したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

作業2

976名無しさん:2015/09/09(水) 20:54:30
また皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘達の意思を尊重するためのお見合いやデートを勧めた。その一方で、皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子(当時)との婚約が決定された(貴賤結婚)際には秩父宮妃勢津子の母親で貞明皇后の御用係として長年宮中に仕えた松平信子らと共に「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示している。『入江相政日記』においては、松平が宮崎白蓮などと共に、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとしたと記されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。
1960年(昭和35年)11月、長女の東久邇成子が病に倒れた。すでに末期癌が進み、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れたが、7月に成子は亡くなった。天皇ともども、愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。内孫である浩宮徳仁親王の存在が慰めになり、大変可愛がったという。
昭和40年代前半から半ばの『入江相政日記』[注釈 1]によれば、皇后が絶大な信頼を置いた今城誼子の問題が頻出している。新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙を買っていたことから今城は『入江日記』で「魔女」と名づけられ登場する。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟む、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、入江相政侍従長等の側近たちはこの問題に頭を痛めることになり、天皇の同意を取り付けて、1971年(昭和46年)に今城を宮内庁から事実上追放した。皇后は解任を最後まで惜しんでいる。

1975年訪米時の、昭和天皇、香淳皇后とフォード大統領夫妻
1971年(昭和46年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。1974年(昭和49年)には金婚式を迎え、記者団の楽しかった思い出という問いに、天皇・皇后ともに先の欧州訪問を挙げた。翌年の訪米にも行を共にした。
1976年(昭和51年)には天皇在位50年記念式典に出席し祝賀を受けるものの、この前後から心身に老いの兆候が目立つようになる。翌年の夏に那須御用邸内で転倒した際に腰椎を骨折。側近はこのことを伏せ、適切な治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。骨折について皇后は大変なショックを受けたとされ、この事故を境に老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても杖を用いることが多くなり、散歩の際に天皇が手を引く姿も見られた。式典・行事に際しても北白川祥子女官長らが介添えしていた。
可能な限り式典などの公務に出席を続けていたが、1986年(昭和61年)の新年祝賀・天皇誕生日祝賀を最後に出席できなくなり、9月30日以降は日課にしていた散歩も取り止めるようになった。やがて車椅子を頻繁に利用するようになる。また、1987年(昭和62年)12月11日、新年用の写真撮影後に軽い心臓発作を起こし、翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板