支えた。ある日、町を二分する政党の争いに巻き込まれた夫が、暴力を受けて亡くなった。リタは、息子たちが復讐をするのではないかと恐れたが、2人はまもなく病気で亡くなった。

 一人になったリタは、若いときに希望していたアウグスチノ会に入会しようとしたが、夫の事件の関係で拒否された。しかし、神からの招きを確信して祈り続けたリタは、政党間に和平が実現したことにより入会を許された。リタは妻として、母として、未亡人として、修道者として、愛に根ざした平和を人びとにもたらした。
 夫との長く苦かった生活は、リタに不和をおさめる方法を学ばせた。家庭内に問題のあるところでは彼女の忠告が喜ばれ、そのとおりにすると必ず幸福が帰ってきた。60歳のある日、リタが十字架像の前で祈っているときに、キリストの茨の冠から額に一本のとげを受けた。またリタは、「望みのないときの助け手」と言われている。

 生涯の最後の4年間は寝たきりとなったが、忍耐と明るい性格によって、姉妹たちと訪れる人びとを支え、1457年5月22日、76年の生涯を閉じた。

16カトリックの名無しさん:2015/05/23(土) 01:16:11
今日の聖人(5月23日)
福者ヨハネ・バプチスタ(マカド)と聖ペトロ(被昇天)司祭殉教者

17世紀初め

 2人は、日本のキリシタン迫害時代の殉教者である。
 ヨハネ司祭は、ポルトガルの貴族の家に生まれた。11歳のときに、日本での殉教者の話を聞いて感動し、司祭を志した。イエズス会に入り、1609年に来日し宣教活動をする。当時日本は、家康による禁教令下にあった。彼は、宣教をしたために捕えられた。

 一方、ペトロ司祭はスペインで生まれ、フランシスコ修道会に入った。1609年に来日し、長崎にある同会の修道院長として宣教に務める。2人とも、投獄され、首をはねられて殉教した。彼らは亡くなったが、信者の数はますます増えていった。

17カトリックの名無しさん:2015/05/27(水) 04:54:44
今日の聖人(5月27日) 
聖アウグスチヌス(カンタベリー)司教

?-607年

 5世紀の中ごろ、イングランドにアングロ・サクソン民族が渡ってきたので、キリスト教はほとんど消滅していた。時の教皇、グレゴリウス1世は、アングロ・サクソン民族をキリスト教化しようとし、親友であったベネディクト会士アウグスチティスを宣教師としてイングランドに派遣した。アウグスティヌスは、40名のベネディクト会士を伴ってイングランドに渡り、首都カンタベリーを拠点に、熱心に宣教活動を行った。その結果、国王をはじめ、貴族、一般市民など、数千人が洗礼を受けた。後に彼はカンタベリーの大司教に任命され、多くの功績を残した。

18カトリックの名無しさん:2015/05/31(日) 11:25:09
今日の聖人(5月31日)
聖母マリアの訪問

 聖母マリアのエリザベト訪問を記念する日。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、彼女の親族であるエリザベトも懐妊した。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそく山里にあるエリザベトの家を訪ねる。マリアの訪問を喜んだエリザベトは「あなたは女の中で祝福された方です。……わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう……」と感動した。マリアは、神に感謝して祈った。この祈りが有名な「マニフィカト」である。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。……」
     (ルカ 1.46〜55)

 エリザベトを励まし手伝うマリアの行為は、神と隣人に対する愛の業である。

19カトリックの名無しさん:2015/05/31(日) 11:25:21
今日の聖人(5月31日)
聖母マリアの訪問

 聖母マリアのエリザベト訪問を記念する日。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、彼女の親族であるエリザベトも懐妊した。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそく山里にあるエリザベトの家を訪ねる。マリアの訪問を喜んだエリザベトは「あなたは女の中で祝福された方です。……わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう……」と感動した。マリアは、神に感謝して祈った。この祈りが有名な「マニフィカト」である。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。……」
     (ルカ 1.46〜55)

 エリザベトを励まし手伝うマリアの行為は、神と隣人に対する愛の業である。

20カトリックの名無しさん:2016/05/05(木) 00:23:45
今日の聖人(5月5日)
アルルの聖ヒラリオ司教

400年-449年

 アルルの聖ヒラリオ司教は、フランスの貴族の家庭に生まれ、地方の役人として有望な職に就いていた。しかし、親戚であり、後に司教となったホノラトゥスのすすめで、共に修道生活をはじめた。ホノラトゥスがフランス南東部にあるアルルの司教に叙階されたとき、ヒラリオは補佐として選ばれ、彼自身も29歳のときに司教となった。

 彼は司教になってからも、修道者のように祈りと労働に励み、持ち物を売っては、貧しい人たちに施していた。才能に恵まれた、すぐれた説教家であり、質素な服装で、あらゆるところに歩いて旅をした。

 当時、南部のガリア地方(現在のフランス、ベルギーなどの一部にあたる)では、マルセイユのカッシアヌスの指導を受けた修道者を中心に半ペラギウス派が広がり、レランス修道院はその拠点であった。彼らは、神は善を求める人間の意志を助けるが、神ではなく、人間がはじめの第一歩をなすと考え、ヒラリオも半ペラギウス派であったと言われている。

 彼はガリア地方における裁治権を広げようと、フランス東部にあるブサンソンの司教をやめさせたが、教皇レオ1世によって取り消された。彼の残した著書『聖ホノラトゥス伝』には、ホノラトゥスの生涯と説教が描かれている。449年、49歳で亡くなった。


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