したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

アーレント著「イェルサレムのアイヒマン」を巡って

1おぐす:2019/04/05(金) 21:52:24
ハンナ・アーレント著「イェルサレムのアイヒマン」を巡って
5月19日(日)第4会議室13:00

「イェルサレムのアイヒマン」を中心に関連する論文を逍遥しつつ政治哲学者ハンナ・アーレントに固有の思考の在処を探りながら話し合えたら幸いと考えます。
アーレントの著書としては有名ですが読了は必須ではありません。読んでいなくても十分論議できると思います。テキストの概要や論点の提示はしますが、私も特にアーレントの著作を読み込んでいるわけではないので不案内の部分が多いと思います。
話し合いの内容がどこかに収斂したり収束する必要はないので、各々の参加者に自分の「場所」から「自由」に発言していただき、多面的なアーレント像が浮かび上がれば、それも佳いかなと思います。

参考文献「イェルサレムのアイヒマン」みすず書房 他アーレントの関連論文

2則天去私:2019/05/03(金) 19:17:05
アーレント会、参加を迷っていますが、今月の給料次第では行けるかもしれません。

3おぐす:2019/05/04(土) 09:05:04
則天去私さん
貴方の最もご都合のよいようになさって下さい。
望ましい状況になればよいですね。

4則天去私:2019/05/05(日) 08:47:05
今月のアーレント会、参加します。

5則天去私:2019/05/05(日) 09:21:29
すみません。アーレント会、不参加です。

6ウラサキ:2019/05/05(日) 09:42:40
私も中間考査期間中につき、フルでの参加は難しそうです。
15時頃、会費集金に伺おうと思いますが、
もしダメなときは夫さんか横山さん、
会費集金お願いしますm(_ _)m

7横山信幸:2019/05/05(日) 17:08:30
ウラサキさん、了解しました。

8夫正彦:2019/05/08(水) 11:56:25
だいぶ前に読んで、ノートにまとめたことがあります。しかし、図書館からの借り物だったので、
今回思い切って買いました。
意外と「悪の凡庸さ」という概念は理解するのが難しいですね。いろんな人にいろんな文脈で使われているのですが、
明らかにアーレントの言っているのとは違っているような印象です。

映画「ハンナ・アーレント」のDVDを借りたときに、アイヒマン裁判のドキュメントDVDのコマーシャルが入っていて、
それを見ると、アイヒマンがすごく能弁で、実に魅力的な人物であるように見えました。実際のDVDは観てないのですが、
実際の映像をちょっとだけ見ても、凡庸さ、とは縁遠い人物のように思えます。
これは、仲正昌樹氏も、著書を読むと同じ感想を持ったみたいです。

そういうところから、アーレントが表現したアイヒマン像は間違っているのではないかという批判もあるみたいです。
評論家の村松剛氏も実は同じ裁判を傍聴して、傍聴記を書いてますが、この機会に目を通しておこうかなと思っています。

9ウラサキ:2019/05/08(水) 13:36:52
アイヒマン裁判のドキュメント映画『スペシャリスト』を昔、劇場で観ました。
私がその映画で得たアイヒマンの印象はまさに「凡庸な悪」そのものでした。
何の残虐さも感じさせない生真面目な小役人、
国会答弁に立つ佐川元理財局長と同じ印象でした。

アーレントの言う「凡庸」というのは英語の banal で、「平凡な、よくある」という意味で、
能力の有無とは無関係だと思います。
つまり「ごく普通の人間」が悪に加担しうる、ということが言いたかったのではないでしょうか?

10夫正彦:2019/05/08(水) 14:38:26
あれほど、学歴もないのに出世して、能吏で、弁も立つ人が、平凡と言えるのか。どうも私の中にきちんとした像が結べません。
能吏であるからこそ、大きな悪に加担できたのだともいえる。とすれば、本当の意味で平凡な人であれば、せいぜい小さな悪にしか加担できません。
そういうニュアンスの違いが、「凡庸な悪」という言葉だけからは読み取れないと思うのです。

ただ、基本的には、ウラサキさんのおっしゃる通りだと思うのですが。

11夫正彦:2019/05/08(水) 14:53:03
平凡な人が何かの拍子に悪に加担するって、当たり前で陳腐ですよね。「悪の凡庸さ」とはそういうことだけを
指しているのではなくて、巨大な悪があって、その悪を分析すれば、人間の心の深淵を見ることができるかもしれない、
と期待してしまう。アーレントが傍聴しようとした動機はまさにここにあったのでしょう。
しかし、実際は深淵なんてものはどこにもなく、単に凡庸さしかなかった。この落胆が悪の凡庸さという言葉に
含まれていると思います。だれもが悪に加担する可能性があるとか、そういう意味ではないわけです。

12ウラサキ:2019/05/08(水) 15:03:31
おそらくコマーシャルでは、アイヒマンの能弁なシーンを選んで流されていたのでは?
128分の映画全体では、彼の神経質に緊張した表情や、貧乏ゆすりなど全くの普通の人という印象でした。
籠池夫妻や宅間守などの法廷での様子とは全く違います。
「学歴もないのに出世して」ってのはナチス幹部全体に言えるので、アイヒマン個人の特徴ではないでしょう。

「だれもが」ってのは「凡庸さ」の意味に含まれるのでは?

13夫正彦:2019/05/08(水) 15:48:34
そういう意味ではなくて、総理大臣でも大統領でも普通の人です。普通だという印象を持つかもしれません。

一般的に「凡庸な悪」という言葉が使われる文脈では、誰でも悪に加担しうる、ような主張のように読み取れることが多い。
いや、アイヒマンぐらいの大きな悪に加担するには、それ相応の能力が必要だよということが言いたいのです。
ただ、アイヒマンが行った行為のそれぞれは、我々も場合によってはやってしまうかもしれないくらい理解可能なものです。
その意味で我々とアイヒマンとの間に断絶があるわけではありません。

14夫正彦:2019/05/08(水) 16:33:09
うまく言えないのですが、人口に膾炙している「凡庸な悪」という言葉があまりに凡庸な解釈で使われていて、
そんなん当たり前やん、と思ってしまうんですね。もう少し、いろいろと議論できる余地があるんじゃないかと。

大量殺人を犯すようなサイコパスがいて、そういう人にインタビューしても、理解できない部分が絶対出てくるでしょうね。
で、そういうサイコパスでないと思われる人が関係した大量殺人について、なにか我々に理解できないような部分、
分析しないといけないような部分があるかもしれない。そういうものがあれば、それは人間の本質に迫るものかもしれない。
けれども、どこまで行っても理解可能だった。何も特別なものはなかった、という感じでしょうか。

15ウラサキ:2019/05/08(水) 17:57:53
少し、大仰に考え過ぎのような気がします。
アーレントがあの本を書いた当時は、ナチス幹部は「残虐な極悪人」であるべきで、
それを「凡庸(≒普通の人)」と表現しただけで非難されたのではないでしょうか?

私はアーレント自身の著作は読んでいませんので、彼女にそれ以上の深いメッセージがあったかどうかはわかりません。
ただ映画を見ての感想は「ごく平凡な官僚タイプの人間でも、無作為の罪により、極悪非道の行為に加担しうるんだな」という程度です。

16則天去私:2019/05/08(水) 18:24:44
ちょっと話が脇道にそれます。聞きかじった知識ですが、ユダヤ人の虐殺は、ナチスだけではありません。レコンキスタでは、スペインからユダヤ人を追放したり、十字軍の時代にも、ユダヤ人の虐殺はあったようです。ナチスは確かに有名ですが、ユダヤ人差別はかなり根深いようです。

17夫正彦:2019/05/09(木) 11:37:56
ウラサキさん

一応、「イェルサレムのアイヒマン」を読んだ内容から、そう解釈しました。もちろん間違ってるかもしれません。
アーレントが非難されたのは、それもあったかもしれませんが、歴史的に見てユダヤ人も非難されるべきところはあったの
ではないかというスタンスのもとで、ホロコーストに対するユダヤ人自身の加担などにも言及してたからではないかと
思います。「全体主義の起原」は差別される側のユダヤ人自身の問題点にも触れてありました。

則天去私さん
ポグロムなんかもそうですね。

18ウラサキ:2019/05/09(木) 11:48:44
映画『スペシャリスト』にはユダヤ人批判という視点は殆ど感じませんでした。
ただ映画『ニュルンベルク裁判』や『東京裁判』にも共通の「誰が戦争犯罪を裁けるのか?」という普遍的な疑問は感じられました。
特に防弾ガラスに囲まれた被告の、まるで見世物にするような非人道的取り扱いや、
アイヒマンが何の思想的背景もなしにひたすら職務に忠実であった点の強調にそれが感じられました。
しかしユダヤ人の歴史的背景やユダヤ人自身の加担には全く触れてはいませんでした。
やはり原作と映画は違う視点で作られているようですね。

19夫正彦:2019/05/09(木) 16:24:40
ウラサキさん

すいません、「イェルサレムのアイヒマン」にユダヤ人自身の加担についての記述があったかどうか記憶が定かではありませんでした。
「全体主義の起原」にはあったと思うのですが。

あと、アイヒマン自身は大したことのない小人物という評を持っていて、だから、裁判自体は茶番じみているとの感想でした。
一種のショーですね。けれど、アイヒマンの死刑自体には賛成してました。

20おぐす:2019/05/10(金) 13:55:19
映画「スペシャリスト」のアーカイブ映像について若干のコメントをいたします。

イスラエルは裁判を撮影をアメリカのCCBCという会社に委託しています。
資金はアメリカのユダヤ人組織が提供しました。CCBCが撮影した映像は500時間、
別にイスラエルのプロダクションが判決公判と控訴審を撮影したものが30時間です。
ロンドンでコピーされたフィルムは世界各地のテレビ局に送られる際、エルサレム
特派員の指示に従って編集が施されました。

この極めて重要なフィルムは何故か裁判終了後ほとんど忘却され、所在すらも無関心
でした。驚くべくはイスラエルの会社が撮影したオリジナルテープは廃棄されたこと
です。ようやく裁判後15年経った1977年に、アメリカのユダヤ人共同体によって、
フィルム(コピー)がイスラエルに返還され、国家の公文書館に寄託されました。

ところがその後、大量のオリジナルテープがヘブライ大学の管理するスピルバーグ
アーカイブで発見されます。所有権を主張するスピルバーグ・アーカイブは恣意的に
70時間分の映像を抜粋しました。さらにその内のいくつかの場面は、スピルバーグ
アーカイブの職員によって定期的に売り出されていたようです。

裁判後の長期にわたる管理と保存の杜撰のために、あるいは官僚機構の働きのために、
映像資料の事実上の消失も含めて、フィルムの遺棄と紛失が行われたことは誠に残念
といわざるを得ません。

映画「スペシャリスト」のスタッフはイスラエルの国立公文書館を相手取って訴訟し、
その後の和解による商談を経て、ようやく製作、上映に至ります。製作の予算の一部は
イスラエル政府が負担しているようです。

当然、公開された映像は、あらゆる意味で編集された作品です。私も観賞しましたが、
裁判の臨場感など、法廷の現場の雰囲気を味わうにはよい作品だと思います。

21おぐす:2019/05/10(金) 14:45:35
夫正彦さん

確かに「凡庸な悪」という言葉とイメージは一人歩きしているきらいがありますね。
おっしゃるように「だれもが悪に加担する可能性があるとか、そういう意味ではないわけです」
「一般的に「凡庸な悪」という言葉が使われる文脈では、誰でも悪に加担しうる、ような主張の
ように読み取れることが多い」ですね。
夫さんの「イェルサレムのアイヒマン」の理解は、アーレントのモチーフに届いているようにも
思われます。
アーレントはある討論会で「アイヒマンは私たちすべてのうちにいるのだということをはっきり
させたいのです」と語った参加者に対して「アイヒマンはあなたのうちにも、わたしのうちにも
いません」と応えています。
アイヒマンの人間性に含まれる一般性への連続と断絶は議論の余地があるのかもしれません。

ちなみに「ホロコーストに対するユダヤ人自身の加担」についてはおっしゃるように「全体主義の
起源」にも「イェルサレムのアイヒマン」(とりわけ第三章以降)にも言及がありますね。この事実
自体についてはナチ問題のなかでは周知のものであったようですが。

22おぐす:2019/05/10(金) 16:25:12
夫正彦さん

映像から受け取る印象は本当に人それぞれで、私も夫さんと同じく「アイヒマンがすごく能弁で、実に魅力的な人物」であるように見えました。
世評との乖離が大きいので、しばらくは自分の鑑賞眼が間違っているのではないかと思ってました。

なぜアイヒマンが「凡庸な小役人」というイメージ(これ自体間違っているとは思いませんが)がこれほど流布してしまったのか。
たぶんにその後のジャーナリストや一部研究者の論調が大きく影響しているのではないかと思います。
ある女性研究者の論文では、アメリカのミルグラムという実験心理学者が行ったまさに単純な実験結果と、アーレントを無媒介
に結びつけ、ミルグラムが打ち出した「アイヒマンは平凡な官吏」だというイメージはアーレントも共有している、などという木訥な
論を展開しています。悪気はないのでしょうが、もう少していねいにやってほしいと思わざるを得ません。

確かにアイヒマンはSSの本部の一つであるRSHA(国家保安本部)のB部の4課の課長でした。彼にヒトラーのような大衆を扇動
するような才能はなかったでしょうが、小津安二郎のシネマに登場するような凡庸な官吏ではありません。ユダヤ人移送に関し
ては独創的なシステムを開発し、時に上司の命令も無視し、生死の境を狡猾にくぐり抜け、アルゼンチンまで逃亡し、ドイツから
隠密理に妻子を呼び寄せ、現地の会社の管理職にまでなっています。
アーレントもそのことは熟知しており「アイヒマンは愚かな人間ではない」と「イェルサレムのアイヒマン」でも明言しています。
悪は凡庸の一面(もちろんそれだけではなく多面的ですが)を持ち合わせてはいますがアイヒマンを凡庸とかたづけるには問題
を単純化しすぎるのかもしれません。

なぜかアーレントの入門書は多いのですが、ウェーバーの時にも感じたことですが「プロティスタントの精神が資本主義の倫理を
作った」みたいな書割り的なフレーズがアーレント理解にも散見しているように思われます。

23ウラサキ:2019/05/10(金) 18:06:41
banality を「凡庸さ」と訳したことから来る誤解なのかも知れませんね。
英語の banal には能力の有無とは無関係に、「どこにでもある」という意味ですから。

ところで本の副題 "A Report on the Banality of Evil" はアーレント自身によるものですよね?

24おぐす:2019/05/10(金) 21:56:25
ウラサキさん。

確実ではありませんが、私見の限り(限られた範囲内のアーレントの論文から)ですが副題はアーレント自身によるものだと思います。ひとつの根拠を挙げておきます。

「イェルサレムのアイヒマン」は公刊直後から(出版に対する圧力も含めて)、アーレントは数知れぬ批判や非難(身の危険も含めて)を受け、かけがえのない多くの
知友さえなくしました。その一人がゲルショーム・ショーレムです。アーレントとショーレムは亡命中に自殺したベンヤミンの遺稿を巡って知り合い、以後両者の間には
ある種の信頼が持続していました。しかし「イェルサレムのアイヒマン」の公刊は二人の関係を険しくし、ついには公開書簡での論争に発展しました。

ショーレムは「悪の凡庸さ」というサブタイトルは議論全体を明確にするテーゼではなく、単なるキャッチフレーズの印象でしかないと揶揄しました。以下はアーレントが
それに応えた部分です。余り実りのない応酬を感じてか本文中から()内の小文字になっています。《なお二人の書簡の邦訳の初出は「現代思想」1997年7月(青土社)
アーレントの書簡のみ「アイヒマン論争・ユダヤ論集2」(みすず書房)に収録されています》

(ところで、なぜあなたが「悪の凡庸さ」というわたしの言葉をキャッチフレーズとかスローガンとかお呼びになるのか、わたしには理解できません。わたしの知るかぎり
では、わたしより前にこの言葉を使ったひとはおりません。でもまあ、それは重要なことではありませんが)

 自ら考えていない副題について「わたしより前にこの言葉を使ったひとはおりません」とまで言い切る著者はいないと思われます。アーレントには副題に込めた深い
自負があったのではないかと考えます。

ちなみに著書のタイトルや副題を出版社の編集部が考えてサジェスチョンすることはよくあることで、実際そうして付けられた標題や副題の実例は幾らもあります。
「ザ・ニュー・ヨーカー」の場合、編集者は最初の原稿を渡された時から及び腰で、文言や言い回しをもう少し当り障りのないものに換えてはどうかと提案しましたが、
アーレントは拒否しました。編集者としては掲載作が話題になって雑誌が売れるのは歓迎ですが、間違ってバッシングの標的となるのも困ります。編集部の予測は
悪い方に当たったわけですね。
「ザ・ニュー・ヨーカー」の編集部としては、アーレントが附した、ある意味で地雷を踏むような副題を削除したいくらいの気持ちではなかったかと推測するのですが。

ウラサキさんのおっしゃるように翻訳とは厄介なもので(妻の作業を傍見、助言しているのでよくわかります)、banality(Banalität)を凡庸と訳した時の隔靴掻痒の感
はあると思います。自分は浅学なので、多くの研究者が凡庸ないしは陳腐を採用している現状では、辞書を牽きつつ文脈から解読するしか能がありません。

25おぐす:2019/05/10(金) 22:01:04
ドイツ語のウムラウトの部分が変に変換されてしまい申し訳ありません。

26ウラサキ:2019/05/11(土) 04:15:18
banality には「凡庸」や「陳腐」ほどネガティブなニュアンスが無く、
日本語では「普通さ」くらいだと思います。
それがさまざまな批判やニューヨーカー編集部の心配につながったのではないでしょうか?
もしかしたらアーレント自身のワードチョイスの拙さなのかも知れません。

27おぐす:2019/05/11(土) 10:04:29
ウラサキさん。

「凡庸」や「陳腐」の訳語を当てたのは翻訳者たちなのでアレントのあずかり知らないところだと思います。
すぐれた哲学者の多くは日常の語彙に自らのオリジナルな意味を重ねるものですが、訳語の選択において
「悪の普通さについての報告」としなかったのは研究者(翻訳者)たちのセンスに由来するものでしょう。

「ザ・ニュー・ヨーカー」の編集者は英文を読んで、その内容に危惧したわけです。先の副題地雷の件は
わたしの推量に過ぎませんが、実際は編集部はアーレントの原稿に通底する、ナチスの体制下における
ユダヤ人組織やユダヤ共同体への歯に衣着せぬ批判や、ある種の皮肉を含んだアーレントの「語り口」を懸念
したのです。
「こりゃ相当厄介だよ。触れてはならぬもの(アンタッチャブルな領域)に手を出しちゃてるよ」と。
むしろ被告の人間性理解が権力とメディアで異なるのはよくあることで「ザ・ニュー・ヨーカー」のような
硬派のジャーナリズムなら好むところだったと思います。

アーレントは大作「全体主義の起源」も「人間の条件」も初版は英文で発表し、英文の論文で欧米の学会や
ジャーナリズムから称賛という評価を受けました。
もちろんアーレントはドイツ語が母語で、亡命後に英語を学び習得しています。ウラサキさんはとても英語に
ご堪能なのでアーレントのワードチョイスの拙さがあったのかもと憂慮されるのでしょうが。

編集部が実際に危惧したもの、そして発表後に多くの批判や非難がアーレントに浴びせられた主要な原因は、
ユダヤ共同体やイスラエル政府への辛辣で挑戦的な内容であったといえます。アーレント以前は誰もが言及
を控え、歴史的にユダヤ人差別を容認し、ナチスのホロコーストを阻止できなかった欧米諸国の暗部が直視
を避けていたものでしたから。
それは「イェルサレムのアイヒマン」全体に重奏低音のように流れているモチーフでもあると思います。

28ウラサキ:2019/05/11(土) 12:32:54
"A Report on the Banality of Evil"を普通に解釈すれば、
「悪というものがごく普通にどこにでもありうることについての報告」となり、
それがある種、アイヒマンを免罪するようなニュアンスを帯びるが故に、批判があったのではないかと想像しました。

実際は、記事の内容自体も当時としては批判を呼ぶようなものだったのですね。
ただユダヤ人のナチス協力者への言及などは特に「誰もが悪に加担しうる」というテーゼの好例になると思いますが、
アーレントの主旨はそうではなかったのですか?

29おぐす:2019/05/11(土) 14:49:29
ウラサキさん

「誰もが悪に荷担する」というテーゼがアーレントの主旨ではないと思います。
この場で詳細を述べると「イェルサレムのアイヒマン」のつまらない解説になりそうなので、もし興味があれば読まれるとよいかと
思います。わたしの解釈が妥当というものでもなく、夫正彦さんも独自の観点から言及しておられましたが、各々の読者が自分の
位置で読み深めればよいのではないでしょうか。

 読まずに批判(読むべきだという意味ではありません)ということは往々にしてありがちですが、「イェルサレムのアイヒマン」の
場合、アメリカでは5回連載予定の1回分が掲載された段階でユダヤ人団体及び関係者から轟々のバッシング。フランス、ドイツでは
本書の仏訳、独訳が公刊される前から、数百ページの駁論本だけが先んじて出版されるという有様でしたから。多くの業界人は読む前
からそのような情報を根拠に否定的な扱いをしました。その後も恐らくまともに読みもしなかったでしょう。

まして周辺の関係者、なおのこと普段は無関心な一般大衆は、本書とは無縁の風潮を受け取り、エキセントリックに反応したのだと思
います。編集部にはただ罵倒する文言の投書が多量に寄せられました。連載の中止を要求する脅しもありました。マンション住人から
も「ナチの手先」と難じられ、しばらく身を隠したほどです。アーレントの脳裏には、自分が非合法に亡命した頃の、全体主義の嵐が
席巻していたあのドイツが思い浮かんだかもしれません。

 もちろんアーレントはアイヒマンを免罪していません。死刑が妥当という立場です。法廷の裁判官は常に誠実で、公正な公判を維持
する努力をしていると、最初の報告から彼らの姿勢を高く評価しています。アーレントが批判的に叙述したのは、アイヒマンを無法に
拉致したイスラエル諜報機関(モサド)及び、裁判手法を歪めたイスラエル政府、その手先となり芝居がかった論告で裁判目的を不当
に誘導しようとした検察でした。

しかし、当時まだホロコーストの記憶が重い枷となっていた欧米社会では、ナチスの犠牲者になったユダヤ人、受難のイスラエル建国
を公に批判することはタブーであったということですね。ナチス協力者への言及も、組織としてナチスと商取引をしたユダヤ人団体と、
その事実を隠蔽しようとするイスラエル政府に対する抗議であったわけです。「誰もが悪に荷担しうる」というテーゼはアーレントの
著作にはないと思います。解説書の類いにはあるかもしれませんが。

ついでに言えば、アーレントは「悪の凡庸さ」という概念について説いてはいますが、アイヒマンを「凡庸な悪」とは書いていません。
むしろ部分的にはアイヒマンは自前の「正義」に基づいて行動しており、「正義の凡庸さ」とでもしておけば、イスラエル政府も含めて
アーレントが批判しようとした対象に近づくような気もします。トルストイをもじれば「正義の顔はどれも似通っているが悪はそれぞれ
の流儀で悪である」というところでしょうか。ま、これは蛇足です。

30ウラサキ:2019/05/11(土) 15:21:46
やはり、副題が批判の理由(の一部)になったということはありそうですね。

31おぐす:2019/05/11(土) 17:04:06
その場合、ショーレムにもあったように本質的な批判にはなりませんね。
他のほとんどはアイヒマン像への思い込みによる心情的な反発。感情的な反発で批判に価しません。
建設的な論争に発展することはないので、アーレントも相手にしなかったということです。
アーレントも次の課題に向かいます。
それほど暇ではなかったということでしょう。

32則天去私:2019/05/15(水) 18:03:17
横槍失礼します。
悪の凡庸さに注意が集中しているようですが、個人的には、ユダヤの長老たちが、ナチスに協力したのでは?という論点も気になります。そのあたりはどうでしょうか?

33ウラサキ:2019/05/19(日) 07:45:27
今日は15時前に、集金に参ります。

34則天去私:2019/05/19(日) 17:05:06
これはナチス以前の問題なんですが、果たしてユダヤ性とドイツ性の対話って、可能なんでしょうか?

35横山:2019/05/19(日) 17:55:02
おぐすさん、ありがとうございました。
25枚のレジュメという大量の準備のうえ、細かなところまで押さえてくださった発表。凄かったです。
おかげで、アイヒマンのことほとんど知らなかった僕にもよく分かる内容でした。

例会のなかでも言いましたが、アイヒマンの彼の法に従ったがゆえの罪を、イスラエルの法を超えた裁きでもって断罪された、というこの構造がとても面白いと思いました。

とくに僕はその、アイヒマンの行為の何が悪だったのかという点に注目して話を聞いてましたが、アイヒマンが「ヒトラーという法」を定言命令としてとらえ、思考停止してしまったことにこそ、彼の罪があったと考えたいと感じました。
もしかすると、彼が法とは無関係なところで自分の感性で悩んだ結果ユダヤを殺すべきとしたのなら、少なくともその行為は彼の正義であったり、反省可能なものであったりしたのかもしれませんが、それを思考停止して「すべては法に自分の意志を合わせていくだけ」としてしまうのなら、そこにどうやって自分の行為の正義を振り返り反省することができるのか、と疑われました。そのような反省が不可能なようなやり方が自由である訳が無いのじゃないか、と思われました。その点で、僕には、カントの「定言命令によって人ははじめて自由になれる」という話がまったく理解できてないようです。

なもんで、そんな定言命令なんてものを解った気になってそれに従う生き方よりも自分の正義を疑い続けて迷い続ける生き方をする方に自由があるんじゃないか、などというように思えてしまいました。

最後、アウシュビッツとヒロシマに対する非正義の話になりましたがその話についても、「どちらも悪い」とか「アウシュビッツの方が悪い」とかの結論を出すことよりも、それをどう考えるのか問い続けることに魅力を感じました。

もともと倫理には興味を感じられない僕でしたが、大阪哲学同好会のおかげでどんどん面白くて感じられるようになってきました。
そんなこんなを色々考えられて、今日もとても面白かったです。

ありがとうございました。

36ウラサキ:2019/05/19(日) 18:21:36
横山さん、

もし、アイヒマンが「ヒトラーという法」を定言命令としてとらえていたのなら、
それは単なる個人崇拝であり、オウム信者ら狂信家たちと何ら選ぶところがないのでは?
アイヒマンのケースはそこの当時のドイツ「国家の法」を定言命令ととらえていた点が、
問題を深刻化させているのではないでしょうか?

37横山:2019/05/19(日) 18:28:32
ウラサキさん、
今日のレジュメをもらわれましたか?
レジュメp16の中ほどに、

「定言命令(総統の意志)」

というアレントの表現が出てきてます。少なくとも、アレントの考えた、アイヒマンにとっての定言命令は「総統の意志」であったみたいです。

38横山:2019/05/19(日) 18:35:54
でも、ウラサキさんの指摘はたしかにそうですね。

当時の法を定言命令としたことによる問題の深刻さというところ、あると思います。

39則天去私:2019/05/19(日) 19:14:27
25枚もレジュメをコピーすると、おぐすさんの負担が大きいから、コピー代を徴収した方がいいのでは?

40ウラサキ:2019/05/19(日) 20:26:32
いや、コピー代は発表者の自己負担、というのが当会の方針です。
資料は極力少なく、討論に重点を、という意図です。

41おぐす:2019/05/19(日) 20:44:13
今日は本当にありがとうございました。
アーレントを40年ぶりに自分の課題として読むことができたのは哲学研究会のおかげだと思っています。

横山さん
「自分の正義を疑い続けて迷い続ける生き方をする方に自由があるんじゃないか」というスタンスはとっても素敵ですね。
私には正義の何かはいまだ判っていませんが「疑い続けて迷い続けること」に自由の根拠を求めることには共感を覚えます。
軽々に分かりやすい定言や理念にに依拠しないこと、疑問が定型に陥らないこと、そのような姿勢が大切なのかなと思っています。

則天去私さん
お気遣いありがとうございます。老い先短い身、三途の川の駄賃の他は必要ないのでだいじょうぶです。
貴方はまだお若い、目の前の課題や蹉跌に拘泥することなく、自分は自分と受け止め生きていって下さい。

ご意見をいただいた皆様、ありがとうございました。
読むこと、書くこと、考えることを手放さずに人生の余りの時間を過ごしたいと思っています。

42野口:2019/05/19(日) 22:53:44

おぐすさん。本日の発表ありがとうございました。
私の理解能力不足でしょうが、おぐすさんの最後に書かれた「陳腐さ」と「悪の陳腐さ」の違いの真意がくみ取れませんでした。
でも、私なりに理解すると。
アーレントの他の著書にある、「労働する動物」と「官僚的人間」の連続と断絶、「現代の大衆消費社会と全体主義体制の連続性と断絶」。この連続と断絶は、ナチスドイツを誕生させた悪、ナチス自身の悪、アイヒマン自身の悪、アイヒマン裁判の悪を含むものであり、それは陳腐(普通)なものであると。
いかがでしょうか?

43おぐす:2019/05/20(月) 09:32:47
野口さん

昨日は貴重なご意見、ありがとうございました。
私も相当な理解能力不足です。ただ、いかにも分かったようなフレーズや、定型の疑問で思考停止する愚かさは
避けたいと思います。なので、以下は誠にまとまりのない、だらしないお応えになりますがご海容下さい。

野口さんのおっしゃるように、「労働する動物」と「官僚的人間」の連続と断絶、「現代の大衆消費社会」と
「全体主義体制」の連続性と断絶は、ナチスドイツを誕生させた悪、ナチス自身の悪、アイヒマン自身の悪、
アイヒマン裁判の悪を含むものだと、私も思います。
そして、この連続と断絶には、ある「断念」が介在しているようにも思うのです。

アーレントは「あとがき」次のように述べています。

  大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終陳述において「ナツィ政府の命じた
  価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。完全な無思想 - これは愚かさと決して同じ
  ではない - それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。
  このことが〈陳腐〉なのであり、それのみか滑稽であるとしても、これは決してありふれたことではない。

アイヒマンは「移住」が「移送」に「価値転換」したとき、ある意味の「断念」を自らに課したのではないか
と思います。それがいわば「無思想」(ある研究者は思考の欠如と訳してますが)の謂いではないかと。
「普遍的な法の格律」を「国家の法(総統の意志)」に翻案した時、「自分は判断を下せる側の人間ではない」
「ピラトの気持ちを味わった」とアイヒマンは述べますが、この「主体性の放棄」が免罪感ともなり、かえって
アイヒマンに自分の仕事に没頭する能動的な使命感、高揚感をもたらします。
「断念(無力感)から熱狂へ」これは奇妙な「倒錯」であり「転倒」です。

「断念から熱狂」へ至る、この転倒の変奏が「労働する動物」と「官僚的人間」の連続と断絶、ひいては「現代の
大衆消費社会」と「全体主義体制の連続性と断絶」の底流にあり、まさしく野口さんの指摘する「ナチスドイツを
誕生させた悪、ナチス自身の悪、アイヒマン裁判の悪」を含む〈陳腐〉を生成するのではないかと考えます。

この価値の転倒は「陳腐」であり「滑稽」ですが、もちろんありふれたものではないのです。

野口さんのご質問のお応えになっていないかもしれません。たぶんなっていません。ここらへんが私の理解力不足、
思考の限界です。ごめんなさい。

44ウラサキ:2019/05/20(月) 09:49:38
おぐすさん、

手元にある『三省堂新明解国語辞典』によると、
「陳腐」の定義に「ありふれていて、おもしろみが感じられない様子。」とあります。
英語の'banal'の定義にも'commonplace'(Hornby:ISED)とあります。
やはりアーレントの用語法は独自なのでしょうか?

45おぐす:2019/05/20(月) 10:55:55
ウラサキさん

私は翻訳の経験はないに等しいので何とも申し上げることはできないのですが、翻訳出版の経験の
豊富な妻は、いつも座右に大部の大独和辞典を置いています。妻によると、私や学生の独和辞典は
使い物にならないというのですが、それでもどのように翻訳したらよいのか分からない言葉は出て
きて、悩まされると嘆いています。

ギュンター・グラス、トーマス・マン、カフカ、等の文学者たちはもとより、シヴェルブシュ、レペニース、
ケーニヒのような社会学者から、リンネのごとき博物学者にいたるも、それぞれ独特の言語感覚で
書いているので苦労すると申しております。
同じ著者でも論文と書簡、日記では違っているとのこと。いやはやです。まあ、これは哲学者にもある
のでしょう。

私はアーレントの専門家でもなく、ただの素人読みですが、アーレント自身が「悪の陳腐さ」について、
「私より前にこの言葉を使ったひとはおりません」と述べているので、彼女自身の独自の用法がある
のではないでしょうか。「陳腐」も「悪」も語彙そのものは誰でも使いますからね。
もとより理解能力不足と浅学の身なので当てになりませんが、邦訳のテキストを坦懐に読み込んで、
そのように感じました。

46野口:2019/05/21(火) 00:26:06
おぐすさんありがとうございます。
何もわからない、全くの素人に、丁寧な解説ありがとうございます。
若い時、学生時代の教養課程で社会学を始めて教わった時の、感動がよみがえってきました。
今後とも、よろしくご指導ください。お願いします。

47則天去私:2019/05/21(火) 08:58:48
おぐすさんの発表がそんなによかったなら、僕もその場に居合わせたかったです。

48ウラサキ:2019/05/21(火) 10:18:02
則天去私さん、

↓からツイキャス録画で視聴できますよ。
ttps://twitcasting.tv/daitetsudo/movie/545291819(←冒頭にhを追加)

49おぐす:2019/05/21(火) 11:42:01
野口さん

冷汗三斗です。
考えること即ち書くことの膂力も衰えを感じるばかりですが、
口に糊することが適う間は、覚束なくも歩くしか能がありません。

6月にはお話をお聞かせ下さい。
野口さんから受ける刺激を楽しみにしています。

50則天去私:2019/05/23(木) 07:28:31
僕はイェルサレムのアイヒマンは読んだことないけど、昔、全体主義の起源を読んだことがあります。
アーレントは、ナチスとスターリニズムは問題視しているけども、ファシズムに関する問題意識が薄いような気がします。これは何故でしょうか?

51ウラサキ:2019/05/23(木) 13:19:41
則天去私さん、

広い意味のファシズムはナチズムやスターリニズムに代表され、
狭い意味の(ムッソリーニの)ファシズムはアーレントの関心外だったからではないでしょうか?

52則天去私:2019/05/23(木) 18:07:09
うらさきさん
そうかもしれませんね。また、以下はアーレントの関心外ですが、日本の戦前の天皇制は全体主義でしょうか?ナチスやスターリンほどではないですが、日本も南京大虐殺とか、関東大震災時に朝鮮人虐殺とかしています。ナチスやスターリンとは理念が違いますが、これも一種の全体主義では?

53ウラサキ:2019/05/24(金) 05:15:25
関東大震災時の朝鮮人虐殺は全体主義の徴候の一つ(他民族に対するヘイト)かと思いますが、
いわゆる「南京大虐殺」は事情が異なるように思います。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板