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北条時行

1うさぎ:2015/10/27(火) 00:31:30
北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男。
死没 正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日)

建武2年(1335年)7月、10歳前後(7歳とも)であったと考えられている時行は信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏に擁立されて挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、道中建武政権に不満を持つ武士を糾合しながら武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍した。7月22日には女影原(埼玉県日高市)で待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を破って、ついに尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破り鎌倉を奪回した。
時行軍は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破するが、京から直義救援に駆けつけた足利尊氏に、遠江国橋本、小夜の中山、箱根、相模国相模川、片瀬川などの戦いで連破され、時行の軍は壊滅し時行は逃亡した。時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に立った鎌倉の一時的支配者となったことから、この乱は中先代の乱と呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C

2うさぎ:2015/10/27(火) 00:40:06
2013年7月28日 - 松井秀喜の引退式が、ヤンキースタジアムの「ヤンキースVSレイズ」の試合前に行われた。
2013年7月28日 - EAFF東アジアカップ 2013日本が大会初優勝。
2013年7月28日 - 平成25年7月28日の島根県と山口県の大雨。山口県と島根県の県境で大雨が降り、死者・行方不明者4名を出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8828%E6%97%A5#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8
この日は旧暦6月21日。
北条時行没後皇紀660周年記念日。

3うさぎ:2015/10/27(火) 00:48:44
2013年7月27日 - 【北朝鮮】平壌金日成広場で朝鮮人民軍による祖国解放戦争勝利60周年慶祝閲兵式が行われ無人攻撃機、「ムスダン」など4種類の弾道ミサイルが登場する[64]。
2013年7月28日 - 【フランス】カンヌの高級ホテルで開かれていた宝石の展示会に、何者かが押し入り、イスラエルの富豪が所有するダイヤモンドなど4000万ユーロ(約52億円)相当の宝石が盗まれる、近年では欧州で最大級の宝石盗難事件発生[65]。
同上。

4うさぎ:2015/10/27(火) 00:50:21
2012年5月20日 - イタリア北部地震。
2013年5月20日 - ムーア竜巻。米国オクラホマ州でFE5の竜巻が発生し、24人が死亡。
この日は、真珠湾攻撃・九軍神の一人佐々木直吉なおきちの生誕100周年記念日。

※ この竜巻は日本、特に安倍政権の陰謀である可能性が高い。安倍首相の太平洋戦争へのこだわりは異常だ。アベノミクスを推進する安倍首相、麻生財務相、黒田日銀総裁は、「神風特攻隊三人組」と言わざるを得ない。第1次安倍内閣の発足した2006年9年26日は、米兵向けプロパガンダ放送を担った東京ローズの命日だった。

この日は旧暦で4月11日、早稲田実業のスラッガー清宮幸太郎きよみや こうたろうの元服数えの15才の誕生日。

2013年5月20日 - ▲日経平均株価が5年5カ月ぶりの高値、1万5360円を記録。
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/05/0520.html

5うさぎ:2015/10/27(火) 00:54:03
東住吉事件(ひがしすみよしじけん)とは、1995年7月22日に大阪府大阪市東住吉区で発生した事件。民家で火災が発生し、内縁の夫により性的虐待を受けていた女児1人(当時11歳)が死亡した。内縁の夫と女児の母親の犯行として無期懲役刑が確定したが、無罪を訴えている。日本弁護士連合会が支援する再審事件である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BD%8F%E5%90%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E8.A3.81.E5.88.A4.E3.81.AE.E7.B5.8C.E9.81.8E.E3.83.BB.E7.B5.90.E6.9E.9C

6うさぎ:2015/10/27(火) 00:55:29
渋川義季
渋川 義季(しぶかわ よしすえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。渋川氏4代当主。
死没 建武2年7月22日(1335年8月11日)

正和3年(1314年)、渋川貞頼の嫡男として生まれる。生母は不明であるが、兄妹に足利直義夫人がいる。諱の「義」の字は直義の偏諱を受けたものか。
元弘3年(1333年)5月、足利尊氏が鎌倉幕府に対し叛旗を翻して六波羅探題に攻め入ると、他の多くの足利一門と共にこれに従い六波羅攻略に活躍した。 建武の新政がなると、義兄弟の足利直義に属して鎌倉将軍府に出仕し、義季は鎌倉将軍・成良親王の近衛組織である「関東廂番」の筆頭を務めるなど、鎌倉将軍府の重臣として重きをなした。
建武元年(1334年)3月、幕府残党が鎌倉へ攻め寄せる事態が起きると、義季は鎌倉の大将として極楽寺で迎え撃ちこれを鎮める事に成功した。翌2年(1335年)7月、北条高時の遺児・時行が挙兵して中先代の乱が勃発すると、再び義季はこれを鎮定する為に出陣するものの、これに敗れ、7月22日に女影原において岩松経家と共に自刃した。享年22。直義は義季の忠勇に感激して「世の為に消にし露の草の陰 思やるにも濡るる袖かな」との歌を遺族へ送ったとされる。
義季の数少ない挿話に次のようなものがある。女影原の戦いで敗北した義季が自害を決心した時、ある新参の家臣を呼んで「お前は未だ私の家臣となって日が浅いのだから、ここで共に死ぬには及ばない。急いで戦場を脱け出して鎌倉へ戻り、相州(直義)殿へ合戦の経緯や我々の自害の様をお伝えせよ」と申し付けた。しかしこの新参の家臣は「なんと口惜しい事をおっしゃるのでしょうか。武士の最期に古参、新参などは関係ありません」と嘆いて真っ先に自刃したという。

7うさぎ:2015/10/27(火) 00:56:19
渋川義季 しぶかわ-よしすえ

1314-1335 鎌倉-南北朝時代の武将。
正和(しょうわ)3年生まれ。渋川幸子(こうし)の父。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年(1333)一門の当主足利尊氏にしたがい六波羅探題を攻撃。建武(けんむ)政権では,鎌倉府の関東廂番(ひさしばん)一番筆頭となる。のち北条時行のおこした中先代(なかせんだい)の乱の鎮圧にむかい,武蔵(むさし)女影原(おなかげはら)で敗れ,建武2年7月22日自害。22歳。通称は又三郎
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%AD%A3-1080675

8うさぎ:2015/10/27(火) 00:58:09
1995年7月23日 - 過去に観測された彗星の中でも最大級の彗星・ヘール・ボップ彗星発見。
1995年7月23日 - 第17回参議院議員通常選挙。
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8823%E6%97%A5#.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8

9うさぎ:2015/10/27(火) 01:06:50
1995年9月5日 - フランス、南太平洋で核実験強行
1995年9月5日 - オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件で、教団幹部の供述により坂本夫妻をそれぞれ新潟・富山両県内の山中から遺体で発見(9月10日には、長男を長野県内の山中から遺体で発見)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1995%E5%B9%B4#9.E6.9C.88
旧暦で8月11日。

10うさぎ:2015/10/27(火) 01:09:22
中先代の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%88%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
建武の新政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%94%BF

11うさぎ:2015/10/27(火) 01:10:30
女影ヶ原の戦い
北条高時滅亡後、その子相模二郎時行は、信州に潜伏して兵備を整え甲州の覇者となり、機に乗じて上野国を風靡し、進んで武蔵国に入り鎌倉幕府を衝こうとした。

幕府は、この報せを聞き、足利直義と渋川次郎大輔義季、岩松兵部経家等を主将として軍兵を率い、建武2年(1335年)7月22日 女影ヶ原の要地を占め防御の陣地4隊を張らせて待機したが、反って北條軍のため撃破された古戦場である。

この付近に散在する旗塚は、当時の遺跡であって、小字 天神、寄脇、諏訪山、諏訪前、等4ヶ所がのこっている。
http://breezy-moro.jimdo.com/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%8E%8C%E5%80%89%E8%A1%97%E9%81%93%E3%82%92%E5%BE%80%E3%81%8F/%E5%A5%B3%E5%BD%B1%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/

12うさぎ:2015/10/27(火) 01:11:13
南光寺
日輪山観音院南光寺と号す。鎌倉時代に弘法大師がこの地に巡錫され、行基菩薩作の白衣観音菩薩を本尊として開創されたといわれている。建武2年(1335年)7月22日、大塔宮護良親王に仕えた南の御方が入山したとされる。南の御方は、護良親王が鎌倉薬師谷御所で足利直義により非業の死を遂げた後、皇子を産み新田家を頼って阿左美の地に庵を結び、終生、南光比丘尼として親王の菩提を弔うことに捧げた人といわれる。その後、慶長(1596年 - 1615年)年間、永真大徳により中興開山、慶安2年(1649年)、良源の時に徳川家光より領地御朱印21石4斗を給せられ、高野山龍光院末中本寺の格式を得、末寺1ヶ寺を有して現在に至る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%85%89%E5%AF%BA

13うし:2015/10/27(火) 02:57:42

東住吉事件
再審請求
2012年3月7日、大阪地裁は、母親と内縁の夫の請求を認め、再審を開始する決定をした[1]。科学的にみて被告の自白が不自然、不合理で信用性に欠けることが判断の要因の1つとなった[2]。この決定に対し大阪地検は3月12日、大阪高裁に即時抗告した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BD%8F%E5%90%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E5.86.8D.E5.AF.A9.E8.AB.8B.E6.B1.82
旧暦2月15日。

14うし:2015/10/27(火) 03:19:05
後醍醐天皇
子女 護良親王
尊良親王
宗良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
恒良親王
成良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
義良親王(後村上天皇)
懐良親王
満良親王 他多数
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

15うし:2015/10/27(火) 03:20:57
武蔵野合戦
武蔵野合戦(むさしのかっせん)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(正平7年/文和元年)閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国(現、東京都・埼玉県・神奈川県)の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。
1351年(正平6年/観応2年)観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦いに勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。直義は2月に急死したが、『太平記』では、この急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があった、と記している。
1352年(正平7年/文和元年)、南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興・義宗は、鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で挙兵した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%87%8E%E5%90%88%E6%88%A6

16うし:2015/10/27(火) 04:16:54
1995年年表。

17うさぎ:2015/10/27(火) 11:47:30
1335年表。

18うさぎ:2015/10/27(火) 11:48:34
建武二年(1335年)7月23日、亡き北条高時の遺児・高行を担いで鎌倉幕府復興を目指した反乱=中先代の乱で、反乱軍が鎌倉を占拠しました。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/07/post-1f4f.html

19うさぎ:2015/10/27(火) 11:49:22
女影ヶ原古戦場
http://ckk12850.exblog.jp/3751413

20うし:2015/10/27(火) 19:12:19
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7615904
建武2年7月27日北条時行が鎌倉に侵入した際(中先代の乱),直義は「山ノ内」を通って逃れている

21とら:2015/10/28(水) 20:46:14
1995年。

22名無しさん:2015/10/28(水) 23:11:07
鬼怒川の堤防はなぜ決壊したのか
http://www.huffingtonpost.jp/tatsuo-furuhata/kinugawa_b_8205184.html


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