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へび
:2016/03/07(月) 09:28:45
1221年6月10日(承久3年5月19日) - 承久の乱: 北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8810%E6%97%A5
鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。
上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。『承久記』には、政子が館の庭先にまで溢れるばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功した記述がある。一方『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
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