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新型コロナの流行について

1夫正彦:2020/04/10(金) 11:41:54
あまり外出できないための無聊を慰める場所が私たちにも必要ではないだろうか。というわけで、
何か、今回のコロナの流行による社会の動きなどに対する不満や懸念、哲学的な考察などなんでも
結構ですので、書き込んでいただければ。

2夫正彦:2020/04/10(金) 11:50:49
マルクスガブリエルのコロナ論
ttps://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624

3夫正彦:2020/04/10(金) 11:52:44
①すべての人が協力しなければならないのに、ナショナリズムやレイシズムがちょこっと顔を出す。
②リスクの考量の問題、私たちは正しくリスクを比較考量できているか。

4火雨:2020/04/11(土) 10:04:24
ご無沙汰しております。
哲学とはズレるかもしれませんが、今ホイジンガという歴史学者の『中世の秋』を読んでいて、この度の一連の現象が中世ヨーロッパ(特にネーデルラント)にかなり似ていると思いました。
特に興味あるのが、当時の宗教には遊びの要素がふんだんに散りばめられていたというところです。礼拝や祭事がどんどん増え、若い娘を見に来るだけの暇つぶしの若者がやってくる、生活雑貨の至る所にキリストやトリニティのシンボルが描かれ、信仰心は鈍化していったそうです。圧政や食糧難、感染症など社会不安が山程ありましたが、一方で民衆文化においてはブリューゲルよろしく様々な概念や説教がことわざや寓話になり、人々はユーモアに満たされながら不満を解消しては苦しい生活にたえていたようなのです。その本ではブルクハルトが引用され、「宗教が生活にからみあうならば」、「生活も宗教にからみつく」と揶揄されていました。
ここで、遊びやユーモアが果たす役割は、納得することにあるそうです。人々はとりあえず納得する、説得されている、不安は有耶無耶でもいいから生活する…。
(ユーモアが洗脳に使われ得ることが推察されます。)
ところが、逆にこの時代に最も発展しなかったのが、科学なわけで、ルネッサンスより後に方法的懐疑が台頭してきますが、中世では疑う態度が全然育まれなかったわけです。
結局はペストの拡大、活版印刷登場と宗教改革が続いて、中世が終わっていくことになります。
ただ、一般の想像とは裏腹に、実際この頃は劇的な変化は少なく、中世の要素とルネッサンスの要素が入り混じった時期が水面下でしばらくの間待ち構えていたそうです。
ホイジンガはタイトルの『秋』という部分に、ゆっくりと衰退していく、というニュアンスを表現させたようですが、現在のコロナ禍も恐らく劇的な変化ではなく、ゆっくりと何かが終って、社会が次の新しいタームに入っいくのかもしれないな、と感じてます。
そんな事を思いながらコロナは何を変えてしまうのか?と考えている昨今です。

5おぐす:2020/04/12(日) 18:09:25
火雨さん。興味深いコメントをありがとうございます。

「中世の秋」大好きな作品です。
何度も読みたい。今また読みたい一冊を挙げよ、といわれれば躊躇なく「中世の秋」は候補に挙げたくなります。

「中世の秋」の中で、ホイジンガが哀惜を込めて繰り返し論述している人物に、フランソワ・ヴィヨンという詩人がいますね。
ブリューゲルが中世を象徴する画家の一人であるなら、ヴィヨンこそは中世の「秋」を生きて詠った詩人といえるでしょう。
二人の作品に描かれた中世庶民の生活の背景には、いつも「死の舞踏」に象徴されるメメント・モリという言葉が呟かれて
いるようにも思えます。
そうして、火雨さんがおっしゃるようにルネサンスという曙は中世という夜のうちに懐胎していました。
中世という概念が中世という時代をはみ出してしまうように、ホイジンガも歴史学者という範疇に納まる学者ではないですね。

さはれさはれ、去年(こぞ)の雪、今何処(いずこ)

火雨さんの読んでいる「中世の秋」はたぶん堀越孝一の翻訳だと思うのですが、彼に「人間のヨーロッパ中世」という著作が
あります。火雨さんならきっと惹かれる作品だと思います。機会があればぜひ一読を。


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