したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

西郷隆盛

10へび:2016/05/08(日) 16:33:02
桜田門外の変

1858年6月22日、諸大名に条約の締結が公表され、翌23日が御三卿による将軍への公式な面会日だったため一橋慶喜が登城し、条約締結を違勅として直弼を詰問した。さらに、翌24日に徳川斉昭をはじめ、斉昭の長男の水戸藩主・徳川慶篤、一橋派であった尾張藩主・徳川慶勝、越前藩主・松平春嶽が、規則外の不時登城を行って無勅許の条約締結を違勅と非難した.直弼は春嶽一人を身分が違うから、と別室に移して気勢を削ぎ、他の諸侯の詰問へは平身低頭を繰り返した。翌25日、慶福が将軍家定の養子と発表された。7月5日、将軍・家定の命として、登城した一橋派諸侯へ処分が下される。その直後、7月6日に家定が没し、慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。
ここに一橋派は江戸城内での活動を制限されたが、一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、かねて藩士西郷隆盛を京都に遣わして内勅降下運動を行い、藩兵5,000人[9]を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、7月16日、島津斉彬は死去した。
勅許を得ない条約調印と斉昭・春嶽の排斥は、攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、孝明天皇も幕府の行いへ憤慨した。孝明天皇は、同安政5年8月、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。また、幕府寄りとされた関白・九条尚忠の内覧を解いて朝政から遠ざけた[10]。水戸藩は密勅の写しを雄藩に送って賛同を求めたが、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が大名へ直接指令するという事態は、江戸幕府始まって以来前代未聞であったため、幕閣は大いに狼狽した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板