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2018/01/07「アニマル・ライツ」

1夫 正彦:2017/11/07(火) 10:02:30
前半「動物の権利」について簡単に紹介して、討論。

後半は、ビーガン(ベジタリアンをさらに進めて動物由来の食品すべてを食べない人たち)について
私が皆さんをビーガン(の心情的理解者)にするべく説得するという形で発表したいと思います。
私自身はビーガンではありませんが、ビーガンの考えについて共感を抱いています。

特に課題図書とかはありませんが、関係あるサイトや書籍についてはこの掲示板でおいおい上げていきたいと思います。

3夫 正彦:2017/11/18(土) 17:33:59
参考図書:
「菜食への疑問に答える13章」シェリー・F. コーブ著
ttps://www.amazon.co.jp/dp/479481058X/
この本見た目は、健康食品おすすめ系の本に見えますが、がちがちの論理で責めてくる超おすすめの本です。

「動物の解放」ピーター・シンガー著
ttps://www.amazon.co.jp/dp/4409030787/

「動物からの倫理学入門」伊勢田哲治著
ttps://www.amazon.co.jp/dp/4815805997/

4かわべ:2017/11/19(日) 20:05:54
動物の解放は有名ですね
動物の権利の問題は、動物に意識があるかという問題が不可欠と思われます

5夫 正彦:2017/11/20(月) 14:19:29
議論の前提として、「種差別」についてちょっと語っておきたいと思います。

動物の権利を考えるとまず、たいていの人は、別に「種差別」でもいいやん、と思ってしまうからです。
(私も最初はそう思いました)
人間は自らの種を第一と考えて、それ以外の動物は人間に搾取されて構わないという考えが浸透しています。
道徳的には、動物をいじめてはいけない、ということも言われますが、実際は、畜産や狩りなどで動物を事実上虐待したり、
殺してもとがめられることはありません。

これは権利等で配慮すべき対象を人間と、それ以外のものとで線を引いているからです。
その線を引くものが人間である以上、当然ではないか、と多くの人は考えています。

種差別批判は、この線を人間と動物の間に引くことの根拠が薄いことを問題にします。
人間が一番だから、とか、これまでそうやってきたから、というのは理由としては弱いと考えます。

過去には人間の一部も配慮されなかったり(奴隷制)、配慮を動物まで広げてもそれほどの問題は生じないと考えられる
ことなどから、これまで種でラインを引いていたのを再考しようと働きかけているわけです。

そもそも線を引くのに恣意的なところがあるのは当然ですが、だからと言って根拠をないがしろにしていいわけではない。
では、現に配慮されている人間が、配慮される所以は何でしょうか。
そこで、痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計などを持っているかどうかといういろいろな説が上がっています。

6ウラサキ:2017/11/20(月) 15:47:28
人間と動物の区別のし易さ、ってのは大きいのでは?
たまにオリバー君や雪男みたいな境界例もありますが、
DNA鑑定でもすれば人間かどうかは大抵判断が出来るから、
人権という概念も普及出来たのだと思います。

動物兼といわれても魚や無脊椎動物にまで権利を認めるのは難しいでしょうし、
意識の有無を基準にしようとしても、動物は意思表示が出来ないので、
その判定基準設定が難しかろうと思われます。

結局は観ている人間が感情移入できるかどうかでしょうから、
動物愛護というのも結局は人間の利己的な動機ではないかと思います。
他方、ジャイナ教徒のような虫も殺さないという立場は賛同しないまでも一貫しているとは思います。
しかし彼らは植物や細菌の生命は尊重しないのかという疑問もあります。

7横山:2017/11/20(月) 19:13:55
僕はまた、別の視点の議論が気になります。まとまらないかもしれませんが書いてみます。

(寓話を1つ)見ず知らずの2人の幼児が出会ってケンカしながら玩具を奪い合う経験を重ねるうちに、そこにルールと相手を尊重する意識が生まれ、遊ぶ順番を決めたり一緒に使おうとしたりするようになる。そこに他者尊重が生まれる理由は単にその方が互いにメリットがあることだろう。この場合はメリットが2つ考えられる。1つは単純にその方が争う無駄がなくなるので玩具を使える時間が増えること。もう1つは他者と遊ぶ楽しさを感じ得るということ。
この幼児は長ずるに従って、遊び仲間、学級、地域の集団、文化や宗教を共有する集団、国家、そして人間種を越えて、さらに大きな集団でも、この「自分だけの利益を考えて自分勝手な行動をした方が得か、他者尊重した方が得か」という問いに揺れながら、徐々に「仲間」を増やしていくことだろう。


(一部の不平等があったとしても)相手の某かの権利を認めようとする意識が生まれでるパターンというのは、こんな感じなのじゃないでしょうか?
そうだとしたら、相手の権利を認めるための条件は、
(1)相手の権利を認める方が何かの点で有利になること、
(2)相手の権利を認めること自体に喜びを感じること、
のどちらかがあることと言えるのではないか。
人権などというものも、その方がコミュニティにとって有利であるため、人権を守ること自体に喜びを感じるような教育を為し、コミュニティの成員個々が人権擁護の行動を自らとるようになり、それに利されたコミュニティがさらにその方向性を強めた、だけのものだとも言えるかもしれない。
そうすると当然、動物の権利を認めるための条件は、
(1)動物の権利を認める方が何かの点で有利になること、
(2)動物の権利を認めること自体に喜びを感じること、
のどちらかがあるということになる。

こう考えると、いくつかの疑問が湧く。

人間と他の種との間ばかりに断絶があるとするのではなく、人間同士の連なりも結構危ういものと考えるべきかもしれない。

また、動物の権利を守るべきか否かの線引きを、意識の有無だけで引くべきだ、というのはいささか根拠が薄いのではないか。
たとえば、他にも、
・ルールが共有できるか?
・意志疎通できるか?
・感情共有できるか?
・人間が愛着を感じるか?
・人間に有用か?
・地球環境に有用か?
などの線引きも十分議論の余地のあるものになりそうに思える。そのなかでなぜ意識の有無なのか。

8夫 正彦:2017/11/21(火) 11:37:26
ウラサキさん

確かに区別しやすさ、ってあると思いますね。ただ、区別しやすいからといって、区別していいことにはならない。
男と女も区別しやすいですが、権利に優劣をつけてはだめですし。

動物へ範囲を広げる場合、境界線のあたりで悩むような問題もありますが、区別できなくはありません。
もちろんある程度恣意的であるのは否めませんが、痛みという基準を設けていることで、より合理的ではあります。

意識の有無がわからない、とのことですが、遺伝子の共通性や神経系統の解剖学的所見から、痛みを感じるかどうかや、
意識が存在する可能性も推定できるようです。確実ではありませんが、現在の科学でわかっている範囲の知見を
取り入れています(ということは将来の科学的発見によって大きく理論が変わる可能性もあります)。

動物愛護が、利己的というか、偽善的という風にみられることはあって、結局は人間中心主義なんじゃないか、という批判は
よく聞きます。倫理的にふるまえと要請されるのは人間だけだからです。この辺りは、私もそうかも、と思っています。
アンチナタリズム(反出生主義)に与すればこの考えを脱することができるかもしれませんが、そこまでの勇気はありません。

信ぴょう性はあまりありませんが、ジャイナ教の悟りの完成は麻縄で首つり自殺すること、と聞いたことがあります。

動物の権利とか、ビーガンは原理主義ではないので、できる範囲でという条件が付きます。
ただ、できるのにやらないのはよくない、となりますが。

9夫 正彦:2017/11/21(火) 11:39:11
勉強したてなのに、動物の権利やビーガンについて偉そうに書いてますが、一知半解で間違ったことを堂々と書いているかもしれません。
精通していらっしゃる方は、間違い等ご指摘いただければ幸いです。

10夫 正彦:2017/11/21(火) 11:52:45
横山さん
(1)動物の権利を認める方が何かの点で有利になること
これは、理由をつければいくらでもつけられますよね。
歴史的に人権の範囲を拡大してきましたが、何か有利になるからという観点からの動きではないように思えます。
当然に得られるべきだ、という強い確信が原動力だったのでは。
何か有利になるからというのなら、騒擾が起きないように、とか考えられなくもないですが。

(2)動物の権利を認めること自体に喜びを感じること
動物の権利が認められて、動物が今よりも虐待、殺害、搾取されないようになれば、私は単純に喜びを感じます。
他の人も、実態を知らないだけで、知れば同じように感じるかと思います。

どうして、私たちは誰からも殺されず、虐待されない権利を持っているのか。それは、人間だからだ。
というのが、普通の人が考えていることなんじゃないでしょうか。その人間だからだ、というのが根拠薄弱だと主張しているわけです。

11ウラサキ:2017/11/21(火) 13:48:54
夫さん、

ヴィーガンの方々は魚、卵、牛乳の摂取もされないとの事。
その場合は意識の有無とは無関係ですよね?
動物の利用自体を罪悪視されているのでしょうか?

あと、「人間だからだ、というのが根拠薄弱だ」という主張は、
基本的人権という概念への異議主張という事でしょうか?

12夫 正彦:2017/11/21(火) 14:20:16
ウラサキさん

>動物の利用自体を罪悪視されているのでしょうか?

そんなわけないじゃないですか(笑)。卵、牛乳も動物の虐待に関わっているからです。
大量生産のために乳牛や鶏への虐待が横行しています。また、卵を産めなくなったり、
乳が出なくなったものは食肉にされたり、処分されたりします。
魚も痛みを感じるという実験もあるみたいです。すべての魚がそうかどうかわかりませんが、
避けておいた方がいいという判断をするビーガンが多いみたいです。
あと、昆虫はグレーゾーンです。痛みを感じるという研究もあるし、感じないという研究もあります。
ま、あまり昆虫は食べないので避けておいても問題はあまりないかもしれません。
(ややこしいのは絹とか)

人間だからというのが根拠薄弱というのは、

「どうして権利は人間だけに与えられているの?」「人間だからだ」
という問いと答えに還元されて、これでは根拠になっていない、ということを言っています。

13夫 正彦:2017/11/21(火) 14:21:43
ついでにこんなんみっけました。

「魚は傷みを感じるか?」
ttps://www.hokudai.ac.jp/fsc/usujiri/1206gekkan/1206bookreview/1206bookreview.html

14ウラサキ:2017/11/21(火) 14:44:55
夫さん、

北海道の渡辺牧場というところで乳搾り体験をして搾りたての美味しい牛乳を飲んで来ましたが、
どこが虐待なのかよく分かりませんでした。

海老、蟹、ウニや貝類もヴィーガンにはダメなのでしょうか?
海苔やワカメはOKなのですね?

又、ヴィーガンの方々はネズミやシロアリの駆除にも反対されるのでしょうか?

15ウラサキ:2017/11/21(火) 14:54:09
基本的人権ってのは、「全ての人間には生まれながらにして固有の権利がある」という考えかと思いますが、
この「固有の」って形容詞に異議を唱えようという事でしょうか?

日本ではどうも徳川綱吉の「生類憐みの令」のイメージが強いような気がします。

16夫 正彦:2017/11/21(火) 16:37:23
鶏でも広い場所で放し飼いにしているとか、食肉用の家畜でも狭い場所に閉じ込めるのではなく、
放し飼いにしているとか、乳牛もストレスのない育て方をしているとか、との考えをもって、
そうでない畜産と区別して肉や卵、牛乳を選んでいる人もいます。それはそれでいいかなとも思います。

ただ、私たちが安く買うことのできる牛乳や鶏卵、食肉は、かなり過酷な環境で育てられている
ことは事実としてあります。

また、上記の環境の良いところで育てられている家畜にとっても、例えば卵を産めなくなったり
牛乳が出なくなったら処分されたり、雄は不要なので食肉に売られたりしています。
(そうしないとコストがかかりすぎるためです)
乳牛って妊娠しないと乳が出ないので、絶えず妊娠させられ、子供が生まれてもすぐに引き離されます。
牛にも親子の愛情はもちろんあります。

ネズミやシロアリの駆除は認めます。直接的な害をもたらすので。けれども、できればやらない方がいい。
殺さずに済む代替案があれば、その方がいいというのはあります。
また、野菜等の栽培に関する害虫駆除も認めますし、人間に危害をもたらそうとしている動物を
殺すのは構いません。しかし、殺さずに生かすという代替案があればその方がいい。

この辺りは人によっていろいろ考えがあるので、あくまで私の考えですが。

17夫 正彦:2017/11/21(火) 16:43:43
>この「固有の」って形容詞に異議を唱えようという事でしょうか?

単純に「すべての人間には」っていうところを広げようとしているだけだと思います。
限界事例(乳児やら植物人間とか)をどうするかという問題が出てくるので、確かに「人間」という区分を
取っ払ってしまうと、すべての人権が人間に与えられるのか、という問題を再考しないといけないかもしれません。

しかし、現在でもどこからが人間か(つまり堕胎はいつまでできるか)という問題もありますし。

18ウラサキ:2017/11/21(火) 19:56:04
>鶏でも広い場所で放し飼いにしているとか、食肉用の家畜でも狭い場所に閉じ込めるのではなく、
放し飼いにしているとか、乳牛もストレスのない育て方をしているとか、との考えをもって、
そうでない畜産と区別して肉や卵、牛乳を選んでいる人もいます。それはそれでいいかなとも思います。

地鶏や放牧牛は食べても良いのですね?
となると、養殖でない天然魚介類もOKなのでは?

堕胎に関しては、日本のように出産前は母親の自由意志、
出産後は殺人罪ってのがクリアで良いかと思います。

19夫 正彦:2017/11/21(火) 20:46:21
ウラサキさん

間違えました。放牧の牛や放し飼いの鶏は乳とか卵の話でした。食肉はダメです。
食肉もいい場合があって、それは自然死の場合です。

もう一つ勘違い。堕胎はいつまでできるか、というのも日本では母体保護の観点で説明できますね。
しかし、母体の中である程度人間としての機能が備わっているのに、生まれるのと生まれないのとで
権利が与えられるか与えられないか決まってしまうのは何か変です。生物学的には連続しているし、
その機能も(出産前後で)あまり変わりません。法律みたいに割り切ることができればいいのですが。

20横山信幸:2017/11/21(火) 23:06:26
>夫さん
>どうして、私たちは誰からも殺されず、虐待されない権利を持っているのか。それは、人間だからだ。
・・・・とするのは根拠薄弱だ

と言われるのは、まさにその通りだと思いますし、僕の上のコメントでもそのように言ってたつもりだったのです。
人間だからだというだけでは根拠薄弱で、人間について考えるにもその根拠を様々な損得勘定をして多面的に考察すべきだと思います。だから、同様に、人間に人権があることだけを根拠に動物に権利があると結論付けることはすべきでなく、もっと根源的な損得勘定をして考える必要があるとおもうんです。そして、そのように考えるなら、単純にその動物に意識があるかないかだけが、権利があるかないかの線引きラインになるかが疑い得るように思うんです。

21横山:2017/11/21(火) 23:11:17
損得勘定で倫理的を測ろうとする立場ですから、個々の人や生物それぞれに個別の倫理的価値があり得るとする立場てす。

22ウラサキ:2017/11/22(水) 02:10:51
居住環境の快適の為にネズミやシロアリを殺すのはOKで、
食肉の快楽の為に牛や豚や魚を殺すのがダメって基準がどうも恣意的な感じがします。

人間以外の生物も他の生物を食べて生きているのだから、
人間も他の生物を犠牲にして生きていく事はごく自然な感じがします。
むしろそれが生命の循環というようなことではないでしょうか?

堕胎に反対するプロライフのキリスト教原理主義者やジャイナ教徒らは、
生命原理主義というドグマに捕らわれているように感じます。

私は以前にも表明した通り、人間の自殺や安楽死も容認する立場ですから、
人間が利用するために動物を殺す事にも別に何の疑問も感じません。

23イイダ:2017/11/22(水) 21:24:08
アニマルライツのことは本当に知らなくて、アニマルライツセンターのホームページ
にも見に行ってきましたし、シャックリング等の屠殺方法の動画も拝見しましたが、
それを見たからといって動物を食べないでおこうとは全く思いませんでした。
最近ではほぼ毎日見ていますが、忌避の気持ちは起こりません。
ウラサキさんと同意見なのが自分でもビックリしてます。
人間という種が他の種を犠牲にして生存していくのはむしろ当たり前であり、
可哀想だから食べないのはやり過ぎなのではないかと思います。
人類を滅ぼしたいと考えているのなら話は別かと思いますが。
早い話がジャイナ教のように宗教ならばまだ理解ができます(共感はしませんが)。
抜け道の多い宗教も多い中あそこまで徹底されているのは凄い。
宗教でないならビーガンにしてもどうぞご自由にとしか思いません、僕は。

余談ですが、TVタックルの過去回の「動物園・水族館が不要か?」の回で、
動物愛護団体の人の意見として
動物園での飼育は動物虐待に当たる(人間の管理下に置かれているから)としつつも、
ペットを飼う自分の行いは肯定するダブル・スタンダードに正直呆れました。
このように基準を結構恣意的に決められる。
それならば動物愛護団体の人が批判する雑食主義者の倫理が絶対的でないというのと同じく、
菜食主義者の倫理も絶対的なものではないと言えるのではないでしょうか。
ビーガンの人でも肉食動物を飼っている人はいますしね。

24横山:2017/11/23(木) 10:03:25
僕がアニマルライツを興味深く思っているのは、議論の際に容認派批判派の両者が共有できる倫理的前提がないかを探って前提を掘り下げていく作業が必要で、その作業の中で人間自体の倫理の根拠が問われることになる、というところがあるからです。
そのような興味の持ち方をしてるので、思い付くままにどんどん論点の間口を広げてしまってるかもしれません。
だから、僕の疑問を全部拾っていては、あまりに論点が広範になりすぎて議論の交通整理が難しくなると思います。
ですので、適当に無視して話を進めてくださいね。

25夫 正彦:2017/11/23(木) 18:17:40
ウラサキさん
無理やり(完全な根拠なく)線を引くという点では、どこで引こうと恣意的です。
人間とその他の動物というラインがあまりに根拠がないので、もう少し根拠のあるラインを設定しようと考えているわけです。
今までお聞きした話だと、分けやすいから、という理由しか上がってないし、動物の認知機能もだんだんわかってきているので
それを踏まえた、もう少し科学的なラインを考えてもいいんじゃないでしょうか。

それと、動物を殺して食べるしか食べなければ生命が維持できない場合、殺して食べてもなんの問題もありません。
これは、おそらくビーガンならだれでもそう思うと思います。発展途上国などで、流通システムが整備されていなかったりして、
動物の肉を食べないと飢え死にしてしまうところは、食べていいのです。

できることなのにしないのは変じゃないか、と問われているわけです。

住環境に関しても、できれば駆除しない方がいいのですが、駆除しないと快適な住環境を維持できなければ、駆除するのもありです。
私の中では一貫しているのですが、どうして理解してもらえないのか。食肉に対する喜びは、それほど重要なものでしょうか。
誰も飢え死にしろ、といっているわけではないのです。

26夫 正彦:2017/11/23(木) 18:26:17
イイダさん

ビーガンの人って動物飼ったらダメなんですか?初耳です。どうしてダメなんですか。

ダブルスタンダードのあきれたとのことですが、それほどあからさまなダブルスタンダードに気づかない人っていますかねぇ。
私それを見ていないんでなんとも言えませんし、そういう例を持ち出してもらっても、変な人なんじゃないですか、としか。
あるいは、もっと理屈があるとか。ひょっとしたら動物園での一部の動物のストレス反応のことを言っているんでしょうか?

どうも動物を飼ったら、虐待だと思ってません?どうして虐待になるんですか?
野生動物を無理やり捕まえればストレスになったり、けがさせたりして苦痛を与えますが、いざ飼って、ストレスのない環境を
整えてあげれば虐待にはならない、と思います(無理やり捕まえても構わない、と言っているのではありません)。

27夫 正彦:2017/11/23(木) 18:40:30
横山さん

人間と動物の間の線引きになんの疑問も感じていらっしゃらない方が多いようなので、
その先に行けるかどうか怪しくなってきました。

納得はできないけど、まぁ、乗ってみるか、と考えてくれればいいのですが。

人間中心主義ですが、ものすごく強力です。私もまだ逃れてません。しかし、どうもこの考えは、
単なる習慣に根差しているように思えます。そして漠然と、それを捨て去るとあらゆる価値観が
瓦解するような。

28夫 正彦:2017/11/23(木) 18:50:37
どうも私の側についてくださる方は予想通りいなさそうです。

完全アウェイで、罵声を浴びる中、プレイしないといけないとは!
ま、とにかく、とんでもない考えではないんだ、ということを皆さんに理解してもらえるかどうかですね。

後半のビーガンについては、皆さんを説得するつもりで発表しますと書きましたが、逆に皆さんが、
新興宗教にはまった人を助けるつもりで、何とかビーガンの魔の手から救ってくれるように説得してもらっても
かまいません。説得に負けたら「今日から肉を食べます」と宣言します(笑)。
(mixiでのマイミクさんならご存知かと思いますが、少し前からなんちゃってビーガンになりました。)

しかし、いろいろ反論受けて本当に勉強になりました。やっぱり議論しないと、自分の主張の弱いところとか、
理解が不足しているところとかわかりませんもの。

あ、議論を打ち切るという意味ではありません。これからもどんどん書き込んでいただいて結構です。

29ウラサキ:2017/11/23(木) 22:02:07
今はマンションの10階に住んでいますので、ありませんが、
子供の頃は平屋に住んでいたので夏場はよく蚊に咬まれました。
そこで夜は電子蚊取りベ〜プを点けて寝ていたのですが、
これって別に命に係わる事でもないし、少し痒いのを我慢すれば済むことですよね?
又、蚊帳という生命に優しい手段もあるかと思われます。
ヴィーガンの方々は蚊の生命尊重の立場からベ〜プの使用を控えるのでしょうか?

あと、人間と動物の区別に関しては、コミュニケーションの不可という大きな基準があるように思います。
人間以外の動物は話せないのでそこに理性を見出し辛いのではないのでしょうか?

因みに私は普段肉はあまり食べませんが、それは嗜好と健康への配慮という利己的な理由に因ります。

なんかアニマルライトって聞くと、
グリーンピースやシーシェパードなどと結びついたカルト的なイメージが強いです。

あとピーター・シンガーみたいな左翼がポスト・マルクスの活動分野として利用してるという印象もあります。

30横山:2017/11/23(木) 22:24:59
人権主義者ABCDがそれぞれ人権を尊重する理由が以下である。
(A)人権そのものが尊重されるべきものであるから。
(B)人は自身を反省する意識があるから。
(C)他者と心の交流をすることが私の幸福だから。
(D)人権が尊重される社会は私にも功利的だから。
このとき、ABCDのどれかがどれかよりも倫理的に優位であるとか、根本的であるとか、本質的であるとか、などということを言うことはできないはずじゃないだろうか。
そして、そうであれば、飢餓極限でも人食しない人とする人のどちらが尊いとか正しいなどと言うことはできないのじゃないか。
で、さらに、そうだとすれば、食べられるモノの苦しみと自らの喜びを天秤にかけて考えられる人と、そんな天秤などあり得ないとする人とのどちらが尊いとか正しいなどということを決定することはできないのじゃないだろうか。

31夫 正彦:2017/11/24(金) 10:01:42
ウラサキさん

蚊についての件は、確かに直観に反しますね。
昆虫が痛みを持つ存在である、という前提からきています。
もちろんこれは科学的にはまだ立証以前の段階で、痛みを持つという研究結果もあれば持たないという研究結果もあるみたいです。
で、もしものことがあるといけないので昆虫を殺すというのを避ける方向になります。
だから、あくまでグレーゾーンです。したがって、哺乳類とか鳥類とかと同じような配慮をしなければならないかは疑問です。
もし痛みの感覚があるとしてもごく原始的なものでしょうし。

昆虫を楽しんで殺したりとか(昆虫食も含む)、別に殺す必要がないのに殺すとか、そういうのを避けるだけでいいのではないでしょうか。
つまり、少々の不快さを改善するために殺すのも構わない。もちろん、人間は蚊に刺されるのが不快なのであって、そもそも蚊が入ってこない
対策をする方がベストでしょう。実際多くの人がそうしてますし。

これはゴキブリにも適用されます。ほとんど実害がないのに嫌われています。けれどもゴキブリがうようよしている家が、殆どの人にとって不快で
あることは言うまでもないことです。


理性の有無は、極限事例(極度の精神障害とか乳幼児等)にも適用されるので、そういった人たちを虐待や殺害しても構わない、というふうになってしまいます。

アニマルライツのイメージですが、新無神論者たち(ドーキンスやサム・ハリス、マイケル・シャーマー等)が評価しています。
ドーキンスはシンガーの編集した論文集「動物の権利」に寄稿しています。

32夫 正彦:2017/11/24(金) 10:15:46
横山さん

倫理学の教科書では、どの倫理基準が選択されるべきかの基準が載っています。
いろいろあるんですが、覚えているのは論理的整合性があるとか、多くの道徳的ジレンマに結論が出せるとか、道徳的直観に反しないとか等々です。

横山さんのは文化相対主義(価値相対主義)になっていますが、人食いの文化をもつグループにその文化をやめさせようと働きかけができないことで道徳的直観に反していると思います。
もっと現実性のある例でいうと、少数民族に対するジェノサイドを続けている国に介入できなくなります(軍事行動だけでなく経済的圧力さえかけられない)。

しかし、この道徳的直観も疑うことができます。道徳的直観の多くは、人それぞれによって違うからです。
食肉用家畜の虐待の映像をみて、心を痛める人もいれば(やめるべきだと思う)、なんとも思わない人もいる(現状維持で構わない)。
とはいうものの、何らかの共通する道徳的直観はこの社会を作るうえで大きな役割を果たしています。
人を殺してはいけない、というのもそうです。

道徳的直観を多くの人と共有できない人も、その道徳的直観の上に成り立っているシステムを黙認している、という現状もある。
動物虐待をなんとも思わない人が、動物愛護法はおかしい、と言うのをあまり聞いたことがありません。

33夫 正彦:2017/11/24(金) 10:46:22
誰でも、自分がペットを飼っているとして、そのペットを自分でない誰かがいじめたり、殺したりしたら怒ります。当たり前ですが。
また、そのペットが事故や病気で死ねば、悲しむでしょう。

しかしこの段階では、そのペットが自分が所有して大切にしている”物”と扱いが変わらないように思えます。
自分の大切にしている”物”を壊されたら腹が立ちますし、勝手に壊れたり無くなったりしてしまえば悲しむでしょう。

とすると、この考えからは、そのペットを所有するなら、そのペットに何をしようが構わない、という結論が出てきます。
これは動物愛護管理法の理念に反するでしょう。ということは多くの人の道徳的直観にも反します。

何を言いたいかと言えば、ペットの扱いについて、上記のように限定すると、多くの人の道徳的直観に反する結果が出てくるということです。

これは道徳的直観と簡単にまとめてみましたが、内実をもっと分析してみる必要があるかもしれません。

単純に、誰かが自分の飼い犬を殴ったりけったりしているのを見るのが不快であるというのが思いつきます。
これは、自分の子供を必要以上にせっかんしている親を見るのに近い。

道徳的直観ではここまでかなぁ。あとは、正義の観念を利用します。動物の倫理における正義の観念は奴隷制の問題を例に挙げると
わかりやすいです。また機会があれば。

34横山:2017/11/24(金) 12:00:02
夫さん、僕の主張は相対主義になるとは限らないと思います。以前どこかで述べましたが、僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。倫理的価値は最終的にはそれぞれが勝手に採った前提に因る他はない(その意味では相対主義とも言える)ものではあるが、自分が勝手にでっち上げた倫理観を押し通すこともできる(この点で相対主義とは異なる)とするものです。
私が正しいと思う倫理は、その底まで探っていくと必ず何らかの恣意性があるものにならざるを得ないので、必ずすべてが論理的に正しいとは言い切れない部分を持つものになる。しかし、それでも自分の信じる正しさを求めて生きることはできるのだから、それを自分勝手な正義だと知りつつ自分勝手な正義を為せば良い、
とするものです。

その立場から言うと、夫さんの回答は、僕の上の批判に対する回答としてまだ未回答な余地が残っているとように思います。

35横山:2017/11/24(金) 12:12:40
結局、僕の主張は以下になります。
アニマルライツ派がそれを論理的に正しいと主張できるのは、反対派までが容認し共有できる前提のみから動物の権利を導出できる場合のみであるはずであること。
人権さえそれが損得勘定から出てきたものとすることもありうるはずなこと。
それゆえ、アニマルライツもどこまでも損得勘定から出てきたものとすることが可能なはずなこと。
です。

36夫 正彦:2017/11/24(金) 13:42:51
横山さん

私も一面ニヒリズム共有してます。何ごとも”正しい”と呼べるものはありません。

けど私のイメージで言うと、ニヒリズムは社会への働きかけをしませんし、自分で「正しい」と思えるような基準を作ったりなどしません。
何をしても無駄、と無気力になるイメージです。

だから、

>アニマルライツ派がそれを論理的に正しいと主張できるのは、反対派までが容認し共有できる前提のみから動物の権利を導出できる場合のみであるはずであること。

に関しては、反対派がなんとなく納得してくれればいい、ということで、論理的な正しさを追い求めているのとは微妙にちがいます。
なぜかわかりませんが、論理に一貫性(だけではないですが)があると、人は説得されやすい。場合によっては感情を凌駕する。だから一貫性を追い求めます。
レトリック的に「正しい」とか使うかもしれませんが。

私の倫理に対する態度は、ある倫理基準にみんなが従ったとするとどういう社会が出来上がるかにかかっています。
その社会を想像して、いい社会だな、と思ったら賛成します。

損得勘定で構築する場合、道徳的直観を軽視するので、とんでもない結論が出てきても補正されません。
障碍者は殺してもいい、という結論が出たら従わないといけない。といいますか、損得勘定って功利主義のことですか?

37横山:2017/11/24(金) 15:57:23
損得勘定という言葉遣いが誤解を生みやすいものだったかもしれません。
僕のいう損得勘定は最大に意味を広くとった功利主義だと考えてください。

また、僕の主張は「功利主義を採るべきだ」というものではなく、「どこまでも功利主義を採ることが許される」です。つまり、ありとあらゆるパターンの善悪判断があり得るとするものです。

人権は擁護されるべきだと僕は思っていますが、それは「何の前提もないところから必然的に導出される帰結だ」とすることができるはずはなく、単に「そのような善悪判断に沿って私は行動する」とする宣言に過ぎないものだと考えています。

同様に、アニマルライツが擁護されるべきだと考える人もいるだろうし、それに反対する人もいると思いますが、どちらかが何の前提もなしに必然的に正しいなんてことはあり得ないと思います。
できることは、自分はアニマルライツを擁護するとかしないとかを宣言するだけか、
あるいは、どこまで前提を共有できるかできないかを擦り合わせる作業を進めるだけだとしか思えない、ということです。

38横山:2017/11/24(金) 18:07:47
ニヒリズムについて、多くの人は「世界には絶対も真なんてものもなく、生きる意味なんてない」というネガティブな悲観論だと理解してるようですが、「ツァラトゥストラ」を読む限りでは、それはまったく逆で、「世界に絶対的な真なんてものがないからこそ、この生はポジティブな意味を持ち得る」とする超楽観論にしか思えないでいます。

39ウラサキ:2017/11/26(日) 08:25:47
横山さん、

ニーチェの「ニヒリズム」という語の用法は日常用法とは、
大きくズレていますので、あまり参照なさらない方が良いのでは?

それにあの人、批判しているキリスト教と自分の立場両方を「ニヒリズム」と呼んだりしています。

40横山信幸:2017/11/26(日) 09:20:28
>ウラサキさん
僕の上のコメントは
>34の
>僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。

というコメント投稿からの流れでの発言です。その流れのなかで見てやってください。

41横山:2017/11/26(日) 09:33:22
↑、また、どうも書くべき場所を間違えたようで、なんか変な感じにしてしまいました。ごめんなさい。

42横山:2017/11/26(日) 09:36:36
変になっちったのでもう一度書き込んでおきます。スミマセン。

>ウラサキさん
僕の上のコメントは
>34の
>僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。

というコメント投稿からの流れでの発言です。その流れのなかで見てやってください。

43横山:2017/11/26(日) 09:37:38
変になっちったのでもう一度書き込んでおきます。スミマセン。

>ウラサキさん
僕の上のコメントは
34の
>僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。

というコメント投稿からの流れでの発言です。その流れのなかで見てやってください。

44横山:2017/11/26(日) 10:03:53
wiki で「ニヒリズム」を引いてみたら、積極的ニヒリズムをけっこう中心的に取り上げていましたし、関連人物の真っ先にニーチェを挙げてました。ニヒリズムを考えるのにニーチェを参考にすることはそれほど偏った見方とはされていないように思えました。

45ウラサキ:2017/11/26(日) 11:35:03
夫さんが使っていた「ニヒリズム」は「積極的ニヒリズム」では無かったようです。
もしそのつもりなら「積極的」という形容詞は外さずに使用した方が混乱が少なくて良いように思います。

いずれにせよ「ニヒリズム」って曖昧で多義的な使用をされているので、
どんな解釈でも通る、って面があるかと。

46横山:2017/11/26(日) 12:14:46
ウラサキさん、ご教授ありがとうございます。
でも、相対主義ではなくて、積極的な意味合いを持たせた立場のことを言いたいときには、僕の知っている語彙ではニヒリズムとか虚無主義とかしかないんですよね。何か新しく造語しないでも「絶対的な真などなくても生には既に意味があるとするような積極的なニヒリズム性」を示す良い言葉はありますか?

47ウラサキ:2017/11/26(日) 13:10:41
ニーチェの言う「積極的ニヒリズム」とは違うのですか?

48横山:2017/11/26(日) 13:47:02
じゃ、僕の「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」とか「ツァラトゥストラを読む限りで・・・ニヒリズム」という言い方は、ウラサキさんとしては今後もされてもオーケーですか。

49ウラサキ:2017/11/26(日) 14:53:28
「(ニーチェの言う)積極的ニヒリズム」と呼べば混乱は少ないと思いますよ。

50横山:2017/11/26(日) 15:27:13
申し訳ないですが、僕の表現のどこに問題があったのか分からなくなってしまいました。それほど問題があったわけではないと思ってもよいですか。

51横山:2017/11/26(日) 15:42:28
どちらにしても、38以降の僕の発言は僕の主張の要旨からはあまり関係のないものですから、無視してもらった方が良いかと知れません。

52ウラサキ:2017/11/26(日) 16:07:46
世間で「悲観的」で「ネガティブ」なイメージのある「ニヒリズム」を、
横山さんの主張する立場のネーミングとして使用するのはミスリーディングではないか?という事です。
「ニーチェ主義」といった方がまだ誤解が少ないかと。

53横山:2017/11/26(日) 16:18:39
既に、ウラサキさんとの言われるような誤読を避けるような記述になるよう心がけてきたつもりでしたが、まだたりないということですね。気を付けたいと思います。

54横山:2017/11/26(日) 16:31:39
話を37に戻すと、
ウラサキさんと僕の今のやり取りの「分かり合えなさ」にしても、コメント記述に対する捉え方の前提が異なっていることからのボタンの掛け違えというは部分があると思うんです。
そこで、ボタンの掛け違えがあった場合にできることは、「とにかく僕は僕のやり方でやります」と宣言するか 、納得できないけど「言われる通りにやります」と宣言するか、どこに前提の掛け違えがあるかを探るか、しかないんじゃないかと。どちらかが絶対正しいとか間違ってるとか言って決着としていまうのは、あまり意味がないんじゃないかということです。
まあ、そんな風に言ってしまうと当たり前のことなんですけど。

55横山:2017/11/26(日) 16:38:13
付け加え。その3つで、「僕は僕のやり方でやりますと宣言する」より「前提の掛け違えを探る」のほうが良いとしてる訳ではありませんからミスリードされませんように、その3つはきちんと等価だと僕は思っています。

56横山:2017/12/08(金) 23:11:13
性懲りなく、思い付きを書きます。

【悪】とは何か。ある辞書では「道徳的に悪いこと」と「不快なこと」とあった。「不快」の方はなんとなく分かる気もするが、「道徳的」とは何か。辞書で引くと「行動の規範」のようだった。つまり、悪とは、「そのようにすべきでないこと」と「不快なこと」と言っても良いか。【善】についても同様に考えると、【善】【悪】の意味は、それぞれ、

(1)同じ条件場面で選択すべき行為であることと、選択すべきでない行為であること、

(2)快い結果を及ぼす行為であることと、不快な結果を及ぼす行為であること、

であろう。
この2つの【善悪】は多くの場合は一致するだろうが、必ずしも一致するとは限らないのではないか。
例えば、遺伝子の成り立ちからして多くの生物は自分の遺伝子に近い遺伝子型をもつ個体の生存を優先する行動をするようにできている。そうであれば、自分の子や家族や或いは民族や或いは種族だけを優遇する行為は(1)の意味での善であるだろうが、(2)の意味での善であるとは限らないのではないか。
一方、ある人は種を越えてあらゆる苦痛を持つ生物の苦痛を軽減することに快さを感ずる。この者がビーガンになればそれは(2)の意味で善であろうが、(1)の意味で善であるとは言えないだろう。
つまり、(1)と(2)の善悪は別の概念だと言えるだろう。
われわれ人間は、(1)の方の善の視点において、遺伝子や習慣などによって、身近なものを優先するような習性をもち、或いはその上で、さらなる功利性のために遠縁の生物までも養護するような習性も持つかもしれない。そして、それを為すことを良しとするかもしれない。
また、われわれは(2)の方の善の視点における快さによって、また社会のなかで要領良く効率的に行動することを良しとする習性化訓練によって様々な規範をもつようになったかもしれない。それらの、例えば自他を同様に扱うとする規範などは、ある場合には小集団内だけの規範であるだろうし、ある場合には人類全体までを網羅するだろう。また、ある場合には苦痛を感じるすべての種にまで及ぶかもしれない。そして、それを為すことを快いとするかもしれない。
(1)と(2)のそれぞれの善は、それぞれに多彩な内容をもち、多くの場合(1)と(2)は重なっている。しかし、それは完全に別の概念なのだ。

ビーガンは、あらゆる生物種の苦痛を除くことを(2)の意味での善(快いこと)であるとし、かつ、(1)の意味での善(すべきこと)であるとする。ビーガンはこの2つの善が一致しなければならないとするが、一致しなければならない必然性などはどこにもないのではないだろうか。

一般的に、人間が社会生活を送るときには(1)と(2)の善悪は一致しやすいから矛盾も混乱もあまりおこらない。だから、「自分がされたら嫌なことは他者にもしない」という規範はそうする方が快いものでありながら、かつ、そうすべきものである、とする2つの意味での善であって、そこに問題はない。
ところが、ビーガンの求めるように他の生物種にまで及ぶ規範として「自分がされたら嫌なことは他者にもしない」というルールを考えるとき、この規範はすべての種やすべての人にとって(1)の意味での善になるとは限らないことは明らかだろう。
そう考えると、ビーガンが、「自分がされたら嫌なことは他種にもしない」としているのは、(1)と(2)の善を混同している部分があると言えないだろうか。
ビーガンが、あらゆる人類が「自分がされたら嫌なことは他種にもしない」という道徳規範をもつべきとすることに根拠があるとするのは、その混同による誤謬でしかないのではないだろうか。

どうでしょう。

57横山:2017/12/08(金) 23:56:36
↑、なんか、それっぽく書けた風だけど、よく考えたら論の整合性がおかしいかもしれない。もうちっと考えてみます。

58夫 正彦:2017/12/09(土) 09:01:17
横山さん

まだ横山さんの主張のすべてを把握しているわけではないですが、気づいた点から。
(1)はどうも、人間の傾向性に従っていれば善、そうでなければ悪のように見えます。
で、(2)は功利主義でしょうか。
(1)の場合、やはり自然主義的誤謬が気になりますね。人間の傾向性は道徳を考えるうえで
考慮しなければならない重要な要素ですが、それに完全に従う必要はない。

(1)の立場を道徳的直観という言葉で言い表すならば、道徳的直観と、いくつかの
前提から導かれる道徳法則とそれらを現実の事態に当てはめつつ調整していくという
反省的均衡(ロールズ)の考えが、しっくりきます。

59横山:2017/12/09(土) 15:00:11
夫さん、上の話を書いてるうちに何が言いたかったのかわからなくなってました。
よく考えると、夫さんが仰っているように、(1)はその個体の行動傾向がその個体にとっての善ではないかという話だったかもしれません。
それぞれの種が遺伝と環境によってそれぞれの種の善を持つと捉えることによって、逆に、それこそがそのものにとっての善なのだとするような、そういう善の捉え方ができるのではないかということ。そのような捉え方をするとするなら、種によって、或いは個体によって、それぞれ個別の善があり得ることになります。
ライオンにとっては肉食が善になり、差別主義者にとっては差別的行為が善になるというような、ある意味ブッ飛んだ善の捉え方も、論理的には排除されるとは限らないのではないか、と。

しかし、こうやってまとめてみると、単純な相対論でしかないかもしれないという気がしてきました。

いや、でも、ここには何かがあるような気がまだしています。もう少し考えます。

60横山:2017/12/09(土) 18:52:13
(1)をそのように相対主義の根拠にしながら、ロールズの反省的均衡の視点を絡めた倫理システムを考えるという、なんか新しいメタ倫理みたいなものを空想してるのですが、まったくの勘違いかもしれません。

61名無しさん:2017/12/10(日) 13:37:22
初めまして。ツイートで考える反出生主義@botの中の人です。ボットと呼んで下さい。
大阪哲学同好会(&ウィト読書会)と横山さんをフォローさせて頂きました。
哲学初心者です。お手柔らかにお願いします。

夫さん
早速なんですが、>>25に「動物を殺して食べるしか食べなければ生命が維持できない場合、殺して食べてもなんの問題もありません。」とあるのですが、
それはつまり肉食動物であるライオン等や、肉食だが我々と同レベルの知的生命体という仮定存在、及び完全菜食不可能体質者は動物を殺してor利用して食べても問題無い、
引いては人間を食べることでしか栄養摂取できない食人鬼という仮定存在が人間を食べることについても問題無い、ということで宜しいでしょうか?

宜しくお願いします

62ボット:2017/12/10(日) 13:38:36
>>61
名無しで投稿してしまいました、すいません

63横山:2017/12/10(日) 22:58:11
先日の(1)と(2)の考察が自分でもワケわかんないものになってしまったので、言いたかったことを別の視点の考察をし直してみました。いかがでしょう。

人を殺したがる友に殺人を犯さないように説得するにはどうすべきか、を考える。
やり方は二つあると思う。
(あ)一つ目はパワーゲームだ。殺人をしたがる人に対して罰を示すことで抑制を図るというやり方だ。力ずくでの抑え込みを含めたルール設定による説得である。殺人を犯せば自分に不利益が返ってくることを予測することで、自分の行動を抑えることになる。
(い)もう一つは価値自体の変更を促す説得だ。殺される相手にも心があることを訴える。そして殺さないこと自体が自分の心情的な安寧につながり自身の利益になることを訴える。

さて、(あ)は結局パワーゲームなので、そのパワーバランスとその個別の状況によって内容が異なることになる。しかし、だから逆に、その本人の資質と環境の状況が決まればそれによってその行動指針が論理的に一意的に決定することになる。その場が私がどう行動すべきかを決めてしまうことになる。罰されたくないから殺さない。

一方、(い)は、他者の心情に対する想像力の有無など様々な影響因子はあるだろうが、場の状況から行動指針が論理的に一意的に決定するとは限らない。他者がどんな心情を有しているかという問題は、詰まる所で一種宗教的な前提を必要とするものだからだ。他者も自分と同じような感じ方をするはずとする無条件な前提を入れてしまわねばならないのだ。だから、必ずしも状況に左右されるとは限らないような場面でも、行動指針を支える価値を持てるものとなる。
そして、そのような、状況のみに左右されず、宗教的な前提に支えられているものだからこそ、自身の行為を自身で価値付けることができる。

これは、だから、結果的に、状況に一意的に決められてしまうような(あ)の指針に従わざるを得ないときに、そんな状況でも、(あ)と(い)を一致させることによって、嫌々にその行動指針に従うのではなくて、自分から進んで行為することになる。・・・・
というこの点で、この(あ)と(い)の二つの倫理があるということは非常に効率的なシステムになっていると言える。

しかし、確かに普段の常識的な状況ではことシステムは非常に効率的なのだが、パターンから外れるような特異的な状況ではこのシステムは働かなくなるのではないか。

例えば、もともと自暴自棄になっている者には罰が有効に機能せず(あ)の行動抑制が働かなくなるかもしれない。そうなると(あ)と(い)が一致する必要もなくなり、システムの有効性もなくなる。

そう考えると、アニマルライツ論においては、(い)の方ばかりが優先されて、(あ)が重要視されてないのではないか、という疑問が起こってくる。
つまり、アニマルライツ論では、(い)の方の「他の種の生物にも痛みがあるだろうからそれを与えないようにすべきだ」とする倫理規程を優先してるのだけど、その倫理規程は実は論理的な必然性のあるものとは限らないものに過ぎない。
しかし、一方、(あ)の方でも、法を共有しないような他者とのルールを考えなければならないような状況の話になるので、なかなか論理的必然的に倫理規程が紡ぎ出されるまでには繋がらず、「他種の権利を擁護すべき」という指針の根拠にはなりにくい。

この考察から、アニマルライツ論は、
(あ)と(い)を混同してしまってアニマルライツを必然的なものだとうそぶくか、
(い)による指針であることを認めてアニマルライツには必然性がないものだとするか、
しかないのじゃないか。

という話になりそうだと考えました。
僕の問いたいことが伝わるでしょうか。どんなもんでしょう。

64ウラサキ:2017/12/11(月) 04:00:31
横山さん、

アニマルライツ論議で(あ)の指針を持ち出してくるのは無理が有るのでは無いでしょうか?
少なくとも日本では肉食を罰する法律は無いからです。

65横山:2017/12/11(月) 06:17:24
>>64
ウラサキさん、

(あ)はアニマルライツ論では指針として機能し「にくい」というところから問いが立てられそうだという話をしてるつもりです。
そういう問いではアニマルライツを問うことが難しいということですか?

66夫 正彦:2017/12/11(月) 11:30:27
ボット様

ご質問ありがとうございます。今度大阪哲学同好会で発表するために「動物の権利」を勉強していますが、
付け焼刃でかなりいい加減なことを言っている可能性があるので、指摘いただければ幸いです。

質問についてですが、あくまで現状ありうるような状況を想定しているので、仮定の場合は想定してませんでした。
私は健康を害してまでビーガンになる必要はないと思っています。ただ、家畜となっている動物たちの過酷な状況は
知ってもらいたいし、完全菜食にいかないまでも、できることはしてほしいと思っています。

現実的な話として、動物の権利、せめて殺されない権利だけでもすぐにでも認めるべきだ、と強く主張しても
反発を食らうだけですし、科学技術の発展も横目に見ながら、習慣にとらわれている人たちを徐々に説得
していくしかないと思っています。

ライオンについては、彼らが肉を食べる以外に生きていく手段を持たない、倫理を理解する能力がない、等々で
肉食を認めるべきでしょう。

肉食の知的生命体は、私たちの倫理を理解できるのなら、説得するべきです。しかし、理解できなかったり、
そもそも意思疎通が無理なら、方法はないでしょう。

完全菜食不可能体質者は、肉食以外の代替手段がないのなら、肉食を認めるしかないと思います。

他者を害さない限りで自己の自由を行使できるという原理がありますが、その他者に本来は動物も入るべきなのでしょう。
理想はそうだと思いますが、現実には障害がいくつもあります。動物を他者に引き上げるまでの過渡期としてこのように
考えればいいのではないかと思いました。

67夫 正彦:2017/12/11(月) 12:57:54
横山さん

簡単に二点。

①横山さんの説だと奴隷解放のようなダイナミックな道徳的価値の転換をうまくとらえられていないような気がします。

②(あ)が「何らかの罰が与えられるなど本人が不利になるためにある行動をするかしないかを決定づける」とする法則であるなら、
だんだんみんなの意識を変えていって、そのような法則を適用できる社会は作れるんじゃないでしょうか。
現時点でアニマルライツが(あ)を軽視しているように見えるのも、(い)を充実させて(あ)を醸成するという
過渡的な場所にいるからという理由では。

68ボット:2017/12/11(月) 21:28:06
>>66
夫さん、御回答ありがとうございます

私はライオンや肉食知的生命体についてはともかく、完全菜食不可能体質者については『現状ありうるような状況』だと考えます
完全菜食不可能体質者が動物を殺さずに肉食を行い、人類が動物の利用されないという権利を普遍的に動物全てに対して守るには

人肉を含めた自然死肉及び人工肉等の供給量≧完全菜食不可能体質者の生存の為の必要量

という不等式が最低限成り立つ必要があると思われます
上記の不等式が成り立っているという科学的なエビデンスはありますか?

アメリカ栄養士会は『適切に計画された全てのベジタリアンやビーガン食を含む、菜食は、健康的であり、栄養的に適切であり、そして特定の病気の治療と予防において健康に寄与することはアメリカ栄養士会の見解である。
良く考えられた菜食は、妊娠、乳児、幼児、子供、青年を含む個人の生活習慣の全ての段階で適切である』と述べています(下記参考文献のABSTRACT(概要)参照のこと)
ヴィーガンの方は良くこれを引き合いに出し、完全菜食不可能体質者は居ないとしていますが、ネット上の個人、あるいは有名人(アンハサウェイやR・マクアダムス、アンジェリーナ・ジョリー)が完全菜食をやめたというニュースがあります
もちろん全員が体質的な問題で失敗したとは言いませんが、同様に全員が栄養学的な問題で失敗したとも言い切れません
しかし専属の栄養士も抱えることが出来、食料も簡単に手に入れられる有名人がビーガン食に挑戦したが、それに失敗したのは不適応者の存在を強く疑う根拠になると思います
私はこのアメリカ栄養士会の見解を事実に則さない仮説であり見直すべきだ、と考えています

上記の不等式が成り立っているか検証されないままだと、人間の生存権と動物の利用されないという権利が両立できるか真偽不明です
現在はこの状態だと思っています。「『べし』 は『できる』を含意する」という原則(カントが主張したんだっけ?)において、人類は完全菜食が『できる』のか分からない状態です
この証明は道徳哲学=倫理学ではなく、栄養学・生化学・統計学等別の分野で行われるものでしょう

もしこれが証明できれば、動物に利用されないという権利を与えても、人間の生存権とも両立可能になると思われます(与えなければならないとは言わない。その理由は別に考える必要がある)

しかし逆に必要量の方が多いと証明されてしまった場合、『動物を他者に引き上げ』て種差別を撤廃したとしたら、人間の権利を幾ばくか捨てる必要を迫られます
つまり①種差別をやめる代わりに完全菜食不可能体質者差別を行って人間を死に至らしめるか
または②完全菜食不可能体質者差別をせずに種差別を行い続けて動物を死に至らしめるか
両立不可条件下では二通りしか無いはずです
この場合、人間と動物、どちらを優先すべきでしょうか? 理由も添えてお答え下さい



参考文献
Position of the American Dietetic Association:Vegetarian Diets
で検索して下さい。pdfのページで全文(英文)が読めます
基本的にABSTRACT(概要)とCONCLUSIONS(結論)を読めばアメリカ栄養士会が言いたいことが分かるはずです
url貼れなかったのでお手数おかけします

69名無しさん:2017/12/11(月) 21:34:46
頭のhを抜けばよかったんだ
度々申し訳ありません
参考文献
ttps://www.andeal.org/vault/2440/web/JADA_VEG.pdf

70夫 正彦:2017/12/12(火) 09:21:56
ボット様

私は完全菜食不可能体質者がそれほどいるのか懐疑的です。いたとしてもごく少数ではないでしょうか。
そういう人たちも、適切なサプリメントで完全菜食に移行できるかもしれません。

アメリカ栄養士会の見解は、よくビーガン関連の記事に引用されていたりしているので、実際に読んだことはないですが
ビーガンを始めるのに栄養学的には問題ない、ととらえました。

それに対して、途中でビーガンをやめた有名人の例を出して、アメリカ栄養士会の見解への反証を考えるのは
”科学的”な態度と言えるでしょうか。この場合、きちんとした論文をもって反証とするべきです。

また、もし栄養学的に問題がある、ないと議論が分かれていたとして、自分がビーガンを始めるのにはあまり
支障がないように思えます。ちょっとはじめてみて、体調が悪くなればやめればいい。

実は私も少し前からビーガンを始めましたが、二週間ぐらいしてから、体調が悪くなりました。
しかしこれは、私が完全菜食不可能体質者だから、という短絡的な結論に飛びつく理由にはせずに、
①料理のバリエーションが少なくて適当に済ませることも多かったので栄養的に偏ってしまった
②そこそこ年なので、別の原因からの体の不調かも。
と考えています。
一応、菜食が原因とも考えられるし①の解決にもなるかもしれないので、少しだけ肉食をするように戻しました。

不等式に関していえば、完全菜食不可能体質者の数を見積もれない以上、エビデンスはないと思います。

最後の二つの問いに関しては、完全菜食不可能体質者を差別するのは反対なので、②を選択します。
しかし、できるだけ動物を殺さずに済ませる方法があればその方がいいし、食料にする頭数もできるだけ
少なくするとか、動物福祉に最大限配慮するとか、いろいろする必要はあるでしょう。
また、完全菜食不可能体質者でも動物の肉を食べないで済むような、科学技術の発展にも期待します。

71ボット:2017/12/12(火) 14:07:07
>>70
夫さん

『きちんとした論文をもって反証とするべき』なのは御尤もです
故に実地検証を行っていない理論のみのアメリカ栄養士会の見解を鵜呑みにするのも”科学的”な態度ではありません
理論に反する不適応報告がないならともかく、それが散見される以上は

具体的には『アメリカ栄養士会の監修の元、無作為抽出での完全菜食適応実地検証』またはそれに近いものを実施し、完全菜食不可能体質者の存在を確かめるべきだと考えます
検証結果により完全菜食不可能体質者の存在が否定されることも、私は否定しません
この存在が否定されるならば供給量≧必要量のエビデンスの代わりとなり、動物に利用されないという権利を与えても、人間の生存権とも両立可能となるでしょう
しかし存在が確認され、明確に供給量<必要量だろう割合だった場合、両立不可能と分かります
両立が可能だったら種差別を撤廃することが可能、両立不可能だったら、人間動物どちらかを差別しなければならない

ただ今のところは『真偽不明』で両立の可不可が分からない状態であり、実地検証によりアメリカ栄養士会の見解という仮説を見直すべき、というが私の見解です


個人が完全菜食を試してみるには問題はありません
体調が悪くなればやめればいい、もその通りです
完全菜食不可能体質者だったのに無理して栄養失調で死ぬのも、また自由です


ここまでが人間と動物の権利両立の可不可が不明であるという理由です
権利両立が可能なら現に配慮されている人間が、配慮される所以を曖昧にしたままでも構わないかもしれない
ここからが本題、現に配慮されている人間が、配慮される所以は何だろうか、という問です


どちらか人間動物差別しなければならない場合、動物の方を差別するという夫さんの意見は分かりました
動物の権利を付与することが出来なくとも、配慮や福祉を最大限にすることは否定出来ません(私の感情的には肯定しています)

しかし私がお聞きしたかったのはその結論に至る基準でした
>>5にあるようにその基準は『痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計』という説があるのでしたっけ?
反種差別主義者はそれらを根拠にしています
しかしそうすると>>17にあるように限界事例(乳児やら植物人間とか)をどうするかという問題が出てくることが分かっています
ただし、限界事例の人間が動物より優先されないことは私、そして夫さんの直感に反する
今回の討論は直感ではなく、きちんとした理由、基準をアニマルライツを通して明確にしたい、というような意図もありますよね?

72夫 正彦:2017/12/13(水) 09:37:31
ボット様

栄養士学会の件については、確かにおっしゃる通りだと思います。

>今回の討論は直感ではなく、きちんとした理由、基準をアニマルライツを通して明確にしたい、というような意図もありますよね?
もちろんそうです。
動物の命を奪ったり、過酷な環境に人為的に押し込める、ということは私の道徳的直観に反します。まずはそこから発しています。
ただ、私の道徳的直観は私自身の偏見にゆがめられているかもしれないし、その境界線についてはあいまいです。
だから、基準を考えて、自身が納得のできるものにしたい。
そこで、痛みや情感というのはその基準として、今のところ妥当ではないかと思いました。
ただし、そうすると限界事例の問題で私の道徳的直観に反する問題が出てくる。
痛みや情感だけでは、基準として不完全なのか。それとも、いずれかの道徳的直観を改める必要があるのか。
そういうところですね。

ただ、私はあまり境界線の問題には重要性をおいていません。どういう境界線問題でもそうですが、完全にしっくりくる説は出てきません。
もちろん、境界線問題が無意味だと言っているのではないですが。境界線問題をあいまいな状態においても、実践には問題ないことが多い。

人間中心主義、種差別主義は身に沁みついてしまっているので、その存在を認識しても、なかなかとらわれずに考えることができません。
だから動物の権利の主張に賛同しても、端々にそういう習慣的なものが顔をのぞかせてしまうのかもしれません。

73名無しさん:2017/12/13(水) 21:01:26
>>72
夫さん

本題に入ったところで、権利とはどんな理由で与えられるのか? という私の『支持している』考えを>>7の『相手の権利を認めるための条件』の変形
(1)’ヒトがヒトの権利を認めないと何かの点で不利になること
を通して述べていきたいと思います

原始ヒト社会≒自然状態≒万人の万人に対する闘争においてヒトがヒトをヒト扱いしなかったらどうなるか?
と考えたら何故人間に権利が与えられるのか? が分かると思います
ヒト扱いされなかったヒトは報復に走ります
確かに生物的にヒトに近いサル目等のような報復を行う動物は存在しますし、社会的な動物は無闇に仲間を傷つけません
しかしヒトのみは放火や毒物混入により甚大な二次被害や報復連鎖をもたらしうる報復能力を持っています

(1)’の回答ですが、ヒトがヒトの権利を認めないと、上記の報復能力によりヒト社会崩壊という不利益を招きます
これは明確な禁止事項です
『ヒトがヒトの権利を認めない』ことを禁止しなければならない。つまり『ヒトはヒトの権利を認めなければならない』のです

故にヒト特有の過大な報復可能性が最小になるところに規制や禁止事項(ヒト個体に対してはほぼ不可侵な基本的人権というルール)が定められるようになり、
報復連鎖によるヒト社会崩壊可能性をゼロにする為に、国=リヴァイアサンはルールに違反したヒトに適切な刑罰を下し、報復合戦の拡大を防ぐ事が求められる

動物の場合は報復能力がない(あっても極微小。その一個体を殺せば済む)為、ヒト社会崩壊の危険性は存在しない
つまり動物に権利を与える必要がない(与えても与えなくても良い)

つまり道徳起源論や進化倫理学を含めてヒトの類まれな報復能力をメインに据えた社会契約説の亜流です
これを以って「種差別は、しなければならない、せざるを得ない」と断じています
(そう断じた上で動物がヒトに利用されない権利を得るに必要なのが、最初に論じた供給量≧必要量のエビデンスです)

限界事例はどうなのか? という応答は長くなるので省略していますが、疑問があればその都度お答えします

74ボット:2017/12/13(水) 21:08:23
(また名前忘れた)
行動生態学によれば、ヒトに近いサル目にも萌芽的な道徳が存在することが示唆されています

これにより、サル目にもヒトに相当する権利を与えよ、と私は言っている訳ではありません
サルにはサルの、ヒトにはヒトの道徳があり、共存可能かもしれないが、道徳の統合は出来ない
ヒトがサルに権利を与えても、サルはヒトの権利を守ってはくれないので、統合は無意味です

参考文献
道徳起源論から進化倫理学へ
ttp://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/evol.ethics.html

75夫 正彦:2017/12/14(木) 02:46:04
ボット様

いろいろ用事がありまして、検討して書き込む時間がないのですが、
2、3簡単にだけ。

歴史的に見て、たとえば奴隷制の解放など、おっしゃる説に該当しないように思える事実もあります。
確かに権利を与えられていないグループによる報復を懸念するという側面もありますが、
同じ人間として(反種差別としてはそこを疑っているのですが)権利が与えられないのはおかしい、
とする正義の観念が原動力になったという側面も大きいと思います。

これについてはいかがでしょうか。

76名無しさん:2017/12/14(木) 20:37:51
>>75
夫さん、お忙しいところありがとうございます

例えば奴隷解放についてですが、当時の価値観、および世情から
>>37のような意味の損得勘定で維持していた奴隷を解放した方が良い結果となる、と為政者が判断した場合に起こる現象だと考えています
当時の価値観ではヒトの報復能力は軽視されていたので、該当すると思えないのも仕方がありません

しかしヒトの報復能力は火と毒を手に入れた時から甚大な被害をもたらしうるものであり、奴隷だしてもヒトとして十分な報復能力は備わっています
例えエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を出さなかったとしても、遅かれ早かれ奴隷はヒトの報復能力を発揮し、
ヒトをヒト扱いしなければヒト社会崩壊という損が起こることに気付かされ、奴隷を解放せざるを得なくなるのではないでしょうか

ヒトをヒト扱いすれば(人種性別セクシャリティに関わらず)ヒト社会に恩恵があるのは遺伝的形質や社会貢献等のメリットがあるのでお分かりかと存じます


>正義の観念が原動力になったという側面
上記の判断を推し進める為のただの錦の御旗、大義名分であり、たまたまそれがヒト社会維持に都合が良かったに過ぎません
逆に正義の観念が暴走した例を挙げるならば『アメリカ合衆国における禁酒法』でしょうか。マフィアの代頭という過ちを犯しました

77夫 正彦:2017/12/15(金) 12:44:07
ボット様

奴隷解放につながった、為政者や思想家たちの残した文書を読めば、正義の観念によって
自らの正しいと思う行動をしたということは明白です。中には、復讐を恐れたりして大勢に雷同
した人もいたかもしれませんが、正義の観念が大衆を動かしたのは間違いないように思えます。

それも実は人間の傾向性が動かしたもので、正義の観念は口実に過ぎないと言えなくもないですが、
そうすると端的に反証ができません。

人間の性質や傾向性を根拠に道徳を組み立てるのもありだとは思うのですが、だからって、
そうしない道徳理論を間違いだとまでは言えなないのではないでしょうか。
人間の傾向性をまったく無視することは、その道徳の実践において失敗する可能性が強い。
とはいえ、傾向性を絶対的なものと考えないならば、傾向性にとらわれる必要はない。

78ボット:2017/12/15(金) 21:04:33
>>77
夫さん

正義の観念が大義名分だ、とするのは確かに言い過ぎました。ただの私の所感とお考え下さい

正義の観念=先験的な道徳理論が必ずしも間違いだとも言っておりません
正義の観念が人間の習性や体質から出来なかったことを出来るように科学進歩、あるいは利益誘導を促すことも否定しません
ただ、正義の観念が導き出した理論が人間に運用できるかどうかは別の話です

この説が応用している倫理進化学が進化論と同じようにアブダクションという論理的推論によって導かれていますので、反証可能性については弱点と言えるでしょう

>とはいえ、傾向性を絶対的なものと考えないならば、傾向性にとらわれる必要はない。
これはトートロジーが過ぎるのではないでしょうか
確かに絶対的なものと考える・考えないは傾向性が与える影響を勘案した個人の価値観に左右されるでしょう
しかしいくら個人がヒトの傾向性を軽視しようとも『ヒトは丁寧に扱わなかったら連鎖爆発するかもしれない、周囲に甚大な被害をもたらす恐れのある爆弾のような存在』なのは古今東西変わりがあません
ヒトの傾向性という一歩間違えたらリスクの高い存在は、少なくとも他の種族よりも重要なものと考えざるを得ない、が正しいです

79夫 正彦:2017/12/16(土) 11:17:25
ボット様

私は傾向性という言葉に本能的なものとか、習慣とかをひっくるめて表していますが、そういったものである以上、
ないがしろにすれば重大な結果を招くような傾向性もあるし、簡単に変えられる傾向性もあると思います。
それは、道徳に関していえば、ある道徳が浸透する過程の中で変更のできる傾向性は、そのように変更され、どうしても
無理なものは道徳が浸透しない。結局はいろいろやっているうちに適切なものになるだろう、と考えています。

例えば、反出生主義はどうでしょうか。どうも理論先行で、多くの人の道徳的直観に反するように思えます。
貧しくなると人間は子供をたくさん産むという傾向性がありますが、もし絶滅に至る過程で人間が少なくなり、それに
したがって貧しくなれば子供をたくさん産んでしまうのではないでしょうか。

80ボット:2017/12/16(土) 18:10:26
>>79
夫さん

人間に運用できないルールはいずれ淘汰される。少なくともメインストリームにはならない
正に進化倫理学です

そして進化倫理学において倫理や道徳といった掟ミームはヒト集団を維持する為に有効的なルールとして発達したものであるとする以上、
反出生主義は倫理的ではなく、個人的な域をでないものと私は考えています
現実的に出生に対する倫理はリプロダクティブ・ヘルス/ライツが妥当なのではないのでしょうか

上記の掟ミームの手段に過ぎない『(ヒトに)苦痛を与えてはいけない』を目的化した『痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計』による線引き=有感主義というミームも倫理的ではなく、個人的な域をでないものと私は考えています

81ボット:2017/12/16(土) 18:20:56
一番下の文章を修正します

上記の掟ミームの手段に過ぎない『(ヒトに)苦痛を与えてはいけない』を目的化した『痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計』による線引き=有感主義というミームは非倫理的であると私は考えています
ただ、菜食主義は個人的な域を出ません

82夫 正彦:2017/12/19(火) 15:06:54
ボット様

>>80>>81のボット様の主張をじっくり考えているところでして、なかなか自分の意見がまとまりません。

反出生主義は、人間に運用できないルールを提示しているのか、そういうことに何らかの意味があるのか。
ごく少数の人しかそのルールに沿うことができないとわかっているルールの論理的根拠を洗練させること
にどういう意味があるのか。

また、人間に適用できないルールはいずれ淘汰される、は、淘汰されたルールは人間に適用できないものだ
と、トートロジーのようにも思えます。しかし、反出生主義が人間の性質とは相いれないように思えるのも
それが将来人類みんなに広まってみんなが実践するというイメージを描けないのも確かです。

とはいえ、厳密に「人間に適用できないようなルール」であるかどうかの判断が、「いずれ淘汰される」
で決まるなら、結局はやってみないとわからない、と言うことになりそうに思えます。

人間の本性に反していても、絶対に失敗すると言えるのかどうか。

そのうえで、ビーガニズムも同じように人間の性質に反しているので、菜食主義と同じように、単なる
個人の生き方としてのみ存在意義があるのか。

すいません、意見がまとまっていなくて。

83ボット:2017/12/19(火) 21:24:07
>>82
夫さん

進化論の自然淘汰(選択)がトートロジーというのは犯しやすい間違いです(私もこの辺り混乱していました)
『ある種のルールが人間というふるい(フィルター)に掛けられて広がるものと広がらないものに分けられる』
そしてそういう状況が成立することこそが自然淘汰である
(たまたまヒト集団維持に有用で、普遍的に広がったルールを倫理と呼んだ)
そして今まで私が主張してきたのは
『このルールは人間というフィルターにかけると広まらない条件を明確に満たす。だから普遍化は無理だ』
だと基本的には思います

完全菜食主義は個人的価値観の問題であり、完全菜食不可能体質者の存在が不明だから、普遍化可能性も不明
有感主義は個人的価値観の問題であり、時に人間より動物を優先させる場合があって報復連鎖が起こりうるしで普遍化不可
反出生主義は個人的価値観の問題で普遍化不可
というのが私の考えです
私はヴィーガニズムの普遍化可能性を否定している内に反出生主義の普遍化可能性も否定してしまった口でして


ルール普遍化は結局はやってみないとわからない、結果論でしか語り得ないのはそうなんですが、わざわざ見えてる地雷を踏みに行って大勢の人が死ぬ恐れがあるのを見ると『慎重になれ』『考え直せ』『やめろ』とは言いたくもなります
それを見逃したら私(の親族友人集団)が被害を被るかもしれないし、被った人間のやり場のない怒りが報復連鎖となって巡り巡って私(の親族友人集団)へ向くかもしれないので


およそ人間に運用出来なさそうな主義に意味はあるのか? という問にはある、と答えます
遺伝子多様性が環境という脅威に対して耐性を持つように、模倣子(ミーム)多様性も重要だと考えられます
ミームは遺伝子と異なり記録・観察が可能であり、消去しにくい情報ですので、残しておけば何かしら必要になってくる場面があるかもしれません(完全でなくとも、部分の理論を応用する等で利用可能でしょう)

個人がその主義を掲げることに意味はあるのかどうかは、個人的な問題です
優越感に浸りたいだけ、というのでもまあ良いんじゃないでしょうか。批判されるのを承知であれば

84横山:2017/12/24(日) 17:26:22
結局、鶏と目を合わせて旨そうだと思うなら食えば良いし、助けねばと思うなら助ければ良い、ということなのではないか。
そこに、どちらの倫理が優位であるかの根源的根拠などなく、単にそーなんだから仕方ないという事実がそれぞれにあるだけということなのではないか。

過去の奴隷解放や現在のLGBT や#MeTo で実際にこれまで認められてなかった権利が認められるようになってきているのだから、人はそれぞれの想像力を発展させることによって、他者の権利を拡大させることができると思うし、実際に、アニマルライツを尊重すべきだと考える勢力が増えつつあることも事実だと思う。

奴隷解放では個々の人々の想像力が拡大したことによって、「虐げられて当然」よりも「虐げられるべきでない」という倫理観を持つ人が増え、それが社会的に優勢になった結果、パワーバランスが臨界越えて、一気に状況が反転したものだと言えるだろう。だがそれは、バランスが臨界点を越えたというだけのことであって、「虐げられて当然」派と「虐げられるべきでない」派の両者は依然として連続的に存在し続けているのだ。それは「虐げられて当然」が否定されたことへの根拠が絶対的になったためではないのじゃないか。
アニマルライツに関しても、近い将来、アニマルライツ擁護勢力の拡大が臨界を越えて社会のマジョリティになるかもしれない。しかし、それでも、それぞれ個々の人間の倫理は「だってそーなんだもん」とでも言わざるを得ないような感覚に支えられているものであって、それ以上の絶対的で根源的な根拠なんてものはないのじゃないだろうか。

奴隷の目を見ても「虐げられて当然」と思うような差別的性癖がある人にとっては、奴隷制は別に非難されるよう制度ではない。それは、その人が後から、その差別を排除する良さに気づいて考え直されるものになるかもしれないし、社会から責められるから差別してない風を装うべきものと言うようになるかもしれない。しかし、仮にそのように翻ったとしてもそれ以前の彼にとっては、「虐げられて当然」なのは事実として「そう」なのであって、それ以上の根拠などない、それ自体が根源的な事実としての倫理なのだ。もちろん、その倫理観は、反差別派からすると圧倒的に間違っている。しかし、その反差別派の倫理観は「彼にとって」は何の根拠にもならない。反差別派が「差別は否定なれなければならない」という原理を声高に叫んでもなんにもならない。反差別派にできることは、社会的圧力や非社会的な圧力で強制的に差別をしないようにさせるか、反差別的な社会を作ることがどれだけ人々の幸せに繋がるかなどということを訴え、彼の想像力に働きかけるかしかないのではないか。

そういう意味で、奴隷の目を見て「虐げられて当然」と感じる人は奴隷制を容認し、「虐げられるべきでない」と感じる人は否定する。その事実と、それぞれの人に個々の「すべき」があるだけだと言えるのではないだろうか。

そして、そのように倫理を捉えるとすると、さらに重要なこととして、奴隷解放が行われたことがアニマルライツが尊重されるべきことの根拠にはならないのではないか、と疑われる。「それはそれこれはこれ」なのでじゃないだろうか。

それぞれの人の「すべき」は、その社会的なパワーバランスや非社会的なパワーバランスの中での状況と、自分の想像力によって枠組みされるが、その根源的な根拠となるのはそれぞれの「だってそーなんだもん」という感覚に拠る他ない。

そうだとすれば、奴隷解放が現代の常識的感覚からして正しかったということは、アニマルライツが擁護されるべきということの根拠には何もならないのかも知れない。それぞれの人々が感じる「だってそーなんだもん」は、やはりそれぞれでしかないのだから。

85横山:2017/12/24(日) 17:30:02
つづき、

だから、
アニマルライツ派の人は、社会的な圧力や非社会的な圧力をかけて、人々に強制的にアニマルライツを守らせていこうとすることもできるだろうし、人々の想像力と心情に訴えかけてアニマルライツを擁護することがどれだけ皆の幸せに繋がるかを伝えようとすることもできるだろう。しかし、それしかできないのではないか。

一方、非アニマルライツ派の人は、その強制に反対して戦うこともできるだろうし、逆にアニマルライツを保護することの良さに気づいて立場を翻らせることもできるだろう。もしかすると、ビーガンになることを嫌がりながらそれを強制されることに積極的に従う、なんてこともできるかもしれない。
しかし、もしそうだとしても、自己自身の倫理として自分がどうすべきかということは、単純に、鶏の目を見て「旨そう」と思うなら食おうとして良いし、「助けねば」と思うなら助けようとすれば良い、というその事は変わることがなく、最も根源的な倫理として保持され続けるのではないだろうか。

今回の思索で僕が考えたのは、それぞれの人は自分の信じる正義を相手に押し付けることもできるし、そうしても良いのだけど、個個人の倫理の根拠は個個人の「だってそーなんだもん」に委ねられるしかなく、それはそれで尊重されざるを得ない側面が常にある、っていう、結局、至極当たり前のことでしかないのだけど。

どうだろうか。

86ウラサキ:2017/12/24(日) 20:41:13
コーブ『菜食への疑問に答える13章』を飛ばし読みしました。
著者がヴィーガンになった理由は、つまるところ「動物が可哀想だから」、という事のようです。

結局その前提を共有できないと布教は無理な気がします。

87イイダ:2017/12/24(日) 21:14:39
僕は倫理に関して完全なパワーゲームだとまで割り切って考えられない人間ではありま
すが、横山さんがあげた視点について別の角度からも考えてみたいなーと思います。
と思いながらも書いている中で重複してしまうかもしれません。
横山さんがあげられた各個人が自分のなかで勝手にでっち上げた倫理をそれぞれに
主張していくというのは非常に魅力的に感じました。
ですが、それは直接的にはアニマルライツと関係ないかもしれません。
それに作り上げた倫理が各々であるという考え方はアニマルライツ賛成派からすれば、
相対主義と区別のつかないものに受け取られる可能性もあります。

ですが、ここで敢えて言いたいのは、人間が外面を気にするあまり
内心と外面が折り合わない場合に起こす矛盾についてです。もっと云えば、
嘘を申告する可能性です。これはよくネタだと思われがちなのですが、
甘く見てはいけないと思います。特に最近そう強く思います。
ビーガンの主張に表向き賛同していても、実際には裏で肉や魚を食べる。
シーシェパードのポール・ワトソンもその太った体型から一時期菜食主義を公言しつつも、
隠れて肉を食べているのではないか、という疑惑が持たれたと記憶しています(今は知り
ませんが)。ビーガンが多数派になれば、やがて隠れて食べている人はいないのか、
と疑心暗鬼になるのではないでしょうか。それでなくてもビーガンコミュニティに
一度入った人がビーガンをやめたくても抜けようとすれば酷い苛めに遭うんじゃないかと、
そういうケースも出てくるかもしれません。
話は変わりますが、年齢が小さいときに虫などを殺して遊んだ経験がある人は多いのでは
と思います。僕の周りではそうでした。ですが、それを普通の人は隠そうとします。
何故か。それは動物虐待の後ろめたい気持ちから(アニマルライツ派はそれを望ん
でいるのでしょう、きっと)かもしれませんが、面倒臭いという俗物的な理由から
隠して昆虫など享楽で殺したことはないと嘘をついているかもしれないのです。
見たところ(少なくとも外形的には)この二つは見分けは付きません。
更に云えば、人権についてもそうです(僕にはこちらの方が根が深いと思うのですが)。
人種差別やLGBT差別はいけないことだとそれはほぼ世界の常識になっています。
誰もそれが違うなどと(凡そ特殊なサークルなどでないと)公言はしないでしょう。
ですが、どう思っているかなどは別問題だということです。
僕は人権は尊重されるべきという立場の人間ですし、非常に恐ろしいし想像もしたく
ありませんが、実際にはそう思っていなくて「LGBTは本当にいけないことだよね。」
と言っている人が結構いてるのではないか、と最近思えてきました。
どんなに普遍的な倫理観であることを強調しても、届いていない可能性がある。
それならば、普遍的であるという考え方のほうが間違いで、
個人の倫理として(勝手なものも含まれてくるが)各々にあると考えたほうが
しっくりくるのではと。
説得する必要があるのは、まさにそういう意味からであり、
嘘をつかなくてもいいほどそれをよしと思える程度に説得できるかにかかっているとも。
ですが、結局個人的問題という部分は必ず残るとも云えます。
語法的に難しいですが、強制されて渋々従うようなケースを倫理的な普遍化を目指す
立場ではあまり考慮に入れていないような気もします。
ですので、思い込みかもしれないですが、自分が勝手にでっち上げた倫理観を押し通す
というのは考え方として非常に面白いと思いました。他人に自分の倫理観を
強制(OR半強制)したい人がいることも事実ですが、
そのほうがいいとは思えないというのは変わっていません。
一言でまとめると人権というのも実は文化的に深く根付いたものではなくて、結構脆弱な
基盤の上に成り立っており、かなり危ういものなのではないかと
そのような感想を持った次第です。
きっと多くの人には悲観的個人主義だと笑われるのでしょうね。

88イイダ:2017/12/24(日) 21:22:40
ちょっと抜けてしまいました。「LGBTは本当にいけないことだよね。」
→「LGBT差別は本当にいけないことだよね。」に訂正します。

89横山:2017/12/24(日) 21:53:13
僕の考えている倫理は、相対主義的ですが相対主義ではないと思います。
それはとどのつまり、「だってそーなんだもん」というある意味宗教的で無根拠な原理を下敷きにせざるを得ないものじゃないか、というものです。ですから、その点で、相対主義的とも言えるのです。
しかし一方、それは、その成立からしてそれ自体が原理になってしまうものなので、他者と同列に並べ置かれるものにはなり得ないのです。それゆえ自分の正義を他者に押し付けることさえ可能になってしまうように思えるのです。その点で、相対主義とは別のものだと考えています。
押し付けることも可能なのだけど、パワーバランスと想像力による計算のために押し付けないでいる場合もあるし、押し付けてしまう場合もあるということだと、僕には、そんな風に思えてならないのです。

90夫 正彦:2017/12/25(月) 15:36:00
ボット様

結局、普遍化可能性のない道徳基準は、ライフスタイルとしてしか存在しえない、とおっしゃっているように感じました。
なかなか魅力的な主張だと思うのですが、そもそも反出生主義は人類の絶滅を目指しているわけですから、そもそも、ボット様がおっしゃるような
普遍化可能性を道徳の規準にしているわけではなく、土台が違うので議論が成り立たないのではないかと思えます。
しかも、人間の本性や傾向性に反しているからと言って広まらないとも限らない。さらに自己犠牲的な死への本能みたいなものがあって、それを刺激して
広まってしまうかもしれない。つまり、普遍化可能性のない道徳基準を、それは道徳基準たりえない、として排除できるほどの強い主張には
なっていないんじゃないかと思えます。

もしボット様が
>ルール普遍化は結局はやってみないとわからない、結果論でしか語り得ないのはそうなんですが、わざわざ見えてる地雷を踏みに行って大勢の人が死ぬ恐れがあるのを見ると『慎重になれ』『考え直せ』『やめろ』とは言いたくもなります
>それを見逃したら私(の親族友人集団)が被害を被るかもしれないし、被った人間のやり場のない怒りが報復連鎖となって巡り巡って私(の親族友人集団)へ向くかもしれないので
という考えを持っているのに、自己満足ゆえに反出生主義を主張して、その考えに影響を受けた人が反出生主義を実践しだしたら、
それは道徳的に非難されるようなことをしていることになりませんか(ボット様がそのような考えで反出生主義を主張しているとは思いませんが)。

ただ、独身主義のようなライフスタイルは、広めようと思っても限界があるでしょうし、広めようとする動き(独身の方が自由で楽しいなど)
を責めようとは思いませんが、反出生主義は違うような気がする。それを主張するには、その結果を考慮して、それを望みつつ主張しないと
その主張をまじめに取り上げる人にとって裏切っているように思えます。

91夫 正彦:2017/12/25(月) 15:48:28
横山さん

道徳が個々の人の「だってそうなんだもの」に支えられているのは、確かにそうだと思います。
アニマルライツのような新しい道徳基準は、まだ多くの人の「だってそうなんだもの」に支えられていませんが、議論を深めて、
広めていくことで、多くの人の「だってそうなんだもの」になるようにしようとする運動であるといえるでしょう。

とはいえ、すべての人の「だってそうなんだもの」になることはなく、またその必要もなく、世の主流の考えになれば、
納得はしてないけど、反対するのもめんどうだから、という人がいてもそれでもいいわけです。

問題は「だってそうなんだもの」になるようにするには、どうすればいいのか。または、どういうものが、「だってそうなんだもの」
になるのか。そういうところですね。つまり、決して個人に固定されて絶対的なものではなく、時代や風潮に流されやすいものと思えます。

92夫 正彦:2017/12/25(月) 16:33:01
>イイダさん

細かいところが、私の感覚と大きく異なるのですよ。
だから、反論ではなく、イイダさんとは異なった印象と言うことで、2、3書きます。

>シーシェパードのポール・ワトソンもその太った体型から一時期菜食主義を公言しつつも、
>隠れて肉を食べているのではないか、という疑惑が持たれたと記憶しています(今は知り
>ませんが)。
これは反論になるかもしれませんが、菜食主義は痩せるとは限りません。断言できます。
もし太った体型だけからそういう疑惑がもたれたなら、それは根拠としては弱い。


>ビーガンが多数派になれば、やがて隠れて食べている人はいないのか、
>と疑心暗鬼になるのではないでしょうか。それでなくてもビーガンコミュニティに
>一度入った人がビーガンをやめたくても抜けようとすれば酷い苛めに遭うんじゃないかと、
>そういうケースも出てくるかもしれません。
推測に推測を重ねてませんか。いつの間にか非常にありうる事実のように思えてしまいます。
民主主義と自由主義の社会が継続するなら、こういうことは起こらないでしょう。
ビーガニズムが民主主義と自由主義を破壊する傾向を持つことを立証すれば別ですが。

>話は変わりますが、年齢が小さいときに虫などを殺して遊んだ経験がある人は多いのでは
>と思います。僕の周りではそうでした。ですが、それを普通の人は隠そうとします。
これ、理解できません。小さい時に虫を殺して遊んだのを隠します?小さい時のことなんだから
別にいいじゃん。というかそもそも、そんなこと話す機会あまりないし。まぁ、大人になって
虫を殺す(蚊やゴキブリ以外の)趣味を持っていたら隠すかもしれません。

後半の部分は、横山さんとの議論のところにも書いたことに関連しますが、一つの理想的な
道徳基準があったとして、それが社会に広まるに際して、それに納得できない人がいたとしても、
広まらないより広まった方がいい道徳基準はある、と思います。というか、多くの道徳基準は
納得できない人が一定数います。そういう人は、表面上しぶしぶ従っているかもしれないし、
それに反対する主張をせずに嘘をついて迎合しているかもしれない。しかし、それでも、広まった
方がいい道徳基準はあると思います。

93夫 正彦:2017/12/25(月) 16:40:07
>ウラサキさん

最初は動物がかわいそうと思う気持ちから出てくるものでもいいんですよ。
ただ、動物の権利論者やビーガンが対象となる動物をすべてかわいいと思っていると考えるのはナンセンスです。
中には昆虫嫌いの人もいるでしょうし、犬嫌いの人もいるでしょう。
ある特定の動物を好きであったかもしれませんが、そこから始まった彼らも生きる権利がある、という感覚は、
特に好きでもない動物へも拡張されます。これは、特定の動物好きという感覚から離れて、正義の観念に近いと思います。

ただ、すべての動物が好きではない人はどうするか。そういう人には、動物の権利論を納得してもらえるのは
無理かもしれません。

94ウラサキ:2017/12/25(月) 21:33:44
夫さん、

私には、
「特に好きでもない動物へも拡張されます。これは、特定の動物好きという感覚から離れて、正義の観念に近いと思います。」
は論理学で言う「不当周延の誤謬」を犯しているように思います。
特定の要素(真部分集合)に当てはまる事を、集合全体に当てはまるとみなす誤謬です。
例:「多くの動物は四本足である。∴すべての動物は四本足である。」
ピーター・シンガーは動物を意識の有無で区別しているようですね。

「犬や猫を可愛がりながら、ゴキブリや蚊を殺す事」を不正義と言えるでしょうか?

95イイダ:2017/12/25(月) 22:18:50
仮に自分が特定の哺乳類や爬虫類を愛好しているとしても、虫までも殺さないところまで
広げていくのには感覚的にどうも無理があるような気がしますね。
ネットで情報発信している人で菜食主義を自称している人は国内、海外問わず結構います
し、その中で主に動物愛護からベジ→ヴィーガンと移行していった人たちもいますが、
僕の見た限りでは虫も殺さないと言っていたように思います。
特定の動物に対する愛情だけで、そこまで持っていって行動を制御するというのは
現実的にかなり難しい気がしますがねえ。語られていない何かがあるのかもしれませんが、
あるのならそこを知りたいという風に思います。

96ボット:2017/12/25(月) 23:25:21
>>92
夫さん

>>ビーガンが多数派になれば、やがて隠れて食べている人はいないのか、
>>と疑心暗鬼になるのではないでしょうか。それでなくてもビーガンコミュニティに
>>一度入った人がビーガンをやめたくても抜けようとすれば酷い苛めに遭うんじゃないかと、
>>そういうケースも出てくるかもしれません。
>推測に推測を重ねてませんか。いつの間にか非常にありうる事実のように思えてしまいます。
>民主主義と自由主義の社会が継続するなら、こういうことは起こらないでしょう。

少数派の現在でも、ニュースになる程度の信憑性で起きています

肉も魚も卵も食べない「ヴィーガン」生活を続けて1年…23歳の女性が経験した”命の危機”
ttp://courrier.jp/news/archives/5373/
ここでは殺害予告受けたとあります

暴かれた、ベジタリアンの虚勢「菜食主義者の約4割が肉を食べてる」=英
ttps://news.biglobe.ne.jp/trend/1015/toc_151015_4104973021.html

取り急ぎ、これだけはお伝え致します

97夫 正彦:2017/12/26(火) 14:45:57
ウラサキさん

論理の事を言っているのではなくて、感情の動きを言っているのです。
その感情の動きが論理によって修正され一つの主張が成立するのを正義によるものではないかと考えているのです。

つまり、
①ある動物が好きで虐待されているのがかわいそう。
②この感覚は普遍的な何かを示唆しているのだろうか。普遍化すべきだろうか。
③虐待されている動物を助けるために、助けるべき動物の基準を決める。
④その基準に従って行動する。つまり、好きでない動物にも配慮が拡張される。

98夫 正彦:2017/12/26(火) 14:56:43
イイダさん

その気持ちはわかります。私も虫はやりすぎだと思いました。
基準を”痛み”に置いたとしても、虫は実はグレーゾーンで、痛みを感じていると想定する研究もあるし感じていないと想定する研究もあるようです。
しかしもし痛みを感じていたとすると取り返しがつかないので、殺さないようにする人が多いようです。
よく考えると、虫を殺さなくても、寄り付かないようにするだけで人は満足するのでやろうと思えばできます。
ただ、そうでない局面もあり(蜂が巣を作って危ないとか)なかなか悩ましい問題です。
さらに、もし将来植物や微生物に”痛み”の感覚があると証明されたら、どうなるでしょうか。
これは現在のような基準でビーガンを実践していると、生きていけなくなるかもしれません。

私の考えとしては、もともとビーガンの実践はどの時代ででもどの場所ででもできるようなものではないし、社会制度や科学技術の発展に伴って、
ビーガニズムの条件も変わっていくものだと思っています。まぁ、言ってみればそうなってから考えればいいかな、と。

99夫 正彦:2017/12/26(火) 15:12:41
ボット様

イイダさんの書いてらっしゃっているのは、ビーガンが多数派になった未来にビーガン警察みたいなのが出てきて、
ディストピア社会みたいのが出来するんじゃないか、という懸念だと思いました。
どの思想にも原理主義や過激主義がいるもので、もちろんビーガンにいるでしょう。その人たちが多くの人を
支配しようとする未来は、民主主義や自由主義がなくならなければそういうことはないだろう、という主旨です。

肉を4割の人が食べたことがある、というのは、ベジタリアンと主張することの一種カッコよさ、みたいな
風潮があるためでしょうか。いやけど、ちょっとこの記事悪意があって、よく読めば、ベジタリアンの
4割が隠れて肉をずっと食べ続けているとは書いてなくて、単に食べたことがあって、それを隠していた
というだけじゃないですか。知らずに食べてしまうこともあるし(外食すればその危険は常にあります)、
めんどくさくなって食べちゃうときもあります。私もよくやります。

『中には、「本当は毎日食ってるんだろ」といった声も。』って文章も、悪意に満ちてますね。

100夫 正彦:2017/12/26(火) 15:20:04
ウラサキさん

追加です。

>「犬や猫を可愛がりながら、ゴキブリや蚊を殺す事」を不正義と言えるでしょうか?

例えば、痛みを感じることのできる動物(生物)は殺さない、と言う道徳基準に
従っていて、ゴキブリや蚊が痛みを感じることができるのであれば(この辺りは議論があります)
ゴキブリや蚊を殺すことは正義の感覚に反します。

まぁ、主義と行動が一貫していない、と批判はされるでしょう。

101夫 正彦:2017/12/26(火) 15:21:51
久々に一つの議題のスレで100を超えました。

102横山:2017/12/26(火) 17:40:13
動物の権利が検討されるべきだというのは夫さんのお陰でけっこう肯定的に捉えられるようになってきました。

それでも、人とあらゆる動物の権利を同等とするというのは無理があるようにも感じています。

植物には意識が無いから草食はOKと、動物と植物に違いをつけられるのであれば、オランウータンとミミズでは意識レベルの違いがあるでしゃうから、その権利に積極的に差がつけられて良いようにも思います。
そして、もしそういうランク付けが可能であれば、そういうランク付けのなかで、あるラルクより下では人が食べても良いとすることもできるような気がします。

時習館高校のアカムシ解剖実習がアカムシの権利保護のために中止された事例があったそうですが、僕にはこれは行き過ぎだと思えてならないのです。それでも、これはいろいろな課題を提起してくれてるように思います。

まず、実習よりも価値があるとされたアカムシの意識とは如何なる意識なのでしょう。どうすればその有無を断定できるようなものを指して意識と言っているのでしょう。

また、その動物の意識レベルをどう測るのでしょう。
妥当なやり方があるとすれば、神経回路組織の構造と大きさで決めるか、それらしい仕草をするかで決めるか、でしょうか。

さらに、もしそのランク付けができたとして、人間の乳児や胎児あるいはその他の無意識状態の人もそこにいれるのでしょうか。また、意識的な行動ができるAI などの人工物もそこにいれ得るのでしょうか。チャーマーズがサーモスタットにも微小意識があるとしたようにそのランクのどこかに入れることは可能なのでしょうか。

そして、さらにそのランク付けができたとして、それらの意識の価値と、それを人が食べたり解剖したりしても良いかどうかを比較することはできるのでしょうか。できるとすればどうやってするのでしゃうか。

もしかすると、高校でアカムシの解剖一つをしたりしなかったりするのにも、そこまで掘り下げた問いが問われる必要なあるのじゃないかと言う気がします。

時習館でも、そこまで話し合ったとしても両者が納得する解決策は見つからなかったでしょうが、そういう話まで突っ込んで話をしてたなら、どこまで妥協して話し合いを終えたのかという点では理解は深められたと思います。

しかし、これでは議論が広がりすぎますよねぇ。それでも、相反する価値がぶつかり合うところで価値を問うには、価値の根拠をさらに深めて問う他ないような気がして、恐縮しつつコメントします。


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