レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
作業2
-
シンガポール華僑粛清事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%8F%AF%E5%83%91%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
2月18日 ポンゴール・ロード末端近くの海岸にて 約300名
3月1日頃 チャンギー・ロード10マイル里標近くにて200名から300名
2月23日頃 東海岸ロードの7.5マイル(約12キロ)地点にて約120名、タナメラ地域チャンギー海岸にて500名から600名
2月16日以降 タンジョン・ペガーにて約150名
2月21日以降 フォート・カニング近くのチャンギー海岸にて200名から400名
2月23日 アンバー・ロード近くの海岸にて約500名
ともかくも、日本軍が入った後の2月17日に河村参郎陸軍少将が、シンガポール警備隊長に任命された。シンガポールの華僑を粛清すべしという命令は2月18日に出されている。「敵性華僑」を摘発するため、華僑は市内の指定地に集合させられた。この摘発は3回におよび、言葉も通じないまま、例えば「眼鏡をかけている」とか「英語を使っている」といった外見や態度だけで判別したり、現地の人に密告させたりして、多くの華僑を裁判なしで死刑にした。その犠牲者の数は、日本側では5000人とされているが、現地では約4〜5万人とする説もあり、具体的な人数はわからない。その際に一箇所にまとめて、「処刑」したそうで、前後数回にわたりそうした虐殺があった。その華僑虐殺の立案者は、例の辻政信参謀であった。それについては、1946年(昭和21年)12月23日のシンガポール英軍法廷での杉田市次大佐の宣誓陳述書に「私ハ辻大佐(ママ)ガ10,000人ノ支那人ガ殺害サレルベキデアルトノベタノヲ知ッテ居リマス」とある通りで、旧満州での謀略に続き、シンガポールやマレーでも悪魔のごとき計画を考えたわけである。
http://www.geocities.jp/takechan_mori/international/singapore.html
1942年2月18日、憲兵隊による「大検証」が始まった。18歳から50歳までのすべての華人男性は、取り調べと身元確認のため、これらの臨時検問場に出頭するよう命じられた。
http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=150140&page=1&genre=sougou
|
|
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板