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ギリシャ
4
:
いぬ
:2015/07/18(土) 22:08:52
グリゴリオス5世 (コンスタンディヌーポリ総主教)
1821年、ギリシャ独立を目指す秘密結社フィリキ・エテリアの指導者であるアレクサンドロス・イプシランディスがロシアよりワラキア、モルドバへ侵入、ここにギリシャ独立戦争が開始された。当初、ワラキア、モルドバのみで立ち上がった炎はペロポネソス半島にも広がっていた。この報告を受けたオスマン帝国スルタン、マフムト2世はイスラムの長老からギリシャ正教徒への聖戦の布告を受けようとした。しかし、長老はこれを拒否した上でグリゴリオス5世と会合を持った[2]。
この会合より戻ったグリゴリオス5世と聖シノドはギリシャ独立戦争の嚆矢となったフィリキ・エテリアの指導者アレクサンドロス・イプシランディス、フィリキ・エテリア創設者の一人であるミハイル・スツォスら、そしてフィリキ・エテリア自体をオスマン帝国のスルタン及び聖なる神の意思に背く逆徒であるとして彼らを激しく非難する回勅及び「破門(アナテマ)」を繰り返し発し[1]、全ての公位聖職者及び司祭は反乱に反対することに同意することを命令、違反したものは地位の停職、剥奪などや「地獄の火」の罰を受けることになることを宣言、「アナテマ」は聖枝祭(4月21日)に公開された[3]。
しかし、オスマン帝国スルタン、マフムト2世はペロポネソス半島での反乱に対して半狂乱状態に陥っており、グリゴリオス5世がギリシャの反乱に関係していると固く信じていた[2]。
1821年4月22日、イスタンブルのファナリ地区の聖ゲオルギオス大聖堂で復活大祭が営まれ、グリゴリオス5世も総主教としての祭服を完装していた。そして午後に入り復活大祭の徹夜祷に先立って聖体礼儀を行っているとオスマン帝国の兵士らがなだれ込んだ。奉神礼が終わると兵士らは総主教や主教、司祭らを捕らえて首に縄をかけた[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AA%E7%B7%8F%E4%B8%BB%E6%95%99)
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