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大久保長安

1うし:2016/02/17(水) 03:00:07
大久保 長安(おおくぼ ながやす(ちょうあん))は、戦国時代の武将。武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。
死没 慶長18年4月25日(1613年6月13日)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の6男・松平忠輝の附家老に任じられた。
7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺を整えたのも長安である。山がちであり、各地に諸勢力が散在する封建日本でこうした着想があったのは幕府という統一的な行政機構の発足ゆえであろう。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した(『駿府記』、なお『当代記』は好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)を遠因に挙げている)。享年69。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89


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