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作業5

88とら:2017/04/15(土) 20:19:09
 戦国の武将たちは、この新兵器を手にいれるのに血まなこだった。しかし鉄砲も火薬なけれぱタダの筒」だ。これは「コンピューター、ソフトなければタダの箱」というのに似ている。だが歴史書に鉄砲の話はあっても、なぜか肝心の火薬の調達とくに製法については曖味である。鉄砲伝来当初には、火薬の一つの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入したようだが、まもなく国産化した。黒色火薬は、硝石七五、木炭一五、硫黄一〇の割合で混合したものである。いずれも細かい粉末である。
 硫黄や硝石は粉にしやすいが、木炭を粉にするのはかなり難しい。その粉づくりの技術次第で鉄砲の性能が左右される。粉にする仕事は下級武士が下々に命ずる。下々はまだその手下に命じる。このパターンは現代のハイテクの大企業が下請に素材をつくらせるのに似ている。現代の下請工場の歴史が残らないであろうように、戦国時代のマル秘火薬調合工場にも一切の記録がない。

 しかし、ここにひとつの事実がある。この時代の激戦地の遺跡から、おびただしい石臼の破片が、まとまって出土することが多い。しかも、おもしろいことに、抹茶用の茶磨と粉を挽く石臼とが、同じ場所に集まっている。全く用途がちがい、挽く人の身分もちがうはずの二種類の石臼が混在するのはなぜか。よく調べると、石の質も形状もまちまちなのである。これはあちこちから集めてきた証拠である。茶磨は当時まだ一般庶民には普及していない道具だから、かなり遠方の寺院なごからとりよせた。その石臼は攻める軍勢に徹底的に破壊されている。敵の手にわたるのを恐れたのか、それとも侵入者が破壊したのだろうか。長野県伊那郡で発見された遺物は囲炉裏の灰の中だったという。おかげで火災で焼けてはいたがほぼ完全な形状を留めていた。それは天正元年信長軍の仕業だった。
http://bigai.world.coocan.jp/msand/powder/bunka5.html




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