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2018/01/07「アニマル・ライツ」

2はじ銀:2017/11/07(火) 21:09:41
FBにて告知しました。

3夫 正彦:2017/11/18(土) 17:33:59
参考図書:
「菜食への疑問に答える13章」シェリー・F. コーブ著
ttps://www.amazon.co.jp/dp/479481058X/
この本見た目は、健康食品おすすめ系の本に見えますが、がちがちの論理で責めてくる超おすすめの本です。

「動物の解放」ピーター・シンガー著
ttps://www.amazon.co.jp/dp/4409030787/

「動物からの倫理学入門」伊勢田哲治著
ttps://www.amazon.co.jp/dp/4815805997/

4かわべ:2017/11/19(日) 20:05:54
動物の解放は有名ですね
動物の権利の問題は、動物に意識があるかという問題が不可欠と思われます

5夫 正彦:2017/11/20(月) 14:19:29
議論の前提として、「種差別」についてちょっと語っておきたいと思います。

動物の権利を考えるとまず、たいていの人は、別に「種差別」でもいいやん、と思ってしまうからです。
(私も最初はそう思いました)
人間は自らの種を第一と考えて、それ以外の動物は人間に搾取されて構わないという考えが浸透しています。
道徳的には、動物をいじめてはいけない、ということも言われますが、実際は、畜産や狩りなどで動物を事実上虐待したり、
殺してもとがめられることはありません。

これは権利等で配慮すべき対象を人間と、それ以外のものとで線を引いているからです。
その線を引くものが人間である以上、当然ではないか、と多くの人は考えています。

種差別批判は、この線を人間と動物の間に引くことの根拠が薄いことを問題にします。
人間が一番だから、とか、これまでそうやってきたから、というのは理由としては弱いと考えます。

過去には人間の一部も配慮されなかったり(奴隷制)、配慮を動物まで広げてもそれほどの問題は生じないと考えられる
ことなどから、これまで種でラインを引いていたのを再考しようと働きかけているわけです。

そもそも線を引くのに恣意的なところがあるのは当然ですが、だからと言って根拠をないがしろにしていいわけではない。
では、現に配慮されている人間が、配慮される所以は何でしょうか。
そこで、痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計などを持っているかどうかといういろいろな説が上がっています。

6ウラサキ:2017/11/20(月) 15:47:28
人間と動物の区別のし易さ、ってのは大きいのでは?
たまにオリバー君や雪男みたいな境界例もありますが、
DNA鑑定でもすれば人間かどうかは大抵判断が出来るから、
人権という概念も普及出来たのだと思います。

動物兼といわれても魚や無脊椎動物にまで権利を認めるのは難しいでしょうし、
意識の有無を基準にしようとしても、動物は意思表示が出来ないので、
その判定基準設定が難しかろうと思われます。

結局は観ている人間が感情移入できるかどうかでしょうから、
動物愛護というのも結局は人間の利己的な動機ではないかと思います。
他方、ジャイナ教徒のような虫も殺さないという立場は賛同しないまでも一貫しているとは思います。
しかし彼らは植物や細菌の生命は尊重しないのかという疑問もあります。

7横山:2017/11/20(月) 19:13:55
僕はまた、別の視点の議論が気になります。まとまらないかもしれませんが書いてみます。

(寓話を1つ)見ず知らずの2人の幼児が出会ってケンカしながら玩具を奪い合う経験を重ねるうちに、そこにルールと相手を尊重する意識が生まれ、遊ぶ順番を決めたり一緒に使おうとしたりするようになる。そこに他者尊重が生まれる理由は単にその方が互いにメリットがあることだろう。この場合はメリットが2つ考えられる。1つは単純にその方が争う無駄がなくなるので玩具を使える時間が増えること。もう1つは他者と遊ぶ楽しさを感じ得るということ。
この幼児は長ずるに従って、遊び仲間、学級、地域の集団、文化や宗教を共有する集団、国家、そして人間種を越えて、さらに大きな集団でも、この「自分だけの利益を考えて自分勝手な行動をした方が得か、他者尊重した方が得か」という問いに揺れながら、徐々に「仲間」を増やしていくことだろう。


(一部の不平等があったとしても)相手の某かの権利を認めようとする意識が生まれでるパターンというのは、こんな感じなのじゃないでしょうか?
そうだとしたら、相手の権利を認めるための条件は、
(1)相手の権利を認める方が何かの点で有利になること、
(2)相手の権利を認めること自体に喜びを感じること、
のどちらかがあることと言えるのではないか。
人権などというものも、その方がコミュニティにとって有利であるため、人権を守ること自体に喜びを感じるような教育を為し、コミュニティの成員個々が人権擁護の行動を自らとるようになり、それに利されたコミュニティがさらにその方向性を強めた、だけのものだとも言えるかもしれない。
そうすると当然、動物の権利を認めるための条件は、
(1)動物の権利を認める方が何かの点で有利になること、
(2)動物の権利を認めること自体に喜びを感じること、
のどちらかがあるということになる。

こう考えると、いくつかの疑問が湧く。

人間と他の種との間ばかりに断絶があるとするのではなく、人間同士の連なりも結構危ういものと考えるべきかもしれない。

また、動物の権利を守るべきか否かの線引きを、意識の有無だけで引くべきだ、というのはいささか根拠が薄いのではないか。
たとえば、他にも、
・ルールが共有できるか?
・意志疎通できるか?
・感情共有できるか?
・人間が愛着を感じるか?
・人間に有用か?
・地球環境に有用か?
などの線引きも十分議論の余地のあるものになりそうに思える。そのなかでなぜ意識の有無なのか。

8夫 正彦:2017/11/21(火) 11:37:26
ウラサキさん

確かに区別しやすさ、ってあると思いますね。ただ、区別しやすいからといって、区別していいことにはならない。
男と女も区別しやすいですが、権利に優劣をつけてはだめですし。

動物へ範囲を広げる場合、境界線のあたりで悩むような問題もありますが、区別できなくはありません。
もちろんある程度恣意的であるのは否めませんが、痛みという基準を設けていることで、より合理的ではあります。

意識の有無がわからない、とのことですが、遺伝子の共通性や神経系統の解剖学的所見から、痛みを感じるかどうかや、
意識が存在する可能性も推定できるようです。確実ではありませんが、現在の科学でわかっている範囲の知見を
取り入れています(ということは将来の科学的発見によって大きく理論が変わる可能性もあります)。

動物愛護が、利己的というか、偽善的という風にみられることはあって、結局は人間中心主義なんじゃないか、という批判は
よく聞きます。倫理的にふるまえと要請されるのは人間だけだからです。この辺りは、私もそうかも、と思っています。
アンチナタリズム(反出生主義)に与すればこの考えを脱することができるかもしれませんが、そこまでの勇気はありません。

信ぴょう性はあまりありませんが、ジャイナ教の悟りの完成は麻縄で首つり自殺すること、と聞いたことがあります。

動物の権利とか、ビーガンは原理主義ではないので、できる範囲でという条件が付きます。
ただ、できるのにやらないのはよくない、となりますが。

9夫 正彦:2017/11/21(火) 11:39:11
勉強したてなのに、動物の権利やビーガンについて偉そうに書いてますが、一知半解で間違ったことを堂々と書いているかもしれません。
精通していらっしゃる方は、間違い等ご指摘いただければ幸いです。

10夫 正彦:2017/11/21(火) 11:52:45
横山さん
(1)動物の権利を認める方が何かの点で有利になること
これは、理由をつければいくらでもつけられますよね。
歴史的に人権の範囲を拡大してきましたが、何か有利になるからという観点からの動きではないように思えます。
当然に得られるべきだ、という強い確信が原動力だったのでは。
何か有利になるからというのなら、騒擾が起きないように、とか考えられなくもないですが。

(2)動物の権利を認めること自体に喜びを感じること
動物の権利が認められて、動物が今よりも虐待、殺害、搾取されないようになれば、私は単純に喜びを感じます。
他の人も、実態を知らないだけで、知れば同じように感じるかと思います。

どうして、私たちは誰からも殺されず、虐待されない権利を持っているのか。それは、人間だからだ。
というのが、普通の人が考えていることなんじゃないでしょうか。その人間だからだ、というのが根拠薄弱だと主張しているわけです。

11ウラサキ:2017/11/21(火) 13:48:54
夫さん、

ヴィーガンの方々は魚、卵、牛乳の摂取もされないとの事。
その場合は意識の有無とは無関係ですよね?
動物の利用自体を罪悪視されているのでしょうか?

あと、「人間だからだ、というのが根拠薄弱だ」という主張は、
基本的人権という概念への異議主張という事でしょうか?

12夫 正彦:2017/11/21(火) 14:20:16
ウラサキさん

>動物の利用自体を罪悪視されているのでしょうか?

そんなわけないじゃないですか(笑)。卵、牛乳も動物の虐待に関わっているからです。
大量生産のために乳牛や鶏への虐待が横行しています。また、卵を産めなくなったり、
乳が出なくなったものは食肉にされたり、処分されたりします。
魚も痛みを感じるという実験もあるみたいです。すべての魚がそうかどうかわかりませんが、
避けておいた方がいいという判断をするビーガンが多いみたいです。
あと、昆虫はグレーゾーンです。痛みを感じるという研究もあるし、感じないという研究もあります。
ま、あまり昆虫は食べないので避けておいても問題はあまりないかもしれません。
(ややこしいのは絹とか)

人間だからというのが根拠薄弱というのは、

「どうして権利は人間だけに与えられているの?」「人間だからだ」
という問いと答えに還元されて、これでは根拠になっていない、ということを言っています。

13夫 正彦:2017/11/21(火) 14:21:43
ついでにこんなんみっけました。

「魚は傷みを感じるか?」
ttps://www.hokudai.ac.jp/fsc/usujiri/1206gekkan/1206bookreview/1206bookreview.html

14ウラサキ:2017/11/21(火) 14:44:55
夫さん、

北海道の渡辺牧場というところで乳搾り体験をして搾りたての美味しい牛乳を飲んで来ましたが、
どこが虐待なのかよく分かりませんでした。

海老、蟹、ウニや貝類もヴィーガンにはダメなのでしょうか?
海苔やワカメはOKなのですね?

又、ヴィーガンの方々はネズミやシロアリの駆除にも反対されるのでしょうか?

15ウラサキ:2017/11/21(火) 14:54:09
基本的人権ってのは、「全ての人間には生まれながらにして固有の権利がある」という考えかと思いますが、
この「固有の」って形容詞に異議を唱えようという事でしょうか?

日本ではどうも徳川綱吉の「生類憐みの令」のイメージが強いような気がします。

16夫 正彦:2017/11/21(火) 16:37:23
鶏でも広い場所で放し飼いにしているとか、食肉用の家畜でも狭い場所に閉じ込めるのではなく、
放し飼いにしているとか、乳牛もストレスのない育て方をしているとか、との考えをもって、
そうでない畜産と区別して肉や卵、牛乳を選んでいる人もいます。それはそれでいいかなとも思います。

ただ、私たちが安く買うことのできる牛乳や鶏卵、食肉は、かなり過酷な環境で育てられている
ことは事実としてあります。

また、上記の環境の良いところで育てられている家畜にとっても、例えば卵を産めなくなったり
牛乳が出なくなったら処分されたり、雄は不要なので食肉に売られたりしています。
(そうしないとコストがかかりすぎるためです)
乳牛って妊娠しないと乳が出ないので、絶えず妊娠させられ、子供が生まれてもすぐに引き離されます。
牛にも親子の愛情はもちろんあります。

ネズミやシロアリの駆除は認めます。直接的な害をもたらすので。けれども、できればやらない方がいい。
殺さずに済む代替案があれば、その方がいいというのはあります。
また、野菜等の栽培に関する害虫駆除も認めますし、人間に危害をもたらそうとしている動物を
殺すのは構いません。しかし、殺さずに生かすという代替案があればその方がいい。

この辺りは人によっていろいろ考えがあるので、あくまで私の考えですが。

17夫 正彦:2017/11/21(火) 16:43:43
>この「固有の」って形容詞に異議を唱えようという事でしょうか?

単純に「すべての人間には」っていうところを広げようとしているだけだと思います。
限界事例(乳児やら植物人間とか)をどうするかという問題が出てくるので、確かに「人間」という区分を
取っ払ってしまうと、すべての人権が人間に与えられるのか、という問題を再考しないといけないかもしれません。

しかし、現在でもどこからが人間か(つまり堕胎はいつまでできるか)という問題もありますし。

18ウラサキ:2017/11/21(火) 19:56:04
>鶏でも広い場所で放し飼いにしているとか、食肉用の家畜でも狭い場所に閉じ込めるのではなく、
放し飼いにしているとか、乳牛もストレスのない育て方をしているとか、との考えをもって、
そうでない畜産と区別して肉や卵、牛乳を選んでいる人もいます。それはそれでいいかなとも思います。

地鶏や放牧牛は食べても良いのですね?
となると、養殖でない天然魚介類もOKなのでは?

堕胎に関しては、日本のように出産前は母親の自由意志、
出産後は殺人罪ってのがクリアで良いかと思います。

19夫 正彦:2017/11/21(火) 20:46:21
ウラサキさん

間違えました。放牧の牛や放し飼いの鶏は乳とか卵の話でした。食肉はダメです。
食肉もいい場合があって、それは自然死の場合です。

もう一つ勘違い。堕胎はいつまでできるか、というのも日本では母体保護の観点で説明できますね。
しかし、母体の中である程度人間としての機能が備わっているのに、生まれるのと生まれないのとで
権利が与えられるか与えられないか決まってしまうのは何か変です。生物学的には連続しているし、
その機能も(出産前後で)あまり変わりません。法律みたいに割り切ることができればいいのですが。

20横山信幸:2017/11/21(火) 23:06:26
>夫さん
>どうして、私たちは誰からも殺されず、虐待されない権利を持っているのか。それは、人間だからだ。
・・・・とするのは根拠薄弱だ

と言われるのは、まさにその通りだと思いますし、僕の上のコメントでもそのように言ってたつもりだったのです。
人間だからだというだけでは根拠薄弱で、人間について考えるにもその根拠を様々な損得勘定をして多面的に考察すべきだと思います。だから、同様に、人間に人権があることだけを根拠に動物に権利があると結論付けることはすべきでなく、もっと根源的な損得勘定をして考える必要があるとおもうんです。そして、そのように考えるなら、単純にその動物に意識があるかないかだけが、権利があるかないかの線引きラインになるかが疑い得るように思うんです。

21横山:2017/11/21(火) 23:11:17
損得勘定で倫理的を測ろうとする立場ですから、個々の人や生物それぞれに個別の倫理的価値があり得るとする立場てす。

22ウラサキ:2017/11/22(水) 02:10:51
居住環境の快適の為にネズミやシロアリを殺すのはOKで、
食肉の快楽の為に牛や豚や魚を殺すのがダメって基準がどうも恣意的な感じがします。

人間以外の生物も他の生物を食べて生きているのだから、
人間も他の生物を犠牲にして生きていく事はごく自然な感じがします。
むしろそれが生命の循環というようなことではないでしょうか?

堕胎に反対するプロライフのキリスト教原理主義者やジャイナ教徒らは、
生命原理主義というドグマに捕らわれているように感じます。

私は以前にも表明した通り、人間の自殺や安楽死も容認する立場ですから、
人間が利用するために動物を殺す事にも別に何の疑問も感じません。

23イイダ:2017/11/22(水) 21:24:08
アニマルライツのことは本当に知らなくて、アニマルライツセンターのホームページ
にも見に行ってきましたし、シャックリング等の屠殺方法の動画も拝見しましたが、
それを見たからといって動物を食べないでおこうとは全く思いませんでした。
最近ではほぼ毎日見ていますが、忌避の気持ちは起こりません。
ウラサキさんと同意見なのが自分でもビックリしてます。
人間という種が他の種を犠牲にして生存していくのはむしろ当たり前であり、
可哀想だから食べないのはやり過ぎなのではないかと思います。
人類を滅ぼしたいと考えているのなら話は別かと思いますが。
早い話がジャイナ教のように宗教ならばまだ理解ができます(共感はしませんが)。
抜け道の多い宗教も多い中あそこまで徹底されているのは凄い。
宗教でないならビーガンにしてもどうぞご自由にとしか思いません、僕は。

余談ですが、TVタックルの過去回の「動物園・水族館が不要か?」の回で、
動物愛護団体の人の意見として
動物園での飼育は動物虐待に当たる(人間の管理下に置かれているから)としつつも、
ペットを飼う自分の行いは肯定するダブル・スタンダードに正直呆れました。
このように基準を結構恣意的に決められる。
それならば動物愛護団体の人が批判する雑食主義者の倫理が絶対的でないというのと同じく、
菜食主義者の倫理も絶対的なものではないと言えるのではないでしょうか。
ビーガンの人でも肉食動物を飼っている人はいますしね。

24横山:2017/11/23(木) 10:03:25
僕がアニマルライツを興味深く思っているのは、議論の際に容認派批判派の両者が共有できる倫理的前提がないかを探って前提を掘り下げていく作業が必要で、その作業の中で人間自体の倫理の根拠が問われることになる、というところがあるからです。
そのような興味の持ち方をしてるので、思い付くままにどんどん論点の間口を広げてしまってるかもしれません。
だから、僕の疑問を全部拾っていては、あまりに論点が広範になりすぎて議論の交通整理が難しくなると思います。
ですので、適当に無視して話を進めてくださいね。

25夫 正彦:2017/11/23(木) 18:17:40
ウラサキさん
無理やり(完全な根拠なく)線を引くという点では、どこで引こうと恣意的です。
人間とその他の動物というラインがあまりに根拠がないので、もう少し根拠のあるラインを設定しようと考えているわけです。
今までお聞きした話だと、分けやすいから、という理由しか上がってないし、動物の認知機能もだんだんわかってきているので
それを踏まえた、もう少し科学的なラインを考えてもいいんじゃないでしょうか。

それと、動物を殺して食べるしか食べなければ生命が維持できない場合、殺して食べてもなんの問題もありません。
これは、おそらくビーガンならだれでもそう思うと思います。発展途上国などで、流通システムが整備されていなかったりして、
動物の肉を食べないと飢え死にしてしまうところは、食べていいのです。

できることなのにしないのは変じゃないか、と問われているわけです。

住環境に関しても、できれば駆除しない方がいいのですが、駆除しないと快適な住環境を維持できなければ、駆除するのもありです。
私の中では一貫しているのですが、どうして理解してもらえないのか。食肉に対する喜びは、それほど重要なものでしょうか。
誰も飢え死にしろ、といっているわけではないのです。

26夫 正彦:2017/11/23(木) 18:26:17
イイダさん

ビーガンの人って動物飼ったらダメなんですか?初耳です。どうしてダメなんですか。

ダブルスタンダードのあきれたとのことですが、それほどあからさまなダブルスタンダードに気づかない人っていますかねぇ。
私それを見ていないんでなんとも言えませんし、そういう例を持ち出してもらっても、変な人なんじゃないですか、としか。
あるいは、もっと理屈があるとか。ひょっとしたら動物園での一部の動物のストレス反応のことを言っているんでしょうか?

どうも動物を飼ったら、虐待だと思ってません?どうして虐待になるんですか?
野生動物を無理やり捕まえればストレスになったり、けがさせたりして苦痛を与えますが、いざ飼って、ストレスのない環境を
整えてあげれば虐待にはならない、と思います(無理やり捕まえても構わない、と言っているのではありません)。

27夫 正彦:2017/11/23(木) 18:40:30
横山さん

人間と動物の間の線引きになんの疑問も感じていらっしゃらない方が多いようなので、
その先に行けるかどうか怪しくなってきました。

納得はできないけど、まぁ、乗ってみるか、と考えてくれればいいのですが。

人間中心主義ですが、ものすごく強力です。私もまだ逃れてません。しかし、どうもこの考えは、
単なる習慣に根差しているように思えます。そして漠然と、それを捨て去るとあらゆる価値観が
瓦解するような。

28夫 正彦:2017/11/23(木) 18:50:37
どうも私の側についてくださる方は予想通りいなさそうです。

完全アウェイで、罵声を浴びる中、プレイしないといけないとは!
ま、とにかく、とんでもない考えではないんだ、ということを皆さんに理解してもらえるかどうかですね。

後半のビーガンについては、皆さんを説得するつもりで発表しますと書きましたが、逆に皆さんが、
新興宗教にはまった人を助けるつもりで、何とかビーガンの魔の手から救ってくれるように説得してもらっても
かまいません。説得に負けたら「今日から肉を食べます」と宣言します(笑)。
(mixiでのマイミクさんならご存知かと思いますが、少し前からなんちゃってビーガンになりました。)

しかし、いろいろ反論受けて本当に勉強になりました。やっぱり議論しないと、自分の主張の弱いところとか、
理解が不足しているところとかわかりませんもの。

あ、議論を打ち切るという意味ではありません。これからもどんどん書き込んでいただいて結構です。

29ウラサキ:2017/11/23(木) 22:02:07
今はマンションの10階に住んでいますので、ありませんが、
子供の頃は平屋に住んでいたので夏場はよく蚊に咬まれました。
そこで夜は電子蚊取りベ〜プを点けて寝ていたのですが、
これって別に命に係わる事でもないし、少し痒いのを我慢すれば済むことですよね?
又、蚊帳という生命に優しい手段もあるかと思われます。
ヴィーガンの方々は蚊の生命尊重の立場からベ〜プの使用を控えるのでしょうか?

あと、人間と動物の区別に関しては、コミュニケーションの不可という大きな基準があるように思います。
人間以外の動物は話せないのでそこに理性を見出し辛いのではないのでしょうか?

因みに私は普段肉はあまり食べませんが、それは嗜好と健康への配慮という利己的な理由に因ります。

なんかアニマルライトって聞くと、
グリーンピースやシーシェパードなどと結びついたカルト的なイメージが強いです。

あとピーター・シンガーみたいな左翼がポスト・マルクスの活動分野として利用してるという印象もあります。

30横山:2017/11/23(木) 22:24:59
人権主義者ABCDがそれぞれ人権を尊重する理由が以下である。
(A)人権そのものが尊重されるべきものであるから。
(B)人は自身を反省する意識があるから。
(C)他者と心の交流をすることが私の幸福だから。
(D)人権が尊重される社会は私にも功利的だから。
このとき、ABCDのどれかがどれかよりも倫理的に優位であるとか、根本的であるとか、本質的であるとか、などということを言うことはできないはずじゃないだろうか。
そして、そうであれば、飢餓極限でも人食しない人とする人のどちらが尊いとか正しいなどと言うことはできないのじゃないか。
で、さらに、そうだとすれば、食べられるモノの苦しみと自らの喜びを天秤にかけて考えられる人と、そんな天秤などあり得ないとする人とのどちらが尊いとか正しいなどということを決定することはできないのじゃないだろうか。

31夫 正彦:2017/11/24(金) 10:01:42
ウラサキさん

蚊についての件は、確かに直観に反しますね。
昆虫が痛みを持つ存在である、という前提からきています。
もちろんこれは科学的にはまだ立証以前の段階で、痛みを持つという研究結果もあれば持たないという研究結果もあるみたいです。
で、もしものことがあるといけないので昆虫を殺すというのを避ける方向になります。
だから、あくまでグレーゾーンです。したがって、哺乳類とか鳥類とかと同じような配慮をしなければならないかは疑問です。
もし痛みの感覚があるとしてもごく原始的なものでしょうし。

昆虫を楽しんで殺したりとか(昆虫食も含む)、別に殺す必要がないのに殺すとか、そういうのを避けるだけでいいのではないでしょうか。
つまり、少々の不快さを改善するために殺すのも構わない。もちろん、人間は蚊に刺されるのが不快なのであって、そもそも蚊が入ってこない
対策をする方がベストでしょう。実際多くの人がそうしてますし。

これはゴキブリにも適用されます。ほとんど実害がないのに嫌われています。けれどもゴキブリがうようよしている家が、殆どの人にとって不快で
あることは言うまでもないことです。


理性の有無は、極限事例(極度の精神障害とか乳幼児等)にも適用されるので、そういった人たちを虐待や殺害しても構わない、というふうになってしまいます。

アニマルライツのイメージですが、新無神論者たち(ドーキンスやサム・ハリス、マイケル・シャーマー等)が評価しています。
ドーキンスはシンガーの編集した論文集「動物の権利」に寄稿しています。

32夫 正彦:2017/11/24(金) 10:15:46
横山さん

倫理学の教科書では、どの倫理基準が選択されるべきかの基準が載っています。
いろいろあるんですが、覚えているのは論理的整合性があるとか、多くの道徳的ジレンマに結論が出せるとか、道徳的直観に反しないとか等々です。

横山さんのは文化相対主義(価値相対主義)になっていますが、人食いの文化をもつグループにその文化をやめさせようと働きかけができないことで道徳的直観に反していると思います。
もっと現実性のある例でいうと、少数民族に対するジェノサイドを続けている国に介入できなくなります(軍事行動だけでなく経済的圧力さえかけられない)。

しかし、この道徳的直観も疑うことができます。道徳的直観の多くは、人それぞれによって違うからです。
食肉用家畜の虐待の映像をみて、心を痛める人もいれば(やめるべきだと思う)、なんとも思わない人もいる(現状維持で構わない)。
とはいうものの、何らかの共通する道徳的直観はこの社会を作るうえで大きな役割を果たしています。
人を殺してはいけない、というのもそうです。

道徳的直観を多くの人と共有できない人も、その道徳的直観の上に成り立っているシステムを黙認している、という現状もある。
動物虐待をなんとも思わない人が、動物愛護法はおかしい、と言うのをあまり聞いたことがありません。

33夫 正彦:2017/11/24(金) 10:46:22
誰でも、自分がペットを飼っているとして、そのペットを自分でない誰かがいじめたり、殺したりしたら怒ります。当たり前ですが。
また、そのペットが事故や病気で死ねば、悲しむでしょう。

しかしこの段階では、そのペットが自分が所有して大切にしている”物”と扱いが変わらないように思えます。
自分の大切にしている”物”を壊されたら腹が立ちますし、勝手に壊れたり無くなったりしてしまえば悲しむでしょう。

とすると、この考えからは、そのペットを所有するなら、そのペットに何をしようが構わない、という結論が出てきます。
これは動物愛護管理法の理念に反するでしょう。ということは多くの人の道徳的直観にも反します。

何を言いたいかと言えば、ペットの扱いについて、上記のように限定すると、多くの人の道徳的直観に反する結果が出てくるということです。

これは道徳的直観と簡単にまとめてみましたが、内実をもっと分析してみる必要があるかもしれません。

単純に、誰かが自分の飼い犬を殴ったりけったりしているのを見るのが不快であるというのが思いつきます。
これは、自分の子供を必要以上にせっかんしている親を見るのに近い。

道徳的直観ではここまでかなぁ。あとは、正義の観念を利用します。動物の倫理における正義の観念は奴隷制の問題を例に挙げると
わかりやすいです。また機会があれば。

34横山:2017/11/24(金) 12:00:02
夫さん、僕の主張は相対主義になるとは限らないと思います。以前どこかで述べましたが、僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。倫理的価値は最終的にはそれぞれが勝手に採った前提に因る他はない(その意味では相対主義とも言える)ものではあるが、自分が勝手にでっち上げた倫理観を押し通すこともできる(この点で相対主義とは異なる)とするものです。
私が正しいと思う倫理は、その底まで探っていくと必ず何らかの恣意性があるものにならざるを得ないので、必ずすべてが論理的に正しいとは言い切れない部分を持つものになる。しかし、それでも自分の信じる正しさを求めて生きることはできるのだから、それを自分勝手な正義だと知りつつ自分勝手な正義を為せば良い、
とするものです。

その立場から言うと、夫さんの回答は、僕の上の批判に対する回答としてまだ未回答な余地が残っているとように思います。

35横山:2017/11/24(金) 12:12:40
結局、僕の主張は以下になります。
アニマルライツ派がそれを論理的に正しいと主張できるのは、反対派までが容認し共有できる前提のみから動物の権利を導出できる場合のみであるはずであること。
人権さえそれが損得勘定から出てきたものとすることもありうるはずなこと。
それゆえ、アニマルライツもどこまでも損得勘定から出てきたものとすることが可能なはずなこと。
です。

36夫 正彦:2017/11/24(金) 13:42:51
横山さん

私も一面ニヒリズム共有してます。何ごとも”正しい”と呼べるものはありません。

けど私のイメージで言うと、ニヒリズムは社会への働きかけをしませんし、自分で「正しい」と思えるような基準を作ったりなどしません。
何をしても無駄、と無気力になるイメージです。

だから、

>アニマルライツ派がそれを論理的に正しいと主張できるのは、反対派までが容認し共有できる前提のみから動物の権利を導出できる場合のみであるはずであること。

に関しては、反対派がなんとなく納得してくれればいい、ということで、論理的な正しさを追い求めているのとは微妙にちがいます。
なぜかわかりませんが、論理に一貫性(だけではないですが)があると、人は説得されやすい。場合によっては感情を凌駕する。だから一貫性を追い求めます。
レトリック的に「正しい」とか使うかもしれませんが。

私の倫理に対する態度は、ある倫理基準にみんなが従ったとするとどういう社会が出来上がるかにかかっています。
その社会を想像して、いい社会だな、と思ったら賛成します。

損得勘定で構築する場合、道徳的直観を軽視するので、とんでもない結論が出てきても補正されません。
障碍者は殺してもいい、という結論が出たら従わないといけない。といいますか、損得勘定って功利主義のことですか?

37横山:2017/11/24(金) 15:57:23
損得勘定という言葉遣いが誤解を生みやすいものだったかもしれません。
僕のいう損得勘定は最大に意味を広くとった功利主義だと考えてください。

また、僕の主張は「功利主義を採るべきだ」というものではなく、「どこまでも功利主義を採ることが許される」です。つまり、ありとあらゆるパターンの善悪判断があり得るとするものです。

人権は擁護されるべきだと僕は思っていますが、それは「何の前提もないところから必然的に導出される帰結だ」とすることができるはずはなく、単に「そのような善悪判断に沿って私は行動する」とする宣言に過ぎないものだと考えています。

同様に、アニマルライツが擁護されるべきだと考える人もいるだろうし、それに反対する人もいると思いますが、どちらかが何の前提もなしに必然的に正しいなんてことはあり得ないと思います。
できることは、自分はアニマルライツを擁護するとかしないとかを宣言するだけか、
あるいは、どこまで前提を共有できるかできないかを擦り合わせる作業を進めるだけだとしか思えない、ということです。

38横山:2017/11/24(金) 18:07:47
ニヒリズムについて、多くの人は「世界には絶対も真なんてものもなく、生きる意味なんてない」というネガティブな悲観論だと理解してるようですが、「ツァラトゥストラ」を読む限りでは、それはまったく逆で、「世界に絶対的な真なんてものがないからこそ、この生はポジティブな意味を持ち得る」とする超楽観論にしか思えないでいます。

39ウラサキ:2017/11/26(日) 08:25:47
横山さん、

ニーチェの「ニヒリズム」という語の用法は日常用法とは、
大きくズレていますので、あまり参照なさらない方が良いのでは?

それにあの人、批判しているキリスト教と自分の立場両方を「ニヒリズム」と呼んだりしています。

40横山信幸:2017/11/26(日) 09:20:28
>ウラサキさん
僕の上のコメントは
>34の
>僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。

というコメント投稿からの流れでの発言です。その流れのなかで見てやってください。

41横山:2017/11/26(日) 09:33:22
↑、また、どうも書くべき場所を間違えたようで、なんか変な感じにしてしまいました。ごめんなさい。

42横山:2017/11/26(日) 09:36:36
変になっちったのでもう一度書き込んでおきます。スミマセン。

>ウラサキさん
僕の上のコメントは
>34の
>僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。

というコメント投稿からの流れでの発言です。その流れのなかで見てやってください。

43横山:2017/11/26(日) 09:37:38
変になっちったのでもう一度書き込んでおきます。スミマセン。

>ウラサキさん
僕の上のコメントは
34の
>僕の倫理的な考察の立場は「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」なるものがあるとするものです。

というコメント投稿からの流れでの発言です。その流れのなかで見てやってください。

44横山:2017/11/26(日) 10:03:53
wiki で「ニヒリズム」を引いてみたら、積極的ニヒリズムをけっこう中心的に取り上げていましたし、関連人物の真っ先にニーチェを挙げてました。ニヒリズムを考えるのにニーチェを参考にすることはそれほど偏った見方とはされていないように思えました。

45ウラサキ:2017/11/26(日) 11:35:03
夫さんが使っていた「ニヒリズム」は「積極的ニヒリズム」では無かったようです。
もしそのつもりなら「積極的」という形容詞は外さずに使用した方が混乱が少なくて良いように思います。

いずれにせよ「ニヒリズム」って曖昧で多義的な使用をされているので、
どんな解釈でも通る、って面があるかと。

46横山:2017/11/26(日) 12:14:46
ウラサキさん、ご教授ありがとうございます。
でも、相対主義ではなくて、積極的な意味合いを持たせた立場のことを言いたいときには、僕の知っている語彙ではニヒリズムとか虚無主義とかしかないんですよね。何か新しく造語しないでも「絶対的な真などなくても生には既に意味があるとするような積極的なニヒリズム性」を示す良い言葉はありますか?

47ウラサキ:2017/11/26(日) 13:10:41
ニーチェの言う「積極的ニヒリズム」とは違うのですか?

48横山:2017/11/26(日) 13:47:02
じゃ、僕の「オプティミスティックでポジティブなニヒリズム」とか「ツァラトゥストラを読む限りで・・・ニヒリズム」という言い方は、ウラサキさんとしては今後もされてもオーケーですか。

49ウラサキ:2017/11/26(日) 14:53:28
「(ニーチェの言う)積極的ニヒリズム」と呼べば混乱は少ないと思いますよ。

50横山:2017/11/26(日) 15:27:13
申し訳ないですが、僕の表現のどこに問題があったのか分からなくなってしまいました。それほど問題があったわけではないと思ってもよいですか。

51横山:2017/11/26(日) 15:42:28
どちらにしても、38以降の僕の発言は僕の主張の要旨からはあまり関係のないものですから、無視してもらった方が良いかと知れません。

52ウラサキ:2017/11/26(日) 16:07:46
世間で「悲観的」で「ネガティブ」なイメージのある「ニヒリズム」を、
横山さんの主張する立場のネーミングとして使用するのはミスリーディングではないか?という事です。
「ニーチェ主義」といった方がまだ誤解が少ないかと。

53横山:2017/11/26(日) 16:18:39
既に、ウラサキさんとの言われるような誤読を避けるような記述になるよう心がけてきたつもりでしたが、まだたりないということですね。気を付けたいと思います。

54横山:2017/11/26(日) 16:31:39
話を37に戻すと、
ウラサキさんと僕の今のやり取りの「分かり合えなさ」にしても、コメント記述に対する捉え方の前提が異なっていることからのボタンの掛け違えというは部分があると思うんです。
そこで、ボタンの掛け違えがあった場合にできることは、「とにかく僕は僕のやり方でやります」と宣言するか 、納得できないけど「言われる通りにやります」と宣言するか、どこに前提の掛け違えがあるかを探るか、しかないんじゃないかと。どちらかが絶対正しいとか間違ってるとか言って決着としていまうのは、あまり意味がないんじゃないかということです。
まあ、そんな風に言ってしまうと当たり前のことなんですけど。

55横山:2017/11/26(日) 16:38:13
付け加え。その3つで、「僕は僕のやり方でやりますと宣言する」より「前提の掛け違えを探る」のほうが良いとしてる訳ではありませんからミスリードされませんように、その3つはきちんと等価だと僕は思っています。

56横山:2017/12/08(金) 23:11:13
性懲りなく、思い付きを書きます。

【悪】とは何か。ある辞書では「道徳的に悪いこと」と「不快なこと」とあった。「不快」の方はなんとなく分かる気もするが、「道徳的」とは何か。辞書で引くと「行動の規範」のようだった。つまり、悪とは、「そのようにすべきでないこと」と「不快なこと」と言っても良いか。【善】についても同様に考えると、【善】【悪】の意味は、それぞれ、

(1)同じ条件場面で選択すべき行為であることと、選択すべきでない行為であること、

(2)快い結果を及ぼす行為であることと、不快な結果を及ぼす行為であること、

であろう。
この2つの【善悪】は多くの場合は一致するだろうが、必ずしも一致するとは限らないのではないか。
例えば、遺伝子の成り立ちからして多くの生物は自分の遺伝子に近い遺伝子型をもつ個体の生存を優先する行動をするようにできている。そうであれば、自分の子や家族や或いは民族や或いは種族だけを優遇する行為は(1)の意味での善であるだろうが、(2)の意味での善であるとは限らないのではないか。
一方、ある人は種を越えてあらゆる苦痛を持つ生物の苦痛を軽減することに快さを感ずる。この者がビーガンになればそれは(2)の意味で善であろうが、(1)の意味で善であるとは言えないだろう。
つまり、(1)と(2)の善悪は別の概念だと言えるだろう。
われわれ人間は、(1)の方の善の視点において、遺伝子や習慣などによって、身近なものを優先するような習性をもち、或いはその上で、さらなる功利性のために遠縁の生物までも養護するような習性も持つかもしれない。そして、それを為すことを良しとするかもしれない。
また、われわれは(2)の方の善の視点における快さによって、また社会のなかで要領良く効率的に行動することを良しとする習性化訓練によって様々な規範をもつようになったかもしれない。それらの、例えば自他を同様に扱うとする規範などは、ある場合には小集団内だけの規範であるだろうし、ある場合には人類全体までを網羅するだろう。また、ある場合には苦痛を感じるすべての種にまで及ぶかもしれない。そして、それを為すことを快いとするかもしれない。
(1)と(2)のそれぞれの善は、それぞれに多彩な内容をもち、多くの場合(1)と(2)は重なっている。しかし、それは完全に別の概念なのだ。

ビーガンは、あらゆる生物種の苦痛を除くことを(2)の意味での善(快いこと)であるとし、かつ、(1)の意味での善(すべきこと)であるとする。ビーガンはこの2つの善が一致しなければならないとするが、一致しなければならない必然性などはどこにもないのではないだろうか。

一般的に、人間が社会生活を送るときには(1)と(2)の善悪は一致しやすいから矛盾も混乱もあまりおこらない。だから、「自分がされたら嫌なことは他者にもしない」という規範はそうする方が快いものでありながら、かつ、そうすべきものである、とする2つの意味での善であって、そこに問題はない。
ところが、ビーガンの求めるように他の生物種にまで及ぶ規範として「自分がされたら嫌なことは他者にもしない」というルールを考えるとき、この規範はすべての種やすべての人にとって(1)の意味での善になるとは限らないことは明らかだろう。
そう考えると、ビーガンが、「自分がされたら嫌なことは他種にもしない」としているのは、(1)と(2)の善を混同している部分があると言えないだろうか。
ビーガンが、あらゆる人類が「自分がされたら嫌なことは他種にもしない」という道徳規範をもつべきとすることに根拠があるとするのは、その混同による誤謬でしかないのではないだろうか。

どうでしょう。

57横山:2017/12/08(金) 23:56:36
↑、なんか、それっぽく書けた風だけど、よく考えたら論の整合性がおかしいかもしれない。もうちっと考えてみます。

58夫 正彦:2017/12/09(土) 09:01:17
横山さん

まだ横山さんの主張のすべてを把握しているわけではないですが、気づいた点から。
(1)はどうも、人間の傾向性に従っていれば善、そうでなければ悪のように見えます。
で、(2)は功利主義でしょうか。
(1)の場合、やはり自然主義的誤謬が気になりますね。人間の傾向性は道徳を考えるうえで
考慮しなければならない重要な要素ですが、それに完全に従う必要はない。

(1)の立場を道徳的直観という言葉で言い表すならば、道徳的直観と、いくつかの
前提から導かれる道徳法則とそれらを現実の事態に当てはめつつ調整していくという
反省的均衡(ロールズ)の考えが、しっくりきます。

59横山:2017/12/09(土) 15:00:11
夫さん、上の話を書いてるうちに何が言いたかったのかわからなくなってました。
よく考えると、夫さんが仰っているように、(1)はその個体の行動傾向がその個体にとっての善ではないかという話だったかもしれません。
それぞれの種が遺伝と環境によってそれぞれの種の善を持つと捉えることによって、逆に、それこそがそのものにとっての善なのだとするような、そういう善の捉え方ができるのではないかということ。そのような捉え方をするとするなら、種によって、或いは個体によって、それぞれ個別の善があり得ることになります。
ライオンにとっては肉食が善になり、差別主義者にとっては差別的行為が善になるというような、ある意味ブッ飛んだ善の捉え方も、論理的には排除されるとは限らないのではないか、と。

しかし、こうやってまとめてみると、単純な相対論でしかないかもしれないという気がしてきました。

いや、でも、ここには何かがあるような気がまだしています。もう少し考えます。

60横山:2017/12/09(土) 18:52:13
(1)をそのように相対主義の根拠にしながら、ロールズの反省的均衡の視点を絡めた倫理システムを考えるという、なんか新しいメタ倫理みたいなものを空想してるのですが、まったくの勘違いかもしれません。

61名無しさん:2017/12/10(日) 13:37:22
初めまして。ツイートで考える反出生主義@botの中の人です。ボットと呼んで下さい。
大阪哲学同好会(&ウィト読書会)と横山さんをフォローさせて頂きました。
哲学初心者です。お手柔らかにお願いします。

夫さん
早速なんですが、>>25に「動物を殺して食べるしか食べなければ生命が維持できない場合、殺して食べてもなんの問題もありません。」とあるのですが、
それはつまり肉食動物であるライオン等や、肉食だが我々と同レベルの知的生命体という仮定存在、及び完全菜食不可能体質者は動物を殺してor利用して食べても問題無い、
引いては人間を食べることでしか栄養摂取できない食人鬼という仮定存在が人間を食べることについても問題無い、ということで宜しいでしょうか?

宜しくお願いします

62ボット:2017/12/10(日) 13:38:36
>>61
名無しで投稿してしまいました、すいません

63横山:2017/12/10(日) 22:58:11
先日の(1)と(2)の考察が自分でもワケわかんないものになってしまったので、言いたかったことを別の視点の考察をし直してみました。いかがでしょう。

人を殺したがる友に殺人を犯さないように説得するにはどうすべきか、を考える。
やり方は二つあると思う。
(あ)一つ目はパワーゲームだ。殺人をしたがる人に対して罰を示すことで抑制を図るというやり方だ。力ずくでの抑え込みを含めたルール設定による説得である。殺人を犯せば自分に不利益が返ってくることを予測することで、自分の行動を抑えることになる。
(い)もう一つは価値自体の変更を促す説得だ。殺される相手にも心があることを訴える。そして殺さないこと自体が自分の心情的な安寧につながり自身の利益になることを訴える。

さて、(あ)は結局パワーゲームなので、そのパワーバランスとその個別の状況によって内容が異なることになる。しかし、だから逆に、その本人の資質と環境の状況が決まればそれによってその行動指針が論理的に一意的に決定することになる。その場が私がどう行動すべきかを決めてしまうことになる。罰されたくないから殺さない。

一方、(い)は、他者の心情に対する想像力の有無など様々な影響因子はあるだろうが、場の状況から行動指針が論理的に一意的に決定するとは限らない。他者がどんな心情を有しているかという問題は、詰まる所で一種宗教的な前提を必要とするものだからだ。他者も自分と同じような感じ方をするはずとする無条件な前提を入れてしまわねばならないのだ。だから、必ずしも状況に左右されるとは限らないような場面でも、行動指針を支える価値を持てるものとなる。
そして、そのような、状況のみに左右されず、宗教的な前提に支えられているものだからこそ、自身の行為を自身で価値付けることができる。

これは、だから、結果的に、状況に一意的に決められてしまうような(あ)の指針に従わざるを得ないときに、そんな状況でも、(あ)と(い)を一致させることによって、嫌々にその行動指針に従うのではなくて、自分から進んで行為することになる。・・・・
というこの点で、この(あ)と(い)の二つの倫理があるということは非常に効率的なシステムになっていると言える。

しかし、確かに普段の常識的な状況ではことシステムは非常に効率的なのだが、パターンから外れるような特異的な状況ではこのシステムは働かなくなるのではないか。

例えば、もともと自暴自棄になっている者には罰が有効に機能せず(あ)の行動抑制が働かなくなるかもしれない。そうなると(あ)と(い)が一致する必要もなくなり、システムの有効性もなくなる。

そう考えると、アニマルライツ論においては、(い)の方ばかりが優先されて、(あ)が重要視されてないのではないか、という疑問が起こってくる。
つまり、アニマルライツ論では、(い)の方の「他の種の生物にも痛みがあるだろうからそれを与えないようにすべきだ」とする倫理規程を優先してるのだけど、その倫理規程は実は論理的な必然性のあるものとは限らないものに過ぎない。
しかし、一方、(あ)の方でも、法を共有しないような他者とのルールを考えなければならないような状況の話になるので、なかなか論理的必然的に倫理規程が紡ぎ出されるまでには繋がらず、「他種の権利を擁護すべき」という指針の根拠にはなりにくい。

この考察から、アニマルライツ論は、
(あ)と(い)を混同してしまってアニマルライツを必然的なものだとうそぶくか、
(い)による指針であることを認めてアニマルライツには必然性がないものだとするか、
しかないのじゃないか。

という話になりそうだと考えました。
僕の問いたいことが伝わるでしょうか。どんなもんでしょう。

64ウラサキ:2017/12/11(月) 04:00:31
横山さん、

アニマルライツ論議で(あ)の指針を持ち出してくるのは無理が有るのでは無いでしょうか?
少なくとも日本では肉食を罰する法律は無いからです。

65横山:2017/12/11(月) 06:17:24
>>64
ウラサキさん、

(あ)はアニマルライツ論では指針として機能し「にくい」というところから問いが立てられそうだという話をしてるつもりです。
そういう問いではアニマルライツを問うことが難しいということですか?

66夫 正彦:2017/12/11(月) 11:30:27
ボット様

ご質問ありがとうございます。今度大阪哲学同好会で発表するために「動物の権利」を勉強していますが、
付け焼刃でかなりいい加減なことを言っている可能性があるので、指摘いただければ幸いです。

質問についてですが、あくまで現状ありうるような状況を想定しているので、仮定の場合は想定してませんでした。
私は健康を害してまでビーガンになる必要はないと思っています。ただ、家畜となっている動物たちの過酷な状況は
知ってもらいたいし、完全菜食にいかないまでも、できることはしてほしいと思っています。

現実的な話として、動物の権利、せめて殺されない権利だけでもすぐにでも認めるべきだ、と強く主張しても
反発を食らうだけですし、科学技術の発展も横目に見ながら、習慣にとらわれている人たちを徐々に説得
していくしかないと思っています。

ライオンについては、彼らが肉を食べる以外に生きていく手段を持たない、倫理を理解する能力がない、等々で
肉食を認めるべきでしょう。

肉食の知的生命体は、私たちの倫理を理解できるのなら、説得するべきです。しかし、理解できなかったり、
そもそも意思疎通が無理なら、方法はないでしょう。

完全菜食不可能体質者は、肉食以外の代替手段がないのなら、肉食を認めるしかないと思います。

他者を害さない限りで自己の自由を行使できるという原理がありますが、その他者に本来は動物も入るべきなのでしょう。
理想はそうだと思いますが、現実には障害がいくつもあります。動物を他者に引き上げるまでの過渡期としてこのように
考えればいいのではないかと思いました。

67夫 正彦:2017/12/11(月) 12:57:54
横山さん

簡単に二点。

①横山さんの説だと奴隷解放のようなダイナミックな道徳的価値の転換をうまくとらえられていないような気がします。

②(あ)が「何らかの罰が与えられるなど本人が不利になるためにある行動をするかしないかを決定づける」とする法則であるなら、
だんだんみんなの意識を変えていって、そのような法則を適用できる社会は作れるんじゃないでしょうか。
現時点でアニマルライツが(あ)を軽視しているように見えるのも、(い)を充実させて(あ)を醸成するという
過渡的な場所にいるからという理由では。

68ボット:2017/12/11(月) 21:28:06
>>66
夫さん、御回答ありがとうございます

私はライオンや肉食知的生命体についてはともかく、完全菜食不可能体質者については『現状ありうるような状況』だと考えます
完全菜食不可能体質者が動物を殺さずに肉食を行い、人類が動物の利用されないという権利を普遍的に動物全てに対して守るには

人肉を含めた自然死肉及び人工肉等の供給量≧完全菜食不可能体質者の生存の為の必要量

という不等式が最低限成り立つ必要があると思われます
上記の不等式が成り立っているという科学的なエビデンスはありますか?

アメリカ栄養士会は『適切に計画された全てのベジタリアンやビーガン食を含む、菜食は、健康的であり、栄養的に適切であり、そして特定の病気の治療と予防において健康に寄与することはアメリカ栄養士会の見解である。
良く考えられた菜食は、妊娠、乳児、幼児、子供、青年を含む個人の生活習慣の全ての段階で適切である』と述べています(下記参考文献のABSTRACT(概要)参照のこと)
ヴィーガンの方は良くこれを引き合いに出し、完全菜食不可能体質者は居ないとしていますが、ネット上の個人、あるいは有名人(アンハサウェイやR・マクアダムス、アンジェリーナ・ジョリー)が完全菜食をやめたというニュースがあります
もちろん全員が体質的な問題で失敗したとは言いませんが、同様に全員が栄養学的な問題で失敗したとも言い切れません
しかし専属の栄養士も抱えることが出来、食料も簡単に手に入れられる有名人がビーガン食に挑戦したが、それに失敗したのは不適応者の存在を強く疑う根拠になると思います
私はこのアメリカ栄養士会の見解を事実に則さない仮説であり見直すべきだ、と考えています

上記の不等式が成り立っているか検証されないままだと、人間の生存権と動物の利用されないという権利が両立できるか真偽不明です
現在はこの状態だと思っています。「『べし』 は『できる』を含意する」という原則(カントが主張したんだっけ?)において、人類は完全菜食が『できる』のか分からない状態です
この証明は道徳哲学=倫理学ではなく、栄養学・生化学・統計学等別の分野で行われるものでしょう

もしこれが証明できれば、動物に利用されないという権利を与えても、人間の生存権とも両立可能になると思われます(与えなければならないとは言わない。その理由は別に考える必要がある)

しかし逆に必要量の方が多いと証明されてしまった場合、『動物を他者に引き上げ』て種差別を撤廃したとしたら、人間の権利を幾ばくか捨てる必要を迫られます
つまり①種差別をやめる代わりに完全菜食不可能体質者差別を行って人間を死に至らしめるか
または②完全菜食不可能体質者差別をせずに種差別を行い続けて動物を死に至らしめるか
両立不可条件下では二通りしか無いはずです
この場合、人間と動物、どちらを優先すべきでしょうか? 理由も添えてお答え下さい



参考文献
Position of the American Dietetic Association:Vegetarian Diets
で検索して下さい。pdfのページで全文(英文)が読めます
基本的にABSTRACT(概要)とCONCLUSIONS(結論)を読めばアメリカ栄養士会が言いたいことが分かるはずです
url貼れなかったのでお手数おかけします

69名無しさん:2017/12/11(月) 21:34:46
頭のhを抜けばよかったんだ
度々申し訳ありません
参考文献
ttps://www.andeal.org/vault/2440/web/JADA_VEG.pdf

70夫 正彦:2017/12/12(火) 09:21:56
ボット様

私は完全菜食不可能体質者がそれほどいるのか懐疑的です。いたとしてもごく少数ではないでしょうか。
そういう人たちも、適切なサプリメントで完全菜食に移行できるかもしれません。

アメリカ栄養士会の見解は、よくビーガン関連の記事に引用されていたりしているので、実際に読んだことはないですが
ビーガンを始めるのに栄養学的には問題ない、ととらえました。

それに対して、途中でビーガンをやめた有名人の例を出して、アメリカ栄養士会の見解への反証を考えるのは
”科学的”な態度と言えるでしょうか。この場合、きちんとした論文をもって反証とするべきです。

また、もし栄養学的に問題がある、ないと議論が分かれていたとして、自分がビーガンを始めるのにはあまり
支障がないように思えます。ちょっとはじめてみて、体調が悪くなればやめればいい。

実は私も少し前からビーガンを始めましたが、二週間ぐらいしてから、体調が悪くなりました。
しかしこれは、私が完全菜食不可能体質者だから、という短絡的な結論に飛びつく理由にはせずに、
①料理のバリエーションが少なくて適当に済ませることも多かったので栄養的に偏ってしまった
②そこそこ年なので、別の原因からの体の不調かも。
と考えています。
一応、菜食が原因とも考えられるし①の解決にもなるかもしれないので、少しだけ肉食をするように戻しました。

不等式に関していえば、完全菜食不可能体質者の数を見積もれない以上、エビデンスはないと思います。

最後の二つの問いに関しては、完全菜食不可能体質者を差別するのは反対なので、②を選択します。
しかし、できるだけ動物を殺さずに済ませる方法があればその方がいいし、食料にする頭数もできるだけ
少なくするとか、動物福祉に最大限配慮するとか、いろいろする必要はあるでしょう。
また、完全菜食不可能体質者でも動物の肉を食べないで済むような、科学技術の発展にも期待します。

71ボット:2017/12/12(火) 14:07:07
>>70
夫さん

『きちんとした論文をもって反証とするべき』なのは御尤もです
故に実地検証を行っていない理論のみのアメリカ栄養士会の見解を鵜呑みにするのも”科学的”な態度ではありません
理論に反する不適応報告がないならともかく、それが散見される以上は

具体的には『アメリカ栄養士会の監修の元、無作為抽出での完全菜食適応実地検証』またはそれに近いものを実施し、完全菜食不可能体質者の存在を確かめるべきだと考えます
検証結果により完全菜食不可能体質者の存在が否定されることも、私は否定しません
この存在が否定されるならば供給量≧必要量のエビデンスの代わりとなり、動物に利用されないという権利を与えても、人間の生存権とも両立可能となるでしょう
しかし存在が確認され、明確に供給量<必要量だろう割合だった場合、両立不可能と分かります
両立が可能だったら種差別を撤廃することが可能、両立不可能だったら、人間動物どちらかを差別しなければならない

ただ今のところは『真偽不明』で両立の可不可が分からない状態であり、実地検証によりアメリカ栄養士会の見解という仮説を見直すべき、というが私の見解です


個人が完全菜食を試してみるには問題はありません
体調が悪くなればやめればいい、もその通りです
完全菜食不可能体質者だったのに無理して栄養失調で死ぬのも、また自由です


ここまでが人間と動物の権利両立の可不可が不明であるという理由です
権利両立が可能なら現に配慮されている人間が、配慮される所以を曖昧にしたままでも構わないかもしれない
ここからが本題、現に配慮されている人間が、配慮される所以は何だろうか、という問です


どちらか人間動物差別しなければならない場合、動物の方を差別するという夫さんの意見は分かりました
動物の権利を付与することが出来なくとも、配慮や福祉を最大限にすることは否定出来ません(私の感情的には肯定しています)

しかし私がお聞きしたかったのはその結論に至る基準でした
>>5にあるようにその基準は『痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計』という説があるのでしたっけ?
反種差別主義者はそれらを根拠にしています
しかしそうすると>>17にあるように限界事例(乳児やら植物人間とか)をどうするかという問題が出てくることが分かっています
ただし、限界事例の人間が動物より優先されないことは私、そして夫さんの直感に反する
今回の討論は直感ではなく、きちんとした理由、基準をアニマルライツを通して明確にしたい、というような意図もありますよね?

72夫 正彦:2017/12/13(水) 09:37:31
ボット様

栄養士学会の件については、確かにおっしゃる通りだと思います。

>今回の討論は直感ではなく、きちんとした理由、基準をアニマルライツを通して明確にしたい、というような意図もありますよね?
もちろんそうです。
動物の命を奪ったり、過酷な環境に人為的に押し込める、ということは私の道徳的直観に反します。まずはそこから発しています。
ただ、私の道徳的直観は私自身の偏見にゆがめられているかもしれないし、その境界線についてはあいまいです。
だから、基準を考えて、自身が納得のできるものにしたい。
そこで、痛みや情感というのはその基準として、今のところ妥当ではないかと思いました。
ただし、そうすると限界事例の問題で私の道徳的直観に反する問題が出てくる。
痛みや情感だけでは、基準として不完全なのか。それとも、いずれかの道徳的直観を改める必要があるのか。
そういうところですね。

ただ、私はあまり境界線の問題には重要性をおいていません。どういう境界線問題でもそうですが、完全にしっくりくる説は出てきません。
もちろん、境界線問題が無意味だと言っているのではないですが。境界線問題をあいまいな状態においても、実践には問題ないことが多い。

人間中心主義、種差別主義は身に沁みついてしまっているので、その存在を認識しても、なかなかとらわれずに考えることができません。
だから動物の権利の主張に賛同しても、端々にそういう習慣的なものが顔をのぞかせてしまうのかもしれません。

73名無しさん:2017/12/13(水) 21:01:26
>>72
夫さん

本題に入ったところで、権利とはどんな理由で与えられるのか? という私の『支持している』考えを>>7の『相手の権利を認めるための条件』の変形
(1)’ヒトがヒトの権利を認めないと何かの点で不利になること
を通して述べていきたいと思います

原始ヒト社会≒自然状態≒万人の万人に対する闘争においてヒトがヒトをヒト扱いしなかったらどうなるか?
と考えたら何故人間に権利が与えられるのか? が分かると思います
ヒト扱いされなかったヒトは報復に走ります
確かに生物的にヒトに近いサル目等のような報復を行う動物は存在しますし、社会的な動物は無闇に仲間を傷つけません
しかしヒトのみは放火や毒物混入により甚大な二次被害や報復連鎖をもたらしうる報復能力を持っています

(1)’の回答ですが、ヒトがヒトの権利を認めないと、上記の報復能力によりヒト社会崩壊という不利益を招きます
これは明確な禁止事項です
『ヒトがヒトの権利を認めない』ことを禁止しなければならない。つまり『ヒトはヒトの権利を認めなければならない』のです

故にヒト特有の過大な報復可能性が最小になるところに規制や禁止事項(ヒト個体に対してはほぼ不可侵な基本的人権というルール)が定められるようになり、
報復連鎖によるヒト社会崩壊可能性をゼロにする為に、国=リヴァイアサンはルールに違反したヒトに適切な刑罰を下し、報復合戦の拡大を防ぐ事が求められる

動物の場合は報復能力がない(あっても極微小。その一個体を殺せば済む)為、ヒト社会崩壊の危険性は存在しない
つまり動物に権利を与える必要がない(与えても与えなくても良い)

つまり道徳起源論や進化倫理学を含めてヒトの類まれな報復能力をメインに据えた社会契約説の亜流です
これを以って「種差別は、しなければならない、せざるを得ない」と断じています
(そう断じた上で動物がヒトに利用されない権利を得るに必要なのが、最初に論じた供給量≧必要量のエビデンスです)

限界事例はどうなのか? という応答は長くなるので省略していますが、疑問があればその都度お答えします

74ボット:2017/12/13(水) 21:08:23
(また名前忘れた)
行動生態学によれば、ヒトに近いサル目にも萌芽的な道徳が存在することが示唆されています

これにより、サル目にもヒトに相当する権利を与えよ、と私は言っている訳ではありません
サルにはサルの、ヒトにはヒトの道徳があり、共存可能かもしれないが、道徳の統合は出来ない
ヒトがサルに権利を与えても、サルはヒトの権利を守ってはくれないので、統合は無意味です

参考文献
道徳起源論から進化倫理学へ
ttp://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/evol.ethics.html

75夫 正彦:2017/12/14(木) 02:46:04
ボット様

いろいろ用事がありまして、検討して書き込む時間がないのですが、
2、3簡単にだけ。

歴史的に見て、たとえば奴隷制の解放など、おっしゃる説に該当しないように思える事実もあります。
確かに権利を与えられていないグループによる報復を懸念するという側面もありますが、
同じ人間として(反種差別としてはそこを疑っているのですが)権利が与えられないのはおかしい、
とする正義の観念が原動力になったという側面も大きいと思います。

これについてはいかがでしょうか。

76名無しさん:2017/12/14(木) 20:37:51
>>75
夫さん、お忙しいところありがとうございます

例えば奴隷解放についてですが、当時の価値観、および世情から
>>37のような意味の損得勘定で維持していた奴隷を解放した方が良い結果となる、と為政者が判断した場合に起こる現象だと考えています
当時の価値観ではヒトの報復能力は軽視されていたので、該当すると思えないのも仕方がありません

しかしヒトの報復能力は火と毒を手に入れた時から甚大な被害をもたらしうるものであり、奴隷だしてもヒトとして十分な報復能力は備わっています
例えエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を出さなかったとしても、遅かれ早かれ奴隷はヒトの報復能力を発揮し、
ヒトをヒト扱いしなければヒト社会崩壊という損が起こることに気付かされ、奴隷を解放せざるを得なくなるのではないでしょうか

ヒトをヒト扱いすれば(人種性別セクシャリティに関わらず)ヒト社会に恩恵があるのは遺伝的形質や社会貢献等のメリットがあるのでお分かりかと存じます


>正義の観念が原動力になったという側面
上記の判断を推し進める為のただの錦の御旗、大義名分であり、たまたまそれがヒト社会維持に都合が良かったに過ぎません
逆に正義の観念が暴走した例を挙げるならば『アメリカ合衆国における禁酒法』でしょうか。マフィアの代頭という過ちを犯しました

77夫 正彦:2017/12/15(金) 12:44:07
ボット様

奴隷解放につながった、為政者や思想家たちの残した文書を読めば、正義の観念によって
自らの正しいと思う行動をしたということは明白です。中には、復讐を恐れたりして大勢に雷同
した人もいたかもしれませんが、正義の観念が大衆を動かしたのは間違いないように思えます。

それも実は人間の傾向性が動かしたもので、正義の観念は口実に過ぎないと言えなくもないですが、
そうすると端的に反証ができません。

人間の性質や傾向性を根拠に道徳を組み立てるのもありだとは思うのですが、だからって、
そうしない道徳理論を間違いだとまでは言えなないのではないでしょうか。
人間の傾向性をまったく無視することは、その道徳の実践において失敗する可能性が強い。
とはいえ、傾向性を絶対的なものと考えないならば、傾向性にとらわれる必要はない。

78ボット:2017/12/15(金) 21:04:33
>>77
夫さん

正義の観念が大義名分だ、とするのは確かに言い過ぎました。ただの私の所感とお考え下さい

正義の観念=先験的な道徳理論が必ずしも間違いだとも言っておりません
正義の観念が人間の習性や体質から出来なかったことを出来るように科学進歩、あるいは利益誘導を促すことも否定しません
ただ、正義の観念が導き出した理論が人間に運用できるかどうかは別の話です

この説が応用している倫理進化学が進化論と同じようにアブダクションという論理的推論によって導かれていますので、反証可能性については弱点と言えるでしょう

>とはいえ、傾向性を絶対的なものと考えないならば、傾向性にとらわれる必要はない。
これはトートロジーが過ぎるのではないでしょうか
確かに絶対的なものと考える・考えないは傾向性が与える影響を勘案した個人の価値観に左右されるでしょう
しかしいくら個人がヒトの傾向性を軽視しようとも『ヒトは丁寧に扱わなかったら連鎖爆発するかもしれない、周囲に甚大な被害をもたらす恐れのある爆弾のような存在』なのは古今東西変わりがあません
ヒトの傾向性という一歩間違えたらリスクの高い存在は、少なくとも他の種族よりも重要なものと考えざるを得ない、が正しいです

79夫 正彦:2017/12/16(土) 11:17:25
ボット様

私は傾向性という言葉に本能的なものとか、習慣とかをひっくるめて表していますが、そういったものである以上、
ないがしろにすれば重大な結果を招くような傾向性もあるし、簡単に変えられる傾向性もあると思います。
それは、道徳に関していえば、ある道徳が浸透する過程の中で変更のできる傾向性は、そのように変更され、どうしても
無理なものは道徳が浸透しない。結局はいろいろやっているうちに適切なものになるだろう、と考えています。

例えば、反出生主義はどうでしょうか。どうも理論先行で、多くの人の道徳的直観に反するように思えます。
貧しくなると人間は子供をたくさん産むという傾向性がありますが、もし絶滅に至る過程で人間が少なくなり、それに
したがって貧しくなれば子供をたくさん産んでしまうのではないでしょうか。

80ボット:2017/12/16(土) 18:10:26
>>79
夫さん

人間に運用できないルールはいずれ淘汰される。少なくともメインストリームにはならない
正に進化倫理学です

そして進化倫理学において倫理や道徳といった掟ミームはヒト集団を維持する為に有効的なルールとして発達したものであるとする以上、
反出生主義は倫理的ではなく、個人的な域をでないものと私は考えています
現実的に出生に対する倫理はリプロダクティブ・ヘルス/ライツが妥当なのではないのでしょうか

上記の掟ミームの手段に過ぎない『(ヒトに)苦痛を与えてはいけない』を目的化した『痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計』による線引き=有感主義というミームも倫理的ではなく、個人的な域をでないものと私は考えています

81ボット:2017/12/16(土) 18:20:56
一番下の文章を修正します

上記の掟ミームの手段に過ぎない『(ヒトに)苦痛を与えてはいけない』を目的化した『痛みとか情感(痛み+記憶)、意識、未来設計』による線引き=有感主義というミームは非倫理的であると私は考えています
ただ、菜食主義は個人的な域を出ません

82夫 正彦:2017/12/19(火) 15:06:54
ボット様

>>80>>81のボット様の主張をじっくり考えているところでして、なかなか自分の意見がまとまりません。

反出生主義は、人間に運用できないルールを提示しているのか、そういうことに何らかの意味があるのか。
ごく少数の人しかそのルールに沿うことができないとわかっているルールの論理的根拠を洗練させること
にどういう意味があるのか。

また、人間に適用できないルールはいずれ淘汰される、は、淘汰されたルールは人間に適用できないものだ
と、トートロジーのようにも思えます。しかし、反出生主義が人間の性質とは相いれないように思えるのも
それが将来人類みんなに広まってみんなが実践するというイメージを描けないのも確かです。

とはいえ、厳密に「人間に適用できないようなルール」であるかどうかの判断が、「いずれ淘汰される」
で決まるなら、結局はやってみないとわからない、と言うことになりそうに思えます。

人間の本性に反していても、絶対に失敗すると言えるのかどうか。

そのうえで、ビーガニズムも同じように人間の性質に反しているので、菜食主義と同じように、単なる
個人の生き方としてのみ存在意義があるのか。

すいません、意見がまとまっていなくて。

83ボット:2017/12/19(火) 21:24:07
>>82
夫さん

進化論の自然淘汰(選択)がトートロジーというのは犯しやすい間違いです(私もこの辺り混乱していました)
『ある種のルールが人間というふるい(フィルター)に掛けられて広がるものと広がらないものに分けられる』
そしてそういう状況が成立することこそが自然淘汰である
(たまたまヒト集団維持に有用で、普遍的に広がったルールを倫理と呼んだ)
そして今まで私が主張してきたのは
『このルールは人間というフィルターにかけると広まらない条件を明確に満たす。だから普遍化は無理だ』
だと基本的には思います

完全菜食主義は個人的価値観の問題であり、完全菜食不可能体質者の存在が不明だから、普遍化可能性も不明
有感主義は個人的価値観の問題であり、時に人間より動物を優先させる場合があって報復連鎖が起こりうるしで普遍化不可
反出生主義は個人的価値観の問題で普遍化不可
というのが私の考えです
私はヴィーガニズムの普遍化可能性を否定している内に反出生主義の普遍化可能性も否定してしまった口でして


ルール普遍化は結局はやってみないとわからない、結果論でしか語り得ないのはそうなんですが、わざわざ見えてる地雷を踏みに行って大勢の人が死ぬ恐れがあるのを見ると『慎重になれ』『考え直せ』『やめろ』とは言いたくもなります
それを見逃したら私(の親族友人集団)が被害を被るかもしれないし、被った人間のやり場のない怒りが報復連鎖となって巡り巡って私(の親族友人集団)へ向くかもしれないので


およそ人間に運用出来なさそうな主義に意味はあるのか? という問にはある、と答えます
遺伝子多様性が環境という脅威に対して耐性を持つように、模倣子(ミーム)多様性も重要だと考えられます
ミームは遺伝子と異なり記録・観察が可能であり、消去しにくい情報ですので、残しておけば何かしら必要になってくる場面があるかもしれません(完全でなくとも、部分の理論を応用する等で利用可能でしょう)

個人がその主義を掲げることに意味はあるのかどうかは、個人的な問題です
優越感に浸りたいだけ、というのでもまあ良いんじゃないでしょうか。批判されるのを承知であれば

84横山:2017/12/24(日) 17:26:22
結局、鶏と目を合わせて旨そうだと思うなら食えば良いし、助けねばと思うなら助ければ良い、ということなのではないか。
そこに、どちらの倫理が優位であるかの根源的根拠などなく、単にそーなんだから仕方ないという事実がそれぞれにあるだけということなのではないか。

過去の奴隷解放や現在のLGBT や#MeTo で実際にこれまで認められてなかった権利が認められるようになってきているのだから、人はそれぞれの想像力を発展させることによって、他者の権利を拡大させることができると思うし、実際に、アニマルライツを尊重すべきだと考える勢力が増えつつあることも事実だと思う。

奴隷解放では個々の人々の想像力が拡大したことによって、「虐げられて当然」よりも「虐げられるべきでない」という倫理観を持つ人が増え、それが社会的に優勢になった結果、パワーバランスが臨界越えて、一気に状況が反転したものだと言えるだろう。だがそれは、バランスが臨界点を越えたというだけのことであって、「虐げられて当然」派と「虐げられるべきでない」派の両者は依然として連続的に存在し続けているのだ。それは「虐げられて当然」が否定されたことへの根拠が絶対的になったためではないのじゃないか。
アニマルライツに関しても、近い将来、アニマルライツ擁護勢力の拡大が臨界を越えて社会のマジョリティになるかもしれない。しかし、それでも、それぞれ個々の人間の倫理は「だってそーなんだもん」とでも言わざるを得ないような感覚に支えられているものであって、それ以上の絶対的で根源的な根拠なんてものはないのじゃないだろうか。

奴隷の目を見ても「虐げられて当然」と思うような差別的性癖がある人にとっては、奴隷制は別に非難されるよう制度ではない。それは、その人が後から、その差別を排除する良さに気づいて考え直されるものになるかもしれないし、社会から責められるから差別してない風を装うべきものと言うようになるかもしれない。しかし、仮にそのように翻ったとしてもそれ以前の彼にとっては、「虐げられて当然」なのは事実として「そう」なのであって、それ以上の根拠などない、それ自体が根源的な事実としての倫理なのだ。もちろん、その倫理観は、反差別派からすると圧倒的に間違っている。しかし、その反差別派の倫理観は「彼にとって」は何の根拠にもならない。反差別派が「差別は否定なれなければならない」という原理を声高に叫んでもなんにもならない。反差別派にできることは、社会的圧力や非社会的な圧力で強制的に差別をしないようにさせるか、反差別的な社会を作ることがどれだけ人々の幸せに繋がるかなどということを訴え、彼の想像力に働きかけるかしかないのではないか。

そういう意味で、奴隷の目を見て「虐げられて当然」と感じる人は奴隷制を容認し、「虐げられるべきでない」と感じる人は否定する。その事実と、それぞれの人に個々の「すべき」があるだけだと言えるのではないだろうか。

そして、そのように倫理を捉えるとすると、さらに重要なこととして、奴隷解放が行われたことがアニマルライツが尊重されるべきことの根拠にはならないのではないか、と疑われる。「それはそれこれはこれ」なのでじゃないだろうか。

それぞれの人の「すべき」は、その社会的なパワーバランスや非社会的なパワーバランスの中での状況と、自分の想像力によって枠組みされるが、その根源的な根拠となるのはそれぞれの「だってそーなんだもん」という感覚に拠る他ない。

そうだとすれば、奴隷解放が現代の常識的感覚からして正しかったということは、アニマルライツが擁護されるべきということの根拠には何もならないのかも知れない。それぞれの人々が感じる「だってそーなんだもん」は、やはりそれぞれでしかないのだから。

85横山:2017/12/24(日) 17:30:02
つづき、

だから、
アニマルライツ派の人は、社会的な圧力や非社会的な圧力をかけて、人々に強制的にアニマルライツを守らせていこうとすることもできるだろうし、人々の想像力と心情に訴えかけてアニマルライツを擁護することがどれだけ皆の幸せに繋がるかを伝えようとすることもできるだろう。しかし、それしかできないのではないか。

一方、非アニマルライツ派の人は、その強制に反対して戦うこともできるだろうし、逆にアニマルライツを保護することの良さに気づいて立場を翻らせることもできるだろう。もしかすると、ビーガンになることを嫌がりながらそれを強制されることに積極的に従う、なんてこともできるかもしれない。
しかし、もしそうだとしても、自己自身の倫理として自分がどうすべきかということは、単純に、鶏の目を見て「旨そう」と思うなら食おうとして良いし、「助けねば」と思うなら助けようとすれば良い、というその事は変わることがなく、最も根源的な倫理として保持され続けるのではないだろうか。

今回の思索で僕が考えたのは、それぞれの人は自分の信じる正義を相手に押し付けることもできるし、そうしても良いのだけど、個個人の倫理の根拠は個個人の「だってそーなんだもん」に委ねられるしかなく、それはそれで尊重されざるを得ない側面が常にある、っていう、結局、至極当たり前のことでしかないのだけど。

どうだろうか。

86ウラサキ:2017/12/24(日) 20:41:13
コーブ『菜食への疑問に答える13章』を飛ばし読みしました。
著者がヴィーガンになった理由は、つまるところ「動物が可哀想だから」、という事のようです。

結局その前提を共有できないと布教は無理な気がします。

87イイダ:2017/12/24(日) 21:14:39
僕は倫理に関して完全なパワーゲームだとまで割り切って考えられない人間ではありま
すが、横山さんがあげた視点について別の角度からも考えてみたいなーと思います。
と思いながらも書いている中で重複してしまうかもしれません。
横山さんがあげられた各個人が自分のなかで勝手にでっち上げた倫理をそれぞれに
主張していくというのは非常に魅力的に感じました。
ですが、それは直接的にはアニマルライツと関係ないかもしれません。
それに作り上げた倫理が各々であるという考え方はアニマルライツ賛成派からすれば、
相対主義と区別のつかないものに受け取られる可能性もあります。

ですが、ここで敢えて言いたいのは、人間が外面を気にするあまり
内心と外面が折り合わない場合に起こす矛盾についてです。もっと云えば、
嘘を申告する可能性です。これはよくネタだと思われがちなのですが、
甘く見てはいけないと思います。特に最近そう強く思います。
ビーガンの主張に表向き賛同していても、実際には裏で肉や魚を食べる。
シーシェパードのポール・ワトソンもその太った体型から一時期菜食主義を公言しつつも、
隠れて肉を食べているのではないか、という疑惑が持たれたと記憶しています(今は知り
ませんが)。ビーガンが多数派になれば、やがて隠れて食べている人はいないのか、
と疑心暗鬼になるのではないでしょうか。それでなくてもビーガンコミュニティに
一度入った人がビーガンをやめたくても抜けようとすれば酷い苛めに遭うんじゃないかと、
そういうケースも出てくるかもしれません。
話は変わりますが、年齢が小さいときに虫などを殺して遊んだ経験がある人は多いのでは
と思います。僕の周りではそうでした。ですが、それを普通の人は隠そうとします。
何故か。それは動物虐待の後ろめたい気持ちから(アニマルライツ派はそれを望ん
でいるのでしょう、きっと)かもしれませんが、面倒臭いという俗物的な理由から
隠して昆虫など享楽で殺したことはないと嘘をついているかもしれないのです。
見たところ(少なくとも外形的には)この二つは見分けは付きません。
更に云えば、人権についてもそうです(僕にはこちらの方が根が深いと思うのですが)。
人種差別やLGBT差別はいけないことだとそれはほぼ世界の常識になっています。
誰もそれが違うなどと(凡そ特殊なサークルなどでないと)公言はしないでしょう。
ですが、どう思っているかなどは別問題だということです。
僕は人権は尊重されるべきという立場の人間ですし、非常に恐ろしいし想像もしたく
ありませんが、実際にはそう思っていなくて「LGBTは本当にいけないことだよね。」
と言っている人が結構いてるのではないか、と最近思えてきました。
どんなに普遍的な倫理観であることを強調しても、届いていない可能性がある。
それならば、普遍的であるという考え方のほうが間違いで、
個人の倫理として(勝手なものも含まれてくるが)各々にあると考えたほうが
しっくりくるのではと。
説得する必要があるのは、まさにそういう意味からであり、
嘘をつかなくてもいいほどそれをよしと思える程度に説得できるかにかかっているとも。
ですが、結局個人的問題という部分は必ず残るとも云えます。
語法的に難しいですが、強制されて渋々従うようなケースを倫理的な普遍化を目指す
立場ではあまり考慮に入れていないような気もします。
ですので、思い込みかもしれないですが、自分が勝手にでっち上げた倫理観を押し通す
というのは考え方として非常に面白いと思いました。他人に自分の倫理観を
強制(OR半強制)したい人がいることも事実ですが、
そのほうがいいとは思えないというのは変わっていません。
一言でまとめると人権というのも実は文化的に深く根付いたものではなくて、結構脆弱な
基盤の上に成り立っており、かなり危ういものなのではないかと
そのような感想を持った次第です。
きっと多くの人には悲観的個人主義だと笑われるのでしょうね。

88イイダ:2017/12/24(日) 21:22:40
ちょっと抜けてしまいました。「LGBTは本当にいけないことだよね。」
→「LGBT差別は本当にいけないことだよね。」に訂正します。

89横山:2017/12/24(日) 21:53:13
僕の考えている倫理は、相対主義的ですが相対主義ではないと思います。
それはとどのつまり、「だってそーなんだもん」というある意味宗教的で無根拠な原理を下敷きにせざるを得ないものじゃないか、というものです。ですから、その点で、相対主義的とも言えるのです。
しかし一方、それは、その成立からしてそれ自体が原理になってしまうものなので、他者と同列に並べ置かれるものにはなり得ないのです。それゆえ自分の正義を他者に押し付けることさえ可能になってしまうように思えるのです。その点で、相対主義とは別のものだと考えています。
押し付けることも可能なのだけど、パワーバランスと想像力による計算のために押し付けないでいる場合もあるし、押し付けてしまう場合もあるということだと、僕には、そんな風に思えてならないのです。

90夫 正彦:2017/12/25(月) 15:36:00
ボット様

結局、普遍化可能性のない道徳基準は、ライフスタイルとしてしか存在しえない、とおっしゃっているように感じました。
なかなか魅力的な主張だと思うのですが、そもそも反出生主義は人類の絶滅を目指しているわけですから、そもそも、ボット様がおっしゃるような
普遍化可能性を道徳の規準にしているわけではなく、土台が違うので議論が成り立たないのではないかと思えます。
しかも、人間の本性や傾向性に反しているからと言って広まらないとも限らない。さらに自己犠牲的な死への本能みたいなものがあって、それを刺激して
広まってしまうかもしれない。つまり、普遍化可能性のない道徳基準を、それは道徳基準たりえない、として排除できるほどの強い主張には
なっていないんじゃないかと思えます。

もしボット様が
>ルール普遍化は結局はやってみないとわからない、結果論でしか語り得ないのはそうなんですが、わざわざ見えてる地雷を踏みに行って大勢の人が死ぬ恐れがあるのを見ると『慎重になれ』『考え直せ』『やめろ』とは言いたくもなります
>それを見逃したら私(の親族友人集団)が被害を被るかもしれないし、被った人間のやり場のない怒りが報復連鎖となって巡り巡って私(の親族友人集団)へ向くかもしれないので
という考えを持っているのに、自己満足ゆえに反出生主義を主張して、その考えに影響を受けた人が反出生主義を実践しだしたら、
それは道徳的に非難されるようなことをしていることになりませんか(ボット様がそのような考えで反出生主義を主張しているとは思いませんが)。

ただ、独身主義のようなライフスタイルは、広めようと思っても限界があるでしょうし、広めようとする動き(独身の方が自由で楽しいなど)
を責めようとは思いませんが、反出生主義は違うような気がする。それを主張するには、その結果を考慮して、それを望みつつ主張しないと
その主張をまじめに取り上げる人にとって裏切っているように思えます。

91夫 正彦:2017/12/25(月) 15:48:28
横山さん

道徳が個々の人の「だってそうなんだもの」に支えられているのは、確かにそうだと思います。
アニマルライツのような新しい道徳基準は、まだ多くの人の「だってそうなんだもの」に支えられていませんが、議論を深めて、
広めていくことで、多くの人の「だってそうなんだもの」になるようにしようとする運動であるといえるでしょう。

とはいえ、すべての人の「だってそうなんだもの」になることはなく、またその必要もなく、世の主流の考えになれば、
納得はしてないけど、反対するのもめんどうだから、という人がいてもそれでもいいわけです。

問題は「だってそうなんだもの」になるようにするには、どうすればいいのか。または、どういうものが、「だってそうなんだもの」
になるのか。そういうところですね。つまり、決して個人に固定されて絶対的なものではなく、時代や風潮に流されやすいものと思えます。

92夫 正彦:2017/12/25(月) 16:33:01
>イイダさん

細かいところが、私の感覚と大きく異なるのですよ。
だから、反論ではなく、イイダさんとは異なった印象と言うことで、2、3書きます。

>シーシェパードのポール・ワトソンもその太った体型から一時期菜食主義を公言しつつも、
>隠れて肉を食べているのではないか、という疑惑が持たれたと記憶しています(今は知り
>ませんが)。
これは反論になるかもしれませんが、菜食主義は痩せるとは限りません。断言できます。
もし太った体型だけからそういう疑惑がもたれたなら、それは根拠としては弱い。


>ビーガンが多数派になれば、やがて隠れて食べている人はいないのか、
>と疑心暗鬼になるのではないでしょうか。それでなくてもビーガンコミュニティに
>一度入った人がビーガンをやめたくても抜けようとすれば酷い苛めに遭うんじゃないかと、
>そういうケースも出てくるかもしれません。
推測に推測を重ねてませんか。いつの間にか非常にありうる事実のように思えてしまいます。
民主主義と自由主義の社会が継続するなら、こういうことは起こらないでしょう。
ビーガニズムが民主主義と自由主義を破壊する傾向を持つことを立証すれば別ですが。

>話は変わりますが、年齢が小さいときに虫などを殺して遊んだ経験がある人は多いのでは
>と思います。僕の周りではそうでした。ですが、それを普通の人は隠そうとします。
これ、理解できません。小さい時に虫を殺して遊んだのを隠します?小さい時のことなんだから
別にいいじゃん。というかそもそも、そんなこと話す機会あまりないし。まぁ、大人になって
虫を殺す(蚊やゴキブリ以外の)趣味を持っていたら隠すかもしれません。

後半の部分は、横山さんとの議論のところにも書いたことに関連しますが、一つの理想的な
道徳基準があったとして、それが社会に広まるに際して、それに納得できない人がいたとしても、
広まらないより広まった方がいい道徳基準はある、と思います。というか、多くの道徳基準は
納得できない人が一定数います。そういう人は、表面上しぶしぶ従っているかもしれないし、
それに反対する主張をせずに嘘をついて迎合しているかもしれない。しかし、それでも、広まった
方がいい道徳基準はあると思います。

93夫 正彦:2017/12/25(月) 16:40:07
>ウラサキさん

最初は動物がかわいそうと思う気持ちから出てくるものでもいいんですよ。
ただ、動物の権利論者やビーガンが対象となる動物をすべてかわいいと思っていると考えるのはナンセンスです。
中には昆虫嫌いの人もいるでしょうし、犬嫌いの人もいるでしょう。
ある特定の動物を好きであったかもしれませんが、そこから始まった彼らも生きる権利がある、という感覚は、
特に好きでもない動物へも拡張されます。これは、特定の動物好きという感覚から離れて、正義の観念に近いと思います。

ただ、すべての動物が好きではない人はどうするか。そういう人には、動物の権利論を納得してもらえるのは
無理かもしれません。

94ウラサキ:2017/12/25(月) 21:33:44
夫さん、

私には、
「特に好きでもない動物へも拡張されます。これは、特定の動物好きという感覚から離れて、正義の観念に近いと思います。」
は論理学で言う「不当周延の誤謬」を犯しているように思います。
特定の要素(真部分集合)に当てはまる事を、集合全体に当てはまるとみなす誤謬です。
例:「多くの動物は四本足である。∴すべての動物は四本足である。」
ピーター・シンガーは動物を意識の有無で区別しているようですね。

「犬や猫を可愛がりながら、ゴキブリや蚊を殺す事」を不正義と言えるでしょうか?

95イイダ:2017/12/25(月) 22:18:50
仮に自分が特定の哺乳類や爬虫類を愛好しているとしても、虫までも殺さないところまで
広げていくのには感覚的にどうも無理があるような気がしますね。
ネットで情報発信している人で菜食主義を自称している人は国内、海外問わず結構います
し、その中で主に動物愛護からベジ→ヴィーガンと移行していった人たちもいますが、
僕の見た限りでは虫も殺さないと言っていたように思います。
特定の動物に対する愛情だけで、そこまで持っていって行動を制御するというのは
現実的にかなり難しい気がしますがねえ。語られていない何かがあるのかもしれませんが、
あるのならそこを知りたいという風に思います。

96ボット:2017/12/25(月) 23:25:21
>>92
夫さん

>>ビーガンが多数派になれば、やがて隠れて食べている人はいないのか、
>>と疑心暗鬼になるのではないでしょうか。それでなくてもビーガンコミュニティに
>>一度入った人がビーガンをやめたくても抜けようとすれば酷い苛めに遭うんじゃないかと、
>>そういうケースも出てくるかもしれません。
>推測に推測を重ねてませんか。いつの間にか非常にありうる事実のように思えてしまいます。
>民主主義と自由主義の社会が継続するなら、こういうことは起こらないでしょう。

少数派の現在でも、ニュースになる程度の信憑性で起きています

肉も魚も卵も食べない「ヴィーガン」生活を続けて1年…23歳の女性が経験した”命の危機”
ttp://courrier.jp/news/archives/5373/
ここでは殺害予告受けたとあります

暴かれた、ベジタリアンの虚勢「菜食主義者の約4割が肉を食べてる」=英
ttps://news.biglobe.ne.jp/trend/1015/toc_151015_4104973021.html

取り急ぎ、これだけはお伝え致します

97夫 正彦:2017/12/26(火) 14:45:57
ウラサキさん

論理の事を言っているのではなくて、感情の動きを言っているのです。
その感情の動きが論理によって修正され一つの主張が成立するのを正義によるものではないかと考えているのです。

つまり、
①ある動物が好きで虐待されているのがかわいそう。
②この感覚は普遍的な何かを示唆しているのだろうか。普遍化すべきだろうか。
③虐待されている動物を助けるために、助けるべき動物の基準を決める。
④その基準に従って行動する。つまり、好きでない動物にも配慮が拡張される。

98夫 正彦:2017/12/26(火) 14:56:43
イイダさん

その気持ちはわかります。私も虫はやりすぎだと思いました。
基準を”痛み”に置いたとしても、虫は実はグレーゾーンで、痛みを感じていると想定する研究もあるし感じていないと想定する研究もあるようです。
しかしもし痛みを感じていたとすると取り返しがつかないので、殺さないようにする人が多いようです。
よく考えると、虫を殺さなくても、寄り付かないようにするだけで人は満足するのでやろうと思えばできます。
ただ、そうでない局面もあり(蜂が巣を作って危ないとか)なかなか悩ましい問題です。
さらに、もし将来植物や微生物に”痛み”の感覚があると証明されたら、どうなるでしょうか。
これは現在のような基準でビーガンを実践していると、生きていけなくなるかもしれません。

私の考えとしては、もともとビーガンの実践はどの時代ででもどの場所ででもできるようなものではないし、社会制度や科学技術の発展に伴って、
ビーガニズムの条件も変わっていくものだと思っています。まぁ、言ってみればそうなってから考えればいいかな、と。

99夫 正彦:2017/12/26(火) 15:12:41
ボット様

イイダさんの書いてらっしゃっているのは、ビーガンが多数派になった未来にビーガン警察みたいなのが出てきて、
ディストピア社会みたいのが出来するんじゃないか、という懸念だと思いました。
どの思想にも原理主義や過激主義がいるもので、もちろんビーガンにいるでしょう。その人たちが多くの人を
支配しようとする未来は、民主主義や自由主義がなくならなければそういうことはないだろう、という主旨です。

肉を4割の人が食べたことがある、というのは、ベジタリアンと主張することの一種カッコよさ、みたいな
風潮があるためでしょうか。いやけど、ちょっとこの記事悪意があって、よく読めば、ベジタリアンの
4割が隠れて肉をずっと食べ続けているとは書いてなくて、単に食べたことがあって、それを隠していた
というだけじゃないですか。知らずに食べてしまうこともあるし(外食すればその危険は常にあります)、
めんどくさくなって食べちゃうときもあります。私もよくやります。

『中には、「本当は毎日食ってるんだろ」といった声も。』って文章も、悪意に満ちてますね。

100夫 正彦:2017/12/26(火) 15:20:04
ウラサキさん

追加です。

>「犬や猫を可愛がりながら、ゴキブリや蚊を殺す事」を不正義と言えるでしょうか?

例えば、痛みを感じることのできる動物(生物)は殺さない、と言う道徳基準に
従っていて、ゴキブリや蚊が痛みを感じることができるのであれば(この辺りは議論があります)
ゴキブリや蚊を殺すことは正義の感覚に反します。

まぁ、主義と行動が一貫していない、と批判はされるでしょう。

101夫 正彦:2017/12/26(火) 15:21:51
久々に一つの議題のスレで100を超えました。

102横山:2017/12/26(火) 17:40:13
動物の権利が検討されるべきだというのは夫さんのお陰でけっこう肯定的に捉えられるようになってきました。

それでも、人とあらゆる動物の権利を同等とするというのは無理があるようにも感じています。

植物には意識が無いから草食はOKと、動物と植物に違いをつけられるのであれば、オランウータンとミミズでは意識レベルの違いがあるでしゃうから、その権利に積極的に差がつけられて良いようにも思います。
そして、もしそういうランク付けが可能であれば、そういうランク付けのなかで、あるラルクより下では人が食べても良いとすることもできるような気がします。

時習館高校のアカムシ解剖実習がアカムシの権利保護のために中止された事例があったそうですが、僕にはこれは行き過ぎだと思えてならないのです。それでも、これはいろいろな課題を提起してくれてるように思います。

まず、実習よりも価値があるとされたアカムシの意識とは如何なる意識なのでしょう。どうすればその有無を断定できるようなものを指して意識と言っているのでしょう。

また、その動物の意識レベルをどう測るのでしょう。
妥当なやり方があるとすれば、神経回路組織の構造と大きさで決めるか、それらしい仕草をするかで決めるか、でしょうか。

さらに、もしそのランク付けができたとして、人間の乳児や胎児あるいはその他の無意識状態の人もそこにいれるのでしょうか。また、意識的な行動ができるAI などの人工物もそこにいれ得るのでしょうか。チャーマーズがサーモスタットにも微小意識があるとしたようにそのランクのどこかに入れることは可能なのでしょうか。

そして、さらにそのランク付けができたとして、それらの意識の価値と、それを人が食べたり解剖したりしても良いかどうかを比較することはできるのでしょうか。できるとすればどうやってするのでしゃうか。

もしかすると、高校でアカムシの解剖一つをしたりしなかったりするのにも、そこまで掘り下げた問いが問われる必要なあるのじゃないかと言う気がします。

時習館でも、そこまで話し合ったとしても両者が納得する解決策は見つからなかったでしょうが、そういう話まで突っ込んで話をしてたなら、どこまで妥協して話し合いを終えたのかという点では理解は深められたと思います。

しかし、これでは議論が広がりすぎますよねぇ。それでも、相反する価値がぶつかり合うところで価値を問うには、価値の根拠をさらに深めて問う他ないような気がして、恐縮しつつコメントします。

103ウラサキ:2017/12/26(火) 21:24:10
夫さん、

「動物」という括り(集合)を過大視しているように思います。

「動物と植物」や「生物と無生物」の差は、
「人間と(人間以外の)動物」の差以上に曖昧かと思いますが。

「論理ではなく感情の動き」と言われれば、
「そういう感情の動きをする人たちも居るのでしょうね」としか返答できません。
「生命は生まれない方が良い」という感情の動きをされる方々も居られるそうですから、
人それぞれかと。

ただ幸いなことに「ゴキブリや蚊の痛みを忖度する人たち」は(まだ)マイノリティであるようです。

104ボット:2017/12/27(水) 00:35:13
>>90
夫さん

普遍化可能性のない道徳基準は個人的な道徳基準です。宗教と同列です。個人の範囲内で行う分には否定しないし、やはり道徳基準の一種です
普遍化可能性のない道徳基準を、それは道徳基準たりえない、として排除してはいません
仰る通り、普遍化可能性のない道徳基準は、ライフスタイルとしてしか存在しえないのでしょう

自己満足か否か、まじめか否か、反出生主義か否かに関わらず、通らない道理で、個人の価値観で、あやふやな根拠で『これは万人が持たねばならない道徳基準だ』として仲間を増やそうとするなら、非難されるべきでしょう

私の個人的な意見ですが、完全菜食主義も苦痛や意識を基準とした有感主義も反出生主義も個人の価値観とあやふやな根拠に基づいていると考えているのでルール普遍化は批難されるべきです
ただ、普遍化可能性のない道徳基準だと理解した上でそれを自分の個人的な道徳基準にするのは自由です


>>102
の横山さん論点に加え、私も苦痛や意識を根拠とすることに疑問を呈したいと思います

アニマルライツが苦痛や意識を根拠としているなら、動物/植物/無生物に意識はあるか? は避けられない質問ですし、と同時に人間誰にでも意識はあるのか? と尋ねたいです
アニマルライツの言う意識って現象的意識の方? 機能的意識の方? それともそれ以外? もちょっと分からない
健常者に意識があるのは自明? 「ある」と自己申告されても、人間の振る舞いをするだけの有機人形でも見分けが付かないですし
もちろん意識がある蓋然性は高いのでしょう(だとしても「ある」の代替にはならない)
しかしあると言っても「貴方は心身ともに正常ですが、意識については常人の千分の一です。殴られて痛いと振る舞ったとしても、常人の千分の一しか痛みを感じていません。ですので貴方の人権は大幅に制限されます。ハッキリ言って動物扱いです」と意識or苦痛定量化検査が出来るようになったら、そんなケースも(自分の直感とは異なりますが)あり得るでしょう

例え有感主義自体が普遍化したとしても「自分以外の意識は存在しないとする独我論者」は動物を殺して良いし「無生物でさえ意識っぽいものがあるとする汎経験説を支持する者」にとっては目の前のPCさえ弄れなくなる
支持する説によって行動が変わる倫理や道徳なんておかしいですよね?

鯨一頭と同質量の魚何万匹、どちらを殺した方が苦痛の総量が少なくなるのですかね?
意識が物理現象だというのなら、他の物理現象(生命、炎色反応、酸化反応、核反応等)を差し置いて何故『最重要視されなければならない』のですかね?

そんなどんな値もとれるような(どんな値かも決められない、どんな値かは個人的な価値観に依る)意識という訳分からんあやふやなものを基準にして普遍的なルールを構築すること自体が不公正だと私は考えます


>>31
無神論者が神という訳分からんものを道徳の基準にするなと批判するのと同じように、意識という訳分からんものを道徳の基準にするな、と批判しないのもおかしいと思います
「〇〇には十全な意識がある」上でしか語れないなら、「神がいる」上でしか語れない有神論者と同じ過ちを犯しているのではないでしょうか
無神論者が有心論者だなんて滑稽ではありませんか?

105横山:2017/12/27(水) 11:59:58
ウラサキさんの指摘、「「特に好きでもない動物へも拡張されます。これは、特定の動物好きという感覚から離れて、正義の観念に近いと思います。」
は論理学で言う「不当周延の誤謬」を犯している」
に興味をもちました。
僕の興味は、
1)この言説がアブダクションかインダクションかを見分けることによって、それが誤謬であるかどうかが判別できるものか、
2)しかし、倫理価値に関してアブダクションとインダクションをどうやって判別するのか、
3)そもそも、倫理価値なんてものに関してアブダクションとインダクションの違いがあり得るのか、
です。

この辺りの考察って、倫理学や論理学において誰かされてますかねぇ。

106夫 正彦:2017/12/29(金) 10:42:11
横山さん

まず、動物の権利論について考えるときに、もっと人間に近い動物から考えればどうでしょうか。
サルはどうでしょう。進化的にも人間に近いですし、原始的でしょうが意識もあるでしょう。同様に哺乳類も。
境界線の問題をうっちゃっておいても、これらの動物を配慮することはできるし、それでかなりの動物が救えます。
境界線の問題がはっきり決まってないからと言って、何も行動しなくてよいことにはなりません。

しかし、それ以上に範囲を広げていったときにもっと原始的な動物が意識を持つということはどういうことかはっきり
とわかっていない以上、科学的な事実と実行可能性を考慮して、合理的だと思えるラインを引かなければなりません。

動物の権利論者やビーガンは、もし、そういった昆虫などにも彼らの思想から配慮されるべきだと思える意識があった場合
のことを考えて、現時点ではいずれか決定づけるのは難しいとしても、予防原則により、広く配慮される方にラインを
引くようです。

もちろん、微生物や植物に意識、痛覚はない、とするのは大前提です。

意識とか、痛覚とか、適切な言葉がなかなか見つからないので、いい加減に使ってますが、痛みや苦しみを感じる能力
ということですね。

107夫 正彦:2017/12/29(金) 10:53:12
ウラサキさん

私が感情の動き、と言ったのは、>86の

>著者がヴィーガンになった理由は、つまるところ「動物が可哀想だから」、という事のようです。

というウラサキさんの主張の流れです。
ウラサキさんが、「しょせん感情的なもの」とおっしゃっているので、「感情的なもの」から理屈を組み立てていってもそれだけで間違っているわけではない、
と言っているのです。つまり、動物の権利論は感情を共有しないでも、納得しうるものだということを言いたいのです。
むしろ、動物好きが微妙なところで動物の権利論と齟齬をきたすことがあるというのは、シンガーの「動物の解放」にも書いてあります。

108夫 正彦:2017/12/29(金) 11:18:04
ボット様

他人に意識があるという前提で成り立っている、脳科学や、心理学を全否定してませんか?
ほとんどの人は他人に意識があることを疑いもせず、それを前提に生活していますが、そういう常識をもとに
道徳を組み立てるのは変ですか?

あと、人間の本性や傾向性を重視するなら、人間には異質なものを排除する傾向がありますが、そういったものも道徳に組み込むべきですか?
たとえば、人種差別です。

>例え有感主義自体が普遍化したとしても「自分以外の意識は存在しないとする独我論者」は動物を殺して良いし「無生物でさえ意識っぽいものがあるとする汎経験説を支持する者」にとっては目の前のPCさえ弄れなくなる
>支持する説によって行動が変わる倫理や道徳なんておかしいですよね?
これはどんな道徳にも言えることです。ある道徳基準を取るかは個人の自由であり、その道徳基準を採用しない人には何を言っても仕方がありません。

ボット様のツイートを少し読みましたが、反出生主義をライフスタイルみたいなものととらえて広めてらっしゃるように思えるのですが、
道徳を広めるのと区別がつきません。○○するべきだ、と強く言わないだけで。その反出生主義が国の政策に影響を与えた場合、その政策に反対されるのでしょうか
(例えば一人っ子政策みたいなもの)。

109ウラサキ:2017/12/29(金) 13:38:34
夫さん、

ですから、私は「感情的なもの」に「正義の観念」を持ち出したり、「理屈を組み立てて」も詮無い事ではないかと主張したい訳です。

ヴィーガンやジャイナ教徒の主張は理解すれども賛成はしない、というところでしょうか。
「ふ〜ん、この人たち、ゴキブリや蚊も可哀想って思うのか!僕ら全然気になりませ〜ん。」って所です。

「犬猫に対する同情心を、動物全体に広げるべし」という論理展開に不健全な所を感じます。
「動物中心主義」乃至「生命至上主義」とでも呼ぶべきある種のドグマです。

110夫 正彦:2017/12/30(土) 00:12:31
ボットさん

>104の前半部をきちんと読めてませんでした。
普遍化可能性のない道徳基準は個人的な道徳基準であるが、道徳基準の一種ではある、とありますね。

例えば、独身主義をライフスタイルとして実践している人が、それを広めたとして、
しかし、全人類を絶滅させるつもりがないのなら、これはやはり単なるライフスタイルであって、道徳基準ではありません。

すべての人が道徳基準に従う必要はないけれども、社会に広まって多くの人がその基準に従うようになる、と想定でき、
そしてその結果が望ましいと考えている、ことは道徳基準たリえる条件ではないか、と思います。

また、現時点での普遍化可能性を正しく見積もることは不可能です。人間の傾向性に反したように見える文化というのは
たくさんあります。いや、実はその文化も人間の傾向性に従っているのだ、という議論はできるかもしれませんが、
後付けの理由に思えます。

111ボット:2017/12/30(土) 04:35:33
>>108
人間がどのように振る舞うのか、その時人間の脳にどのような状態になるのか、という学問である心理学や脳科学は否定していません
しかし人間が人間のように振る舞うのは常識で事実でしょうが、人間が自分自身と同じように感じるのは常識ですが事実ではありません

そもそもアニマルライツが大多数の人間の常識と異なります
肉を食べるのが常識だから殺して食べても悪くないという結論を導き出しても良い(人間を殺すのが何故悪いかは別の問題)のなら、常識から道徳を導き出しても構いません
この常識から道徳を導き出しても良い、しかしあの常識からは道徳を導き出してはいけない、とするならばダブルスタンダードも甚だしくなります


>あと、人間の本性や傾向性を重視するなら、人間には異質なものを排除する傾向がありますが、そういったものも道徳に組み込むべきですか?
>たとえば、人種差別です。
>>58にある
>やはり自然主義的誤謬が気になりますね。人間の傾向性は道徳を考えるうえで
>考慮しなければならない重要な要素ですが、それに完全に従う必要はない。
というレスを返答の代わりとさせて頂きます


独我論を採るか汎経験説を採るか(あるいはそれ以外か)は事実が不明であるが故の個人的価値観です。「人間が自分自身と同じように感じるのは常識」というのも個人的価値観です
そりゃあ個人的価値観に何言っても仕方がありません
なので、個人的価値観を含まざるを得ない有感主義という道徳基準より、含まれる個人的価値観がより少ない道徳基準の方が正しい、と私は考えています
「含まれる個人的価値観がより少ない道徳基準」は>>73にてレスしました。この道徳基準の根幹であるヒトの報復能力は個人的価値観ではない事実ですよね?
(ちなみに報復能力を基準にするとヒトならば哲学的ゾンビにも遜色ない人権を与えなければなりません。苦痛感受能力を基準にする有感主義だと権利を与える必要がないのでしょうが。『検査した結果ボットさんは哲学的ゾンビなので人権は剥奪されます』と言われるのが嫌なのも有感主義に反対する理由の一つです)


産児制限政策についてですが個人的な意見を申し上げます
私の生んではならないとする理由は個人的な価値観に依るものです。事実に基づいた合理的な理由が提示されて政策を実施しなければならない、と考えたなら賛成します。そうでないなら反対します


>>110
>すべての人が道徳基準に従う必要はないけれども、社会に広まって多くの人がその基準に従うようになる、と想定でき、
>そしてその結果が望ましいと考えている、ことは道徳基準たリえる条件ではないか、と思います。
完全菜食不可能体質者の存在が不明である以上『社会に広まって多くの人がその基準に従うようになる、と想定でき』ないので、現在ではアニマルライツも道徳基準たりえない、という結論に至ってしまいますが、宜しいでしょうか?
無理やり想定することは出来ますが、それは事実に基づかない夢想と変わりありません

112ボット:2017/12/30(土) 04:39:16
>>111
修正します
誤「人間が自分自身と同じように感じるのは常識」というのも個人的価値観です
正「人間が自分自身と同じように感じる」というのも個人的価値観です

113横山:2017/12/30(土) 16:31:23
>>111 『検査した結果ボットさんは哲学的ゾンビなので人権は剥奪されます』と言われる

面白い。確かに、聾盲の人の人権がいわゆる健常の人より劣るなんてことはありそうにない。

114夫 正彦:2017/12/30(土) 16:47:35
ボット様

私は自分以外の他人にも意識がある、つまり人間には意識がある、というのは常識であると言ったのです。
肉を食べるのは常識、と意味が違いませんか?

常識という言葉に引っかかったのかもしれませんが、きちんと説明すれば、心理学や脳科学学問的前提として、
その存在が認められているもの、と言い換えてもいいかもしれません。

そこまで厳密に議論しなくとも、我々は普通に相手に意識があることを当たり前のものと考えて生活しています。
我々が生活を豊かにするために用いる道徳基準にこの当たり前のことから出発するのはだめなのでしょうか。

この辺りは、もしボット様が意識の懐疑主義に陥ってらっしゃるのなら、それに対しておそらく議論できないん
じゃないでしょうか。

>73の報復能力ですが、確かに報復能力があるのは事実かもしれませんが、それがボット様のおっしゃるような
社会的機能を果たしたというのはあくまで仮説です。

哲学的ゾンビなんて見つかってませんし、どうやって検査するのです?

とにかく、現時点で道徳に科学的根拠をきちんと求めるにはわかっていないことも多いので、とにかく個人的
価値観かもしれないが、信じているものについて広める努力をして社会のなかでいろいろ議論しつつ、一つの
道徳基準として広まればよし、広まらなければ消えていくだけ、という立場です。自分の信じていることが
絶対的に正しいと思っているのか、と問われればそうとは言えません。しかし、対する思想よりかは、正しそうだ
とは思っているので、広めるよう努力したいし、これからも主張していきます。

>私の生んではならないとする理由は個人的な価値観に依るものです。事実に基づいた合理的な理由が提示されて政策を実施しなければならない、と考えたなら賛成します。そうでないなら反対します

もしそうなら、どうしてbotを運用して、不特定多数の人に自らの主張を広める努力をしているのですか?
理解できません。

>完全菜食不可能体質者の存在が不明である

それは科学的主張ではありません。栄養学的にビーガンは問題ない、とアメリカ栄養士会が声明を出している以上、
それに対する反論はきちんとしたデータをもって科学的主張の形をしてなされるべきです。
アメリカ栄養士会がするべきだ、と言うのではなく、その声明に反対する立場の研究者がきちんと調査をして
論文を出すべきです。すでにそういう研究はあるのかもしれませんが、多くの研究者のコンセンサスを得るところ
までになっていないでしょう。
だから現時点では、アメリカ栄養士会の声明は科学的なものとして、それを根拠にしてもかまわないと考えます。
たとえ、完全菜食不可能体質者が存在したとしても、無理に完全菜食を続ける必要はないのですから、特に問題は
ありません(それほど健康を害する人はいないだろうという意味です)。
「完全菜食不可能体質者の存在が不明である」というのは、絶対的に確実なことを言えない科学の弱みを利用した
ミスリードな主張です。

明らかにわかり切った結論のために調査をしないというのもあるでしょう。その場合、その結論に反するような
信用できる材料が蓄積された時に、新たに調査をするというモチベーションが出ます。そこまで行っていない
ということじゃないでしょうか。

なるべく、ボット様の主張のすべてに、意見をつけようとしていますが、見逃しているものもあるかもしれません。
指摘していただければ幸いです。

115横山:2017/12/30(土) 17:48:19
>>113
しかし、
僕ら人間よりもよりも段違いに細かで敏感な意識を持つインベーダーがやってきて
人間の意識のレベルの低さからその権利を制限すると言い出したとしたとする。
そのとき、そのインベーダーに「権利は意識レベルによって変わらない」と主張しても
その主張はそのインベーダには届かない。
それなら、種を超えた権利を考えるときの、権利を主張する正当性って、どういう意味があるのだろうか。

116ボット:2017/12/31(日) 17:41:03
>>114
夫さん
いつもご丁寧にレスをありがとうございます

私も人間や動物にも(現象的)意識はあるという個人的価値観を持っています
しかしこの共通認識を道徳基準にしなければならないのか、はまた別の話です
確かに人間も動物も苦痛を避ける習性を持ち、それが自然であるのですが、そこから他者の苦痛を避けるべし、とはなりません
これは『事実から当為は導けない』というヒュームの法則ですよね

科学的根拠なら私は厚生労働省の「日本人の食事摂取基準(2015年版)策定検討会」報告書も提示します
この報告書によると健康的な成人は動物性たんぱく質が一日40〜50g必要です
肉を食べるのは常識、というのは少なくとも日本では栄養学や生化学学問的前提として、その存在が認められています
つまり『意識を持つ』という常識も『肉を食う』という常識も同列です

厚生労働省HP
ttp://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000041824.html
たんぱく質について
ttp://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000042630.pdf

日米で見解がこうも異なっているのだから、完全菜食不可能体質者の存在が不明だと私は判断し、実地検証においてしかそれを確かめる術はないだろうと考えています
これは資料に対する個人の信用度の差なので、これ以上は水掛け論かもしれません
私の考えとしましては、ヒトの食性は肉食雑食(両方食べなければならない)草食で別れているのではないかと思います。ヴィーガンの存在を否定してはいません


では意識を道徳基準にするという結論を得るためにインダクション(帰納)やアナロジー(類推)、アブダクションを使っているかと考えるとどれも違うと思います
植物人間や無脳児など、人権を持つ意識を持たないと思われるヒトが存在を無視できないからです

動物の権利自体はアナロジー(類推)で導き出せるでしょう

<前提1>
ヒトは権利を持つ。
<前提2>
動物はヒトと似ている。
<結論>
 (たぶん)動物は権利を持つ。

しかしアナロジーでは権利を持つ『条件』を示せても『権利を与えなければならない理由』は依然として不明なままです
更にこうも推論が可能です

<前提1>
ヒトは権利を持つ。
<前提2'>
Aはヒトと似ている。
<結論'>
 (たぶん)Aは権利を持つ。
(Aは任意)
Aに無生物を入れて、陽子と電子と中性子で構成されている点で似ている、としても構わない訳です

wikiの帰納について記事
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D

何故ヒトの持つあらゆる性質の中で、意識という現象が共有されているので特別扱いしなければならない=意識を道徳基準としなければならないのでしょうか?



ツイッターの活動ですが、初期はそれこそ不特定多数の人に自らの主張を広める努力をしていたのですが、他の方と交流している内に今の考えに変わりました
現在は削除する積極的な理由がないので放置している状態です

117出口:2018/01/03(水) 14:18:15
お久しぶりです。
7日、出席してよろしいでしょうか?

118ウラサキ:2018/01/03(水) 17:51:01
お〜、出口さん、勿論です。
読書会の方でもお待ちしておりますので、
気が向いたらいつでもお越し下さい(^^)

119出口:2018/01/03(水) 19:13:25
ありがとうございます
宜しくお願い致します (^^)

120夫 正彦:2018/01/04(木) 14:44:18
ボット様

返事遅れましてもうしわけございません。
正月遊び惚けてました。

「日本人の食事摂取基準(2015年版)策定検討会」について
栄養学とかまったく無知なので、ざっと見たところですが、
たんぱく質をすべて植物性でとるという視点自体存在しないのではないですか。
日常的に我々はたんぱく質を動物性から多くとるので、動物性のたんぱく質で
計算しているだけで、たんぱく質は必要不可欠であるけれども、それを必ず
動物性で取らなければならない、とまでは書いていないような気がします。
基準策定に菜食主義者の場合を想定してはいないでしょうから。

動物性(良質)たんぱく質とあるところから、動物性たんぱく質の方が
たんぱく質を摂取するのに効率がいいのでしょう。確かに、菜食でたんぱく質
を多く摂取するのは結構手間ですから(豆とか豆腐とか)。

意識を基準とするというのは、ちょっと誤解されやすいのかも。定義がきちんと
なされていないし、人によっては人間のような高度な精神を持つことを意識と
しているようですし。

より複雑な意識という意味では、人間の方が他の動物より高度な意識を持っています。
赤ちゃんのように、言葉がしゃべられなくて、多くのことが考えられないように思える
存在でも、何らかの意識は存在するでしょう。で、そのくらいのレベルの意識なら、
多くの動物が持つというのは科学的に推定されているところです。そもそもは、痛み
を重視するところからきていますので、そういう原始的な意識の中の痛みという機能、
そのために、動物も配慮すべきだ、という考えなのです。

そもそもは、どうして配慮されるべきなのは人間に限るのか、という問いからきています。
どうしてなのでしょう。おそらく人間のある属性が、人間を特別視させているのでしょう。
アニマルライツ論者はその人間を特別視させている根拠があやふやなもので、単なる
人間の傾向性に根差したものだ、と考えます。配慮する、配慮されるの再開を、どの基準
にすればいいのかと言えば、そこで痛みを感じる能力が出てくるわけです。

人間という種で差別する考え方への疑問を共有できて、しかし、痛みを感じる能力という
基準が納得できないのなら、じゃ、どの基準がいいのでしょうか。また、種差別への疑問
が共有できないのなら、どうして人間という種で差別しなければならないのでしょうか。

それを、傾向性以外の理由(傾向性は絶対的な理由にならないと考えるので)で説明して
いただきたいのです。

私は、最近ベネターの翻訳本を読みまして、アンチナタリズムの考えに触れました。
どちらかと言えば私は、生命至上主義的なところもあって、反発を覚えるところも
多かったのですが、いまでは、かなりアンチナタリズムの考え方に傾いています。

ボット様がツイッターの活動について、そういうことをおっしゃるのは少し悲しい気持ち
がします。

121ボット:2018/01/04(木) 21:49:20
>>120
夫さん

菜食という視点があろうがなかろうが、『肉を食う』のが日本政府公認の栄養学的生化学的常識であり、この常識からアニマルライツは否定されるでしょう
(肉を食わなければならないのは事実と異なる、と仰られましても、今問われているのは事実ではなく常識ですので、常識の範囲内で答えます)
また、意識があるという常識を根拠にしたアニマルライツと矛盾を起こすので、道徳基準に常識という当たり前から出発するのはだめ、というのはご理解頂けたかと思います

報告書を見ますと、菜食について触れていない訳ではないようで、マンガンとモリブデンの過剰摂取が懸念されているようです


>そもそもは、痛みを重視するところからきていますので、そういう原始的な意識の中の痛みという機能、そのために、動物も配慮すべきだ、という考えなのです。
反出生主義が『生物は生み育てるのが自然だからそうすべきである』という主張を自然主義的誤謬として退けたのと同じように、
『ヒトを含めた動物は苦痛を避けるのが自然だからそうすべきである』という主張を自然主義的誤謬として退けます

>アニマルライツ論者はその人間を特別視させている根拠があやふやなもので、単なる人間の傾向性に根差したものだ、と考えます。配慮する、配慮されるの堺を、どの基準にすればいいのかと言えば、そこで痛みを感じる能力が出てくるわけです。
現在では配慮する基準が明確にされていない、というのは同意します。ただしアニマルライツ論者が苦痛感受能力を基準にするのは勝手過ぎます
理由もなく苦痛という現象を重視するというなら、理由もなくホモ・サピエンスという現象を重視するのと同じ間違いを犯しています

>それを、傾向性以外の理由(傾向性は絶対的な理由にならないと考えるので)で説明していただきたいのです。
ヒトの傾向性自体は理由にはならないかもしれませんが、ヒトの傾向性が引き起こし得る事態は理由になるでしょう
(事実自体はヒュームの法則から当為を導き出せないが、事実が引き起こす事態も理由になると私は考えます)

私の主張することは以下の一文で表せます
『ヒトを配慮しなかったら配慮しなかった者に危害を及ぼす過大な報復能力を持つ生物群だ。故にヒトを配慮せざるを得ない。配慮しなければならない』
ヒトに危害を及ぼす、というのがヒトの傾向性が引き起こし得る事態です
これが私の総論になると思います

夫さんに質問です
『痛みという機能をもつ存在に配慮せず、痛みという現象を発生させるとヒト・動物・その他問わず〇〇だ(orになる)。故に痛みという機能をもつ存在に配慮せざるを得ない。配慮しなければならない』
上記の文の〇〇に入る文を答えて、苦痛感受能力を持つ存在を配慮しなければならない『理由』をトートロジーにならずに解説して下さい
痛みという現象を発生させるとどういう事態に陥るのか(あるいは陥らない・無関係なのか)、説明して下さい
1/7の討論まで時間が少ないので、上記に絡めて夫さんも簡単な総論をお願いできるでしょうか?


生命主義も有感主義もそれぞれ生命という現象・苦痛という現象を基準にする『せざるを得ない理由』を欠いた個人的価値観だと思っています

ツイッターアカウントについては移譲というのも手かもしれません。興味ない人よりある人に運用してもらった方が良いと思うので
移譲について協力して頂けるなら、ダイレクトメールをお願いします

122夫 正彦:2018/01/05(金) 11:26:19
ボット様
「『肉を食う』のが日本政府公認の栄養学的生化学的常識」とまでは言えなくて、単に菜食という視点が入っていないだけではないでしょうか。
菜食者が多くなって、菜食のスタイルに触れざるを得なくなれば「菜食者の場合はこれこれの栄養素が必要」となるだけの話ではないでしょうか。
(もちろん、「菜食者には必要な栄養素が確保できず、勧めることはできない」という結論が出る場合もあります。しかし、現時点では、そのような
結論を読み取ることはできません)

動物には意識があるというのは常識ですが、多くの生物学者も持っている常識であり、科学的な推定によって補強されています。
逆にいえば、この推定を反証する科学的事実は存在しません。例えば、常識から出発した道徳基準でも、その常識が科学によって否定されれば、
その道徳基準は信頼性を失うでしょう。

『ヒトを含めた動物は苦痛を避けるのが自然だからそうすべきである』そんなことは言ってません。いわゆる藁人形論法です。
アニマルライツが痛みを重視して、動物に痛みを与えないよう配慮すべきと主張するのは、「自分の嫌がることは人にしてはいけない」という道徳原理や
功利主義的視点からです。

>理由もなく苦痛という現象を重視するというなら、理由もなくホモ・サピエンスという現象を重視するのと同じ間違いを犯しています
人間が勝手に設ける基準ですから、恣意的なのは恣意的です。しかし、配慮を人間だけにするという基準よりも合理的だと考えます。しかし、ほかにもっと
合理的な基準があるかもしれないとの可能性を否定はしていません。

>私の主張することは以下の一文で表せます
>『ヒトを配慮しなかったら配慮しなかった者に危害を及ぼす過大な報復能力を持つ生物群だ。故にヒトを配慮せざるを得ない。配慮しなければならない』
>ヒトに危害を及ぼす、というのがヒトの傾向性が引き起こし得る事態です
>これが私の総論になると思います
これが、どうして痛みを基準にするよりも合理的だと考えるのか、理解できません。歴史的な事実を根拠にしているのかもしれませんが、あくまで仮説ですし、
すでに述べたように反論がいくつも思い浮かびます(>75とか>77とか。リンクの貼り方がわからなくてすいません)。

>『痛みという機能をもつ存在に配慮せず、痛みという現象を発生させるとヒト・動物・その他問わず〇〇だ(orになる)。故に痛みという機能をもつ存在に配慮せざるを得ない。配慮しなければならない』
>上記の文の〇〇に入る文を答えて、苦痛感受能力を持つ存在を配慮しなければならない『理由』をトートロジーにならずに解説して下さい
すいません、主旨がよくわからなくて。
痛みという現象を発生させると、私や一部の人は不快になりますが、それだけじゃダメなんでしょうね。もっと多くの人に不快になってほしい、ために運動(主張)しているともいえる。

>生命主義も有感主義もそれぞれ生命という現象・苦痛という現象を基準にする『せざるを得ない理由』を欠いた個人的価値観だと思っています
ボット様のおっしゃっている主張も個人的価値観じゃないのですか?個人的価値観を広めて、ある程度普遍性を獲得すれば道徳基準になるという考え方はだめですか。
それまでは、厳密に普遍性を獲得できるかどうかはっきり証明できないのですから。広めることができないと、個人的価値観を誰にも話すな(逆にいえばだれにも話せないのが
個人的価値観)になりかねません。つまり、言葉はどうあろうと、やることは変わらない。おそらく、かなりアグレッシブに人を裁くようなものいいをしているビーガンやアニマルライツ
主義者を批判したいがために、そうおっしゃっているのかなとも思います。

>ツイッターアカウントについては移譲というのも手かもしれません。興味ない人よりある人に運用してもらった方が良いと思うので
>移譲について協力して頂けるなら、ダイレクトメールをお願いします
了解しました。しばらく考えてから、ダイレクトメール送ります。

123ボット:2018/01/05(金) 18:14:14
>>122
夫さん

外から観測できる機能的意識については自明ですが、私がヒト動物に備わっているか不明だと訴えているのは現象的意識の方です
現象的意識は観測方法がないのだから、あるかないか分からない、とするのが正しい答えなのでは?
アニマルライツの指す意識って観測可能な機能的意識のみで宜しいでしょうか?


>痛みという現象を発生させると、私や一部の人は不快になりますが、それだけじゃダメなんでしょうね。もっと多くの人に不快になってほしい、ために運動(主張)しているともいえる。
ある現象はある人間にとって不快だからやめろ、ある現象に不快になれ、は理不尽過ぎますね
>たとえ、完全菜食不可能体質者が存在したとしても、無理に完全菜食を続ける必要はないのですから、特に問題はありません
>>114で仰られましたが
完全菜食不可能体質者は自身では変えられない生得的な体質により、アニマルライツ論者を不快にすることを避けられない、ということで宜しいですね?
つまり特に問題はありません、は間違いです
実在を確かめる術はあるのに確かめもせず、いない、という前提で不快だという感情を推し進めれば新たな差別が現れかねません
生得的な餞民⇒新しい差別を生み出す「倫理・規範」が在り得るならば、それが如何にしてそうなのか、説明して頂けますか?

そしてもし、夫さんが多大な努力を行い、しかし完全菜食に失敗し、自身が完全菜食不可能者以外に考えられない体質だと考えたなら、アニマルライツの考えは変わりますか?
自身は動物の権利を支持しながら動物の権利を侵さねば生きていけない体質をどう考えますか?
動物の権利を侵さねば生きていけない人間が居るとした上で、普遍的に動物の権利は守られると思いますか?
完全菜食は全人類に可能「かもしれない」とか、将来それが常識化する「かもしれない」などの願望をディスプレイされても論点先取です


>おそらく、かなりアグレッシブに人を裁くようなものいいをしているビーガンやアニマルライツ主義者を批判したいがために、そうおっしゃっているのかなとも思います。
これは多分そうです。熱くなって申し訳ありません

ダイレクトメッセージの件はお待ちしております

124ウラサキ:2018/01/05(金) 20:46:09
ボットさん、夫さん、

私を含め、この掲示板の書き込みを楽しみに読んでいる人も居るかと思いますので、
移行などせずに、ここでやり取りを続けられたら良いかと思います。

125夫 正彦:2018/01/05(金) 21:29:17
ウラサキさん

ボットさんが運営しているアカウントの委譲のことなので、議論を別の場所に移すという意味ではありません。

126横山:2018/01/05(金) 22:34:54
新しい疑問です。
ビーガンと言えども、動物虐待と人への虐待には差をつけて考えますよねぇ。

例えば、人命が何より優先するとする人と殺人者が価値対立したとして、どんなに力負けして誰かが殺されそうになってもその殺人を許すことは、まずないでしょ。自分の仕事を投げ捨ててでも救おうとするだろう。
一方、動物も含めて意識をもつ命を何より優先すべきだとする人と肉食をする人が価値対立したとして、鶏が締められて食べられそうになったとき、自分の仕事を投げ捨ててでも救おうとするだろうか。その対応に差があるとしたら、それは、アニマルライツ擁護派と言えども、人権とアニマルライツには差があって然るべきだと考えているということではないでしょうか。

つまり、アニマルライツ擁護主義者自身も、アニマルライツ擁護の度合いは人それぞれであって良いし、実は、人と動物への対応にも様々な差があって良いと考えてるのですよね。

127夫 正彦:2018/01/06(土) 10:17:24
機能的意識と現象的意識をこの問題で区別することに意味があるとは思えません。
現象的意識が不明ならどうなるのでしょうか。また、科学者の中には現象的意識が動物にも存在すると思っている人がいるかもしれません。
哲学としては面白い議論かもしれませんが、道徳の実践の上では意味がありません。

私たちは普通に他人に意識が存在することを前提にしていますし、動物にもそうです。しかもそれを否定する科学的証拠もありません。
それを道徳の根拠にするのは弱い、とおっしゃるのは勝手ですが、私はボット様の主張も科学的にきちんと根拠づけられているとは思いません。


>ある現象はある人間にとって不快だからやめろ、ある現象に不快になれ、は理不尽過ぎますね
前の投稿にも書きましたが、ボット様の定式化の目的がよくわからず、強いて書きました。
その定式化に当てはまらなければ道徳基準たりえないのでしょうか。それはどうして?

また、不快になれ、などと無理強いはしません。理屈をもって説得すれば多くの人は不快になるだろうし、そうあってほしいと思っているだけです。
多くの差別問題が昔は誰も不快にはならない問題でした。しかし、人権意識や差別はよくない、という意識が広まるにつれて、多くの人が不快に思うように
なりました。そういうところを目指しています。

私は、道徳の実践は”できる範囲で”というところを重視します。なので、特にアニマルライツなどは、どんな時代、どんな場所でも
必ず実践できるようなものではないと思っています。そういう意味では、さほど普遍的なものではありません。しかし、少しの努力で
できるのなら、特に先進国の恵まれた環境で生活している人なら、実践すべきです。

「実在を確かめる術はあるのに確かめもせず」というのは、実在するかもしれない、と考える側です。挙証責任を持つ側を誤ってはいけません。
調査しなくても科学的に明らかだ、と考えているのですから、調査するインセンティブがありません。

ある道徳が目指す世界が、完全にたどり着くことができなくても、それに向かってできるだけの努力はするのはありだと思います。

>そしてもし、夫さんが多大な努力を行い、しかし完全菜食に失敗し、自身が完全菜食不可能者以外に考えられない体質だと考えたなら、アニマルライツの考えは変わりますか?
>自身は動物の権利を支持しながら動物の権利を侵さねば生きていけない体質をどう考えますか?
一かゼロかで物事を考えるのはやめましょうよ。完全に理想が達成できなければ、無意味なのでしょうか。
現在の科学的知見からして、こういう想定はおそらくできないだろうと思っています。よく考えてください。完全菜食不可能者がいるとわかった時点で、
単に完全菜食不可能者には完全菜食可能者に比べて+αの栄養素が必要だ、ということが判明するだけじゃないですか?言いたいことはわかりますね。
サプリメントで補給すればいいのでは?それでも動物を殺して食べないと生きていけない人がいる可能性がある、と言い張るのは、トンデモに近い発想だと思います。


最後にアグレッシブなビーガンや動物権利論者について私の意見を書きます。
私は動物権利論はおおむね正しいと思っていますが、ビーガンでない人や反動物権利論者に対し攻撃的な態度をとるべきではないと思います。
どうしてかと言えば、そうやっても得るものは何もないからです。道徳を広めるには、説得するしかない。攻撃して、激しい言葉で批判しても態度を硬化させるだけです。
ただ、動物権利論者やビーガンは反対者から激烈な批判を浴びせられることが多いのも確かで、売り言葉に買い言葉になることはあるかもしれません。
それは仕方のないことでしょう。しかし、そうでもないのに、普通に何も考えず肉を食べている人を激しい言葉で批判するのは、益がないことです。

とはいえ、動物の権利を固く信じて、人間と真に同等に思い込めば、家畜の置かれている環境や屠殺場は、アウシュビッツのような強制収容所と同じものになります。
日々殺されたり、過酷な環境にあえぐ家畜たちがいるのに、それに対し何もしないのは、ユダヤ人を見殺しにしている当時の世界の多くの人々と同じような無関心
に移ります。激烈な言葉の裏には、こういう考えがあるように思えます。だから、一概にそういう人たちを穏健な考えの私としても批判できないのです。

128夫 正彦:2018/01/06(土) 11:24:53
横山さん

そう思うアニマルライツ主義者はいるでしょう。現状との乖離がはなはだしい、というだけで、そういう人たちは、人権とアニマルライツとを同等のものと考えていると思います。
逆に、人間の胎児や乳児を動物と同様に扱ってもいいというなら(食べるというニーズはあまりないでしょうが、生体実験にはあるかもしれない)、同等と扱うことに首尾一貫性があります。

知性によって要求されるものは異なるし、苦痛と思えるものも知性があれば複雑になります。人間が動物より知性があるのは当たり前なので、人権と動物の権利は違って当然です。
だから、違ってしかるべきだとはほとんどのアニマルライツ主義者は思っているけども、どう違っているべきか、と生命の価値についての観点について、意見は違っているでしょう。

129ボット:2018/01/06(土) 18:06:44
夫さん
>>127

>その定式化に当てはまらなければ道徳基準たりえないのでしょうか。それはどうして?
『せざるを得ない』と『そうした方が良い』が対立した時、『せざるを得ない』が優越される、という単純な話です

例えば動物の解放を書いたピーターシンガーは認知性に掛かった自身の母親に対して治療費を充てています
苦痛感受能力を基準にすれば、治療費を母親より他人や野良犬に充てるべきにも関わらずです
しかしながら最要点は「シンガー個人が貫けなかった」という事ではありません。同じ事は誰にも出来ない
シンガーの立場として母親を見捨てられますか?
シンガーには姉がいますが、彼女が経済的理由で治療費を払えず、母親をみすみす死なせてしまったとしたら、
シンガーの姉の立場として、反種差別の為にシンガーに見殺しにされたという感情を我慢できますか? 他の親族に反種差別の為だから仕方がないと説明して納得させられますか?
川に溺れる野良犬と新生児でも変わりません
親族友人等の報復可能性を鑑みれば、例え認知性・新生児・知的障害者でも動物より優先せざるを得ない
人間を優先しなかった、ということを悟られてはいけない、人目を隠れてしか行えない道徳倫理とは?
(シンガー自身は反種差別に絶対的に従えなんて極端なことを要求しているようではないですが、妥協するならやはり種差別主義者の一員です)

故に苦痛感受能力とか意識とか無関係に、反種差別は道徳基準として成り立たない、と主張しています
ここで、もしヒトがヒトを特別扱いしない反種差別社会になったとしたら「動物の為にヒトの生存権を無視してもいい」という驚きの「ヒト社会」誕生です


>単に完全菜食不可能者には完全菜食可能者に比べて+αの栄養素が必要だ、ということが判明するだけじゃないですか?言いたいことはわかりますね。
仮に不足栄養素がなかったとしても、消化吸収、再合成が阻害されたら、健康を害します
大豆や穀物に多い植物性の抗栄養素や糖質・食物繊維への体質的な不適応が判明するでしょう
菜食に重要なそれら食物を過剰に食べられないのなら、それらを含まない食物、つまり動物性に頼る他ありません
(ちなみにボディービルダーが摂取しているようなプロテインの原料は牛乳か大豆です)

栄養なんて生存に必要ってだけの化学物質です
エチルアルコール(酒精)にも分解能力に個人差があるように、栄養という化学物質にも(栄養と一緒に摂取される抗栄養素その他も)それぞれ分解・吸収・再合成・耐性に個人差があると考えるのは自然では?
血液型のように、向き不向きがあってもおかしくありません
その個人差と不適応者の数々、及びヒトの食性は肉食よりだろうことから鑑みて、ヴィーガンの方が少数派だと私は思っています
(ヒトが肉食、という話はあくまで傍証です。祖先が肉食ってきたから食べていい、という話ではなく、肉食ってきて脳を発達させる代わりに腸を短くして草消化能力を捨てていったが故に、肉を食わなければ生きられない、という話です)

===
人類は「スカベンジャー(腐肉食)」として進化してきた?(最新研究)
ttp://tocana.jp/2015/03/post_5993_entry.html
人類の大脳への進化をもたらす脳と腸のトレードオフの関係
ttp://nikutai-shinka.com/post-452

日本のベジタリアン率は4.7%、うちヴィーガン率は2.7%。柔軟な菜食「フレクシタリアン」が増えている。攻撃・抑制に重きを置くのではなく、本当の”おいしい”を見つけよう。
ttp://macrobiotic-daisuki.jp/hurekusitarian-50731.html

長いので二回に分けます

130ボット:2018/01/06(土) 18:10:49
>ある道徳が目指す世界が、完全にたどり着くことができなくても、それに向かってできるだけの努力はするのはありだと思います
それには同意します
しかし完全に辿り着けない理由があれば、結局は強い動物の福祉止まりとなり、動物の(人間に利用されない)権利は達成されませんよね?
動物の権利という道徳には、道徳以外の阻害する理由が解消されなければ達成できると言えないのです
動物の権利は可能なのか? 動物の福祉までしか出来ないのか? の話を続けてきたつもりです。つまり一(動物の権利)か一未満(動物福祉)かを問い続けています
何度も言いますが、動物福祉まで否定してません
しかし動物福祉にも動物性が必要な人数が分からなければ、どのぐらいまで推し進めて良いものかも不明です


証明責任という話であれば、動物の権利は達成できると主張するアニマルライツ論者が>>68の供給量≧必要量を証明するべきでしょう
>それでも動物を殺して食べないと生きていけない人がいる可能性がある、と言い張るのは、トンデモに近い発想だと思います。
上記の抗栄養素等の話を参照
私にも確実なことが分からないので確かめてみてくれ、という話です。完全には辿り着けない理由=動物の権利が不可能な理由を消去してくれさえすれば、晴れて動物の権利が実行可能と分かります
ただ『客観的証明となるアメリカ栄養士会監修・無作為抽出での適応検証だけが真偽を決める、真偽不明なままの前提に理屈を重ねても嘘だ』と

インセンティブという話であれば、社会全体を動かす動機付けの確証が必要な筈なのに、権威や資金人員を動員可能なのに検証しないままでは、不適応者実在を盾にした大多数の動物福祉で十分に押し切られて動物の権利という理想は実現し得ない空論のままになります
理論的には誰にでも出来るはず(但し出来ない実例が現実にコロコロ見受けられる)(今のままで健康に問題無い)じゃ自分もやろう、とは思えません
偉い先生が出した仮説と只の人間でも分かる理論に明確に反する現実の数々、どちらをとります? 
私は現実の方が真実に近いと考えます。もちろん、確かな検証とそれに反する現実の数々なら、前者を採るでしょう

「みんなヴィーガンになれる」というアメリカ栄養士会の主張は引用した数々の検証された論文から導き出された仮説であり、『総合的な検証』が為されてない今、それを真実として使うのは科学的ではありません
検証も無しに仮説がどう正しいと証明出来るんですか?
例えば、規格が全て正しい部品を組み立てた自動車が正しく動くでしょうか?
製造業に務めているので痛感するのですが、正しく動くとは限らないんです。エンジン掛けて検査しなければ、動くかどうかも不明です
車検証のない自動車が、何故安全と言えるのでしょうか?
それと同じこともアメリカ栄養士会の主張で言えます
検証されているのは、あくまで引用されている各論文です。主張自体は検証されていません。仮説としては認めますが、理論としては認められません
検証なされてない主張を根拠にすることこそが、トンデモです
(まあアメリカ栄養士会の『立場(Position)』であって論文でないので、検証するつもりがないと言われれば、そうですが)


動物の権利として根拠に使われる反種差別を否定
動物の権利を今のところ出来るかどうか不明だから否定
動物の福祉は否定せず、です

動物の権利と、その根拠である反種差別をごっちゃにレスしているので、見にくいかもしれません
本当に長くてすいません

131横山:2018/01/06(土) 22:02:00
>130
一は権利、一未満は福祉。
なるほど。すごく面白いです。
はじめは、夫さんとボットさんのやりとりには、正直あまり興味をもってなかったのですが、だんだん論が見えてきて面白く思えて来ました。できれば明日が終わっても続けてほしいです。

132夫 正彦:2018/01/06(土) 23:30:06
>『せざるを得ない』と『そうした方が良い』が対立した時、『せざるを得ない』が優越される、という単純な話です
申し訳ございません。やっぱり理解できない。うっちゃっておきます。

>例えば動物の解放を書いたピーターシンガーは認知性に掛かった自身の母親に対して治療費を充てています
その話は初耳ですが、当然では。
認知症は普通痛みを感じると思いますよ。動物の方が配慮されるべきだとは思いません。同様に配慮されるべき、でしょうね。
また、親族の面倒を見るというのも道徳の一つです。シンガーがそれを軽視しているかどうか知りませんが。

>親族友人等の報復可能性を鑑みれば、例え認知性・新生児・知的障害者でも動物より優先せざるを得ない
親族友人等がいなかったら、動物を優先してもいいということですか?

>ここで、もしヒトがヒトを特別扱いしない反種差別社会になったとしたら「動物の為にヒトの生存権を無視してもいい」という驚きの「ヒト社会」誕生です
なんか変です。動物のために人の生存権を無視してもいいって誰が言ってるのですか?同じように生存権を尊重せよというのがアニマルライツの主張ですよ。

アニマルライツ論者が限界事例を持ち出すのは、そういうところにあります。限界事例の人を知性がないからと言って殺したり、虐待したりできますか?
できないでしょ?だから動物も同じように扱われるべきなのです。

>仮に不足栄養素がなかったとしても、消化吸収、再合成が阻害されたら、健康を害します
>大豆や穀物に多い植物性の抗栄養素や糖質・食物繊維への体質的な不適応が判明するでしょう
>菜食に重要なそれら食物を過剰に食べられないのなら、それらを含まない食物、つまり動物性に頼る他ありません
その可能性はあります。しかし、根拠がありません。今までにそういう事例が発見されていないのも不思議です。
念頭に置く必要はあるでしょうが、今のところはアニマルライツを推し進めるのに障壁になるようなものではないと思います。

代替肉の開発とか、科学技術の発展にも期待しています。仮に完全菜食不可能者が発見されたとして(そういう調査をするなと言っているわけではありません)
詳細が分かれば、何らかの対策が打てるかもしれません。挙証責任の話は別のところで。

どうも科学的によくわかっていない事柄を推測に推測を重ねて完全に目的を達成できないと結論を出しているように思えます。
まず、達成できなくてもやる意味はあります。今より動物たちの苦痛が少なるわけですから。
さらに、よくわかっていないからと言って、やらないという理由にはならない。分かっていることからだけでもやる意味はあります。

>その個人差と不適応者の数々、及びヒトの食性は肉食よりだろうことから鑑みて、ヴィーガンの方が少数派だと私は思っています
前半の理由から、どうして少数派だという結論が導けるのかよくわかりません。印象のレベルでしょうか。


>人類は「スカベンジャー(腐肉食)」として進化してきた?(最新研究)
>ttp://tocana.jp/2015/03/post_5993_entry.html
これ、原人についてですね。原人から新人への進化についてはよくわかってませんので、あまり重視しない方がいいと思います。

133横山:2018/01/06(土) 23:51:26
例会が行われる前にここまで盛り上がったのは初めてなので、色々な意味での試行錯誤な面がありますね。
アイマルライツの内容面でも興味深く感じてます。たくさんの人が発言しやすいテーマですし、活発な議論になりそうで楽しみ。
また、事前の議論の深まりがどこまで深められるかとか、それを参加者みんなでどこまで共有できるかってことも興味津々です。

でも、夫さんにはきついしがらみも深まってしまった面もあるでしょうから、あまり事前の議論にとらわれずに自由に進めてもらった方が良いようにも思います。

134夫 正彦:2018/01/07(日) 00:31:38
>しかし完全に辿り着けない理由があれば、結局は強い動物の福祉止まりとなり、動物の(人間に利用されない)権利は達成されませんよね?
その通りです。で、ボットさんは完全にたどり着けない理由があると考えてらっしゃる。しかし私は、その理由に説得力がないと思っている。
完全にたどり着くかつかないかはやってみなければわからない。多くの場合、行動の起点で結果が必ず得られると確信できるまでには情報が足りない。
それでもやってみる価値のある行動はいくらでもあります。
しかし必ず失敗するという情報があればどうか。同じ目的のまま実行する意味はないでしょう。現段階では信頼に足る失敗するという情報がない、と考えます。


>動物の権利は可能なのか? 動物の福祉までしか出来ないのか? の話を続けてきたつもりです。つまり一(動物の権利)か一未満(動物福祉)かを問い続けています
動物の権利論者の多くは動物の福祉に反対してますね。私は、動物の福祉も同時に推進すべきだと思います。
例えば畜肉に関して言えば、ビーガンが増えて畜肉産業が衰退し、ごく一部の畜肉業者は動物の福祉に配慮しているという状況は、現状に比べればはるかに理想に近いと思います。


>証明責任という話であれば、動物の権利は達成できると主張するアニマルライツ論者が>>68の供給量≧必要量を証明するべきでしょう
そういう調査を絶対するな、と言っているわけではありません。やるような理由が出てくればやればいいのです。現状では、信頼に足る理由がないというだけです。
科学なんて通説とは違う説を出して認められれば脚光を浴びるのですから、きちんと理由があれば、そういう調査をすると思います。そういう科学の営みに対する信頼を持っています。

それに、反対派の懸念だけで調査をしても絶対に、証明できません。なぜならば、完全に完全菜食不可能者が存在しないことを証明するのは不可能だからです。
アメリカ栄養士会みたいなところが完全菜食不可能者の存在を調査して、もし、その調査で完全菜食不可能者はいなかったと結論を出しても、いや、ほかにいるかもしれない、もっと広範な調査をすべきだ、
となるのは必至です。だから、反対派が調査をして完全菜食不可能者がいることを明らかにすればいいのです。一人でもいれば証明できます。
完全菜食不可能者らしき人(ビーガニズムを実践して失敗した人など)をきちんと管理された環境下において、もう一度ビーガニズムを実践してもらって、健康状態を調査すれば明らかになりそうな。
すでにそういう研究もあるかもしれない。そういうのが積み重ねれば、栄養士会みたいな大きなところも広範な調査をするように動くんじゃないでしょうか。

いくつかビーガンに失敗した人の記事をちらっと見ましたが、きちんと検証しないとはっきりしたことは言えませんよ。前にも書きましたが、たんぱく質の摂取に気を付けたりとか、ビーガニズムの実践には
栄養的に気を付けないところがあります。失敗したのは体質が合わなかったから、と短絡的に考える前に、きちんと検証しなければなりません。ちょっと小耳にはさんだ事例だけで、自身の主張の根拠にするのは
やめた方がいいと思います。

135夫 正彦:2018/01/07(日) 00:32:42
>「みんなヴィーガンになれる」というアメリカ栄養士会の主張は引用した数々の検証された論文から導き出された仮説であり、『総合的な検証』が為されてない今、それを真実として使うのは科学的ではありません
その主張をきちんと読んだわけではないですが、そんなことを主張してたのですか?私は「ヴィーガンになるのに栄養学的な問題は見つからない」というような主張かと思ってましたが。

自分の知らない分野については専門家の言うことを一応は信頼する。いや、自分が理解しないと信用しない、とするなら、すさまじい勉強をしないといけないですし、まず不可能でしょう。
一応は信頼する、というのがみそで、きちんと理由が出てくれば疑うという姿勢を持つ必要があります。しかし、何度も言うようですが、ボットさんのその疑いの根拠は信用できません。
さらに、科学的な営みを私は信頼しているので、ボットさんの疑いが正しい可能性があるのなら、栄養学の専門家が調査をし始めるでしょう。そういう動きがないのなら、ひと先ず、栄養士会の主張を信用するべきです。

だからって、広範な調査を栄養士会が始めるのなら、それはそれで歓迎です。いろんな科学的知見が集まるのは動物の権利論者においても有益なはずです。
結論としてどちらでもいい。

>動物の権利として根拠に使われる反種差別を否定
>動物の権利を今のところ出来るかどうか不明だから否定
>動物の福祉は否定せず、です
動物の福祉にも実践はありますね。そういう動物の福祉に配慮した肉や卵や牛乳だけ食するとか。
それでもしないよりはした方がいいに決まってます。

結果として、動物の福祉が残って、動物の権利は実現不可能で挫折する可能性もあります。
それならそれでもかまわない。無駄なことをしたとは思いません。

長々と書いてしまいました。明日発表ですが、すごく勉強になりました。ボットさんとの議論を踏まえて発表したいと思います。
ありがとうございました。
発表が終わってからも、書き込んでいただいても結構ですし、飽きたからといって予告なしに終わっていただいても結構です。
ご返事はさせていただきます。

いろいろと書いていくうちに礼を失したような書き方をしてしまったところもあるかもしれません。
そうであれば、申し訳ございません。

136横山:2018/01/07(日) 01:45:24
ミクシィから城山さんという方が参加されるそうです。

137ボット:2018/01/07(日) 17:09:43
夫さん
興味深く発表を閲覧しました

自分の主張は全部出せたと思うし、これ以上の書き込みはループになりそうなので、ここで打ち止めとさせて頂きます
最後まで根気良くお付き合い頂きありがとうございました

アカウント移譲の件に関してはお待ちしております

===
Position of the American Dietetic Association: Vegetarian Diets
(菜食について、アメリカ栄養士協会の立場)
ttp://jandonline.org/article/S0002-8223(09)00700-7/fulltext

これならクロームの自動翻訳で概略を日本語で読めますので、探してきました

138横山:2018/01/07(日) 17:42:45
夫さん、発表ありがとうございました。
参加者の発言がたくさん引き出されて、議論の活発さはこれまでの例会と比べてもトップクラスだったように思います。あっという間の4時間でした。
帰りに夫さんとも話してたのですが、価値の転換を強いられるというのは恐怖に近い感情を伴うので、自分の中に「ビーガンアリかも」という価値の揺らぎが生まれ来ると余計に反発してビーガン批判をしてしまうという傾向はあると思います。それで、必要以上にビーガン叩きをしようとする。そういう様々な反応も議論する上では無視できないものとしてあるのだけど、でも、そういうのも受け入れながら、引き続き考えいくしかないのかなぁという気がしています。

今回のアニマルライツの話を考えていて面白いと思ったのは、「人権」でさえその根拠は絶対なものではなく、根源的には無価値でしかない世界に、勝手に価値をでっち上げたものでしかないということを考える切っ掛けになったことです。絶対的な価値なんてものがないからこそ、今生きて感じているこの価値が圧倒的な価値を持つと。
そして、圧倒的な価値を持つ倫理的他者同士が交わるには衝突せざるを得ないのだけど、その衝突のときに、自分の支持する価値を絶対視して思考停止するのではなく、その矛盾のなかでどう擦り合わせるかを問い続けることしかできないように思いました。
今日のところでは、それが僕の考えた答えです。

だから、自分の中にある「動物を食べたい」も尊重しつつ「動物を助けたい」も無視するのではなく向き合ってみたいと思いました。

アンチナタリズムには、アニマルライツの話以上に反発を感じていて、僕にとっては理解しがたいなんですが、遥かな他者だったので、あまり興味が持ててなかったのですが、今日の話を聞いていて、他者がゆえの興味みたいなものを感じてきました。そちらも楽しみになってきました。

139ウラサキ:2018/01/07(日) 18:48:52
さっき、はじ銀と居酒屋で呑んでいたのですが、
やはり我ら🍶呑みにはヴィーがニズムは辛いなぁ、と実感いたしました。
白和え、小芋、おでんの大根と豆腐、浅漬けくらいがセーフかと。
僕らは、粕汁(魚入り)、焼鮭、焼き太刀魚も食べてしまいました。

肉は別に無くても大丈夫です。

3月アンチナタリズム取り上げるようはじ銀そそのかしておきました。

140夫 正彦:2018/01/07(日) 19:56:41
ボット様

こちらこそありがとうございました。
ボット様との議論をかなり使わせていただきました。

アカウント移譲の件につきましては、2、3日中に必ず連絡します。

141夫 正彦:2018/01/07(日) 20:06:43
自分の生活に影響する問題ですし、難しいところが全くない分かりやすい問題なので皆さん活発に発言してくれたのかなと思いました。

私の当初の目的は、発表して議論して「理屈はわかるが、今一つ納得できん」という状態を皆さんに作り出すことだったので、
目的は達成できたのかな、と(笑)。後は自然と皆さんの中で熟成するのを待つ。

例会中にも触れましたが、ビーガンにならなくても、「私にはできないけど、できるならやった方がいいのかなぁ」程度の認識をもつように
なってくれると、それで満足です。

142はじ銀:2018/01/07(日) 20:42:52
夫さん、発表お疲れ様でした&ありがとうございました。
初参加の方、お久しぶりの方、多数で喧々諤々出来て楽しかったです♪
皆それぞれひっかかるポイントが違っていたりして、それもよかったかなぁと思います。
ただビーガン側の論理はやはりどこか中途半端な気がします。それはビーガンになる理由が基本的に感情的なもので、論理が後付けというところからくるものだと思いました。食用のために飼育されている動物たちがアウシュビッツに収容されている人のように思えて一刻も早く助け出したい、そういう思いの人も確かに居るでしょうし、そういう人には食肉なんて許せないでしょうね。その気持ちは理解出来ます。
しかし、自他共に認める動物好きの僕も、ひっかかることはあっても、肉食を嫌悪したことは記憶の中ではありません。でも犬鍋などはもっての外だと思いますし、日本が危機的な状況に陥ってどんな食糧難になっても、我が家の豆助を鍋に入れようとは絶対に思わないでしょう。
それは夫さんが今日の何処かで仰っていたように赤の他人より我が家の可愛い子の方が大切、という話しで、動物好きも食用と我が子とはやはり別。
人間中心主義とありましたが、それは実は単純に自分と自分に近しい人中心主義であるのではと思いました。
人間の愛情はそんなに多方面に且つ遠くに展開出来るわけでは無く近しいところほど強く、遠くなるほどに自分への比重が大きくなるのはごく自然なことで、その点ビーガンの論理は感覚的に遠すぎるところに同情、憐憫の思いがあるところも、違和感の一つかと思いました。
3月についてはしっかりそそのかされました。折角買ったので3月までにベネターを通読して発表という形で無くとも議論のポイントぐらいは提示出来るようにしておきます。でも何か発表したい方がおられればその方優先で。

ちなみに、うちの豆助(本名:クマロ)ですw
ttps://1drv.ms/i/s!AkNHUkvaTkJRwAsA1dOg9iJluwuc

143AD:2018/01/07(日) 22:05:01
このような論点があること、あらためて了解しました。その主張は、情緒的・総論的には分からなくはないけれど、いざ自分が実践するとなると…。
特に、その理論武装?の点で、レジュメの表側の倫理学については私の不勉強もあり、特に4.の各項目はビーガン以前にこれら自体どうなのかというレベルで止まっています。(というか、倫理学は哲学の議論の範囲に入ってくるのですか。政治、思想、宗教などのくくりなら分かるのですが)

144ウラサキ:2018/01/08(月) 05:46:58
ADさん、

倫理学は哲学の一分野です。

勿論、政治、思想、宗教にも関係します。

Wikipedia などで検索すれば比較的手短かに、概要を把握できると思いますよ。

145夫 正彦:2018/01/08(月) 09:51:41
例会中ツイキャスにボットさんが、コメントを書き込んでくれていたのに紹介できませんでした。失礼しました。ツイキャスの大阪哲学同好会のアカウントにアクセスしていただければ読めます。

ttp://twitcasting.tv/daitetsudo

146はじ銀:2018/01/08(月) 14:27:52
嗚呼…
コメ読み忘れてました。
大変失礼しましたm(._.)m

147出口:2018/01/18(木) 21:26:17
甲殻類に関する記事がありました。

ttps://www.google.co.jp/amp/s/www.cnn.co.jp/amp/article/35113106.html

148夫 正彦:2018/01/19(金) 15:15:54
出口さん、ありがとうございます。

さすがCNN、短いながらも正確な記事。

しかし、まぁ、日本の雑誌ですが、こういうひどい記事もあります。

エビカニ生前ボイルNG スイス政府“ビックリ禁止令”の波紋(日刊ゲンダイDIGITAL)
ttps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/221384

こっちの方が、一般の日本人がこのニュースに対して抱く感情に近いのかな。

149出口:2018/01/20(土) 22:18:37
海洋生命科学部ではどのようなことを教えるのか気になってホームページを見にいってしまいました。

以前、美々卯で活き海老を鍋にいれるのに抵抗を感じたことを思い出し、何故そのように提供するのか理由がよく分かりました。

日本でヴィーカニズムが周知されること事態が難しいことのように感じます。

150夫 正彦:2018/01/22(月) 01:02:24
出口さん

スイスの法律は、生きたままゆでるな、ゆでる前に絶命させろ、とあるだけで、調理するな、とまでは言ってません。
すぐに調理すれば、生きたままゆでるのと鮮度においてそれほど変わらないような気がします。本当に味が落ちるのかも疑問です。

また、少々の味の良さを追求するためだけに、痛みの感覚を持つ生き物に苦痛を与えることが必要でしょうか。

CNNの記事にはこうあります。
「新法は、ロブスターは痛みを感じる可能性がある高度な神経系を保持しているとする研究結果を踏まえたものとなっている。」
厳密にある生き物に痛みがあるかどうかを判定するのは困難かもしれませんが、国の法律の制定根拠となるぐらいの、
信頼性を持つ研究があるということです。このあたりの研究に関しては、日刊ゲンダイに出てくる学者は無知なようです。

「美々卯で活き海老を鍋にいれるのに抵抗を感じたことを思い出し」
どうして抵抗を感じたのでしょうか。生きている海老を鍋に入れることが残酷だと感じたからではないですか。
海老が苦痛を感じていると思ったからではないですか。その感覚は正しいと思います。なぜなら海老は痛みを感じてますから。

日本にヴィーガニズムが浸透するのは確かに困難なことだとは思います。が、出口さんのように、生きた海老を鍋に入れることに
抵抗を感じる人も多いのです。だから、希望はあると思います。

151出口:2018/01/24(水) 01:35:49

どれほど味が落ちるのか疑問ですが、活き造りや踊り食いなど神経の働きの残る身を鮮度が良いと好む食文化であるため、魚介類の輸送や調理方法に規制をかけることが日本の食文化に大きな影響を与える事態ではないでしょうか。


海外旅行中に、目の前で削いだ豚の丸焼きの肉を食す機会がありましたが、可哀想で食べられないと昼食を抜いた友人が、夜には平気な顔で肉を食べていたことに違和感を持ったことがあります。日本では、マグロの解体が場を盛り上げる催し物となっていますが、マグロであっても彼女は可哀想で食べれなかっただろうかと考えると答えは違うように思います。


生きた海老を鍋に入れることに抵抗を感じた理由は、湯船に浸かり火傷をした経験(幼いころは現代のような温度設定機能などなかったので)が、「煮えた湯」と「海老が飛び跳ねる姿」から過去の痛みの記憶を連想したため、でしょうか。海老が生物だと自覚はしていましたが、鍋に入れる前から皿の上で飛び跳ねていましたし、茹でられて飛び跳ねる海老が痛みを感じているなどという思考は当時の私にはなく、矛盾していますが、鍋から飛び出さぬよう蓋を閉める行為に多少残酷さを感じた記憶はあります。


私個人としては、幼少期から10代は食わず嫌いで肉魚をあまり食べずに生活をしていたのでベジタリアンにはなれそうですが、現在の食生活のほうが体力、体調や精神面などのバランスが昔より良い気がするので、もう少し勉強してみてベジタリアンを試すか判断しようという心境です。スーパーやテーブルに並ぶ肉や魚の切り身が、生きて走ったり泳ぐ動物や魚介とは全くの別物として存在しているように感じるのは、自分達で捌かず産業となっているからだと思いますし、肉であれ魚であれ、劣悪な環境による病原菌感染などが原因の殺処分や残飯として始末されることは望んでいないので。

152夫 正彦:2018/01/24(水) 16:47:44
出口さん

文化というだけでは、保護に値するかどうかを決めるべきではないと思います。時代の風潮と齟齬をきたせば、文化も変えていくべきでしょう。
また、文化というのは放っておいても変わっていくものですし。新鮮さを追求するあまりに生きた魚などを調理するという”文化”も、調べてみると、それほど古いものではないかもしれません。

豚の丸焼きの話ですが、恐ろしいのは人間の習慣で、これはどれほど異常な状況でも日常に変えていく力を持っています。
初めて戦場にやってきて、転がる死体をよけて歩んでいた兵士が、次の日には平気で踏みつけて進む、というような。
平気になってしまったご友人をあまり責められません。

肉食をするほとんどの人が、自分が食べるものについて、何らかの事実を知って嫌悪感を持ったとか、調理するところを見て残酷に思っただとかという経験をしているはずです。
その時の感情を呼び起こさせたい、という気がするのです。そして、その感情は、人間の同情が人間以外に向かうときもあることを表しています。
種差別という感覚を拭い去るのは難しいですが、種差別におさまらない、動物や生き物に対する人間の同情心も存在するのは確かです。

体調というのは重要ですね。食生活を変えるわけですから。食材とか、今まで使うことのできたものから制限されるので工夫する必要が出てきます。
だから、無理せずに徐々に慣らしていくという方法もありです。中には、魚介類はOKという人もいるし、動物福祉に配慮された肉や卵、乳はOKという人もいます。
完全菜食じゃないとだめ、と言う人もいますが、何もやらないよりは何かやった方がいいので、私はそれでも悪くはないと思います。私自身も完全からは程遠いし。

153出口:2018/01/24(水) 21:54:46
夫さんのおっしゃる通りです。
文化によって当たり前のことと意識に刷り込まれているので、根本的な概念、特に魚介類に関しては日本人の見方を変えることが難しいであろうと思っただけで、文化を守るために劣悪な状況でいいとは思っていません。が、必要な量だけを賄うことが不合理であると主張するまでには至らない心境です。

とりあえずは、意識することでの変化をみていこうと思います。夫さんご自身もヴィーガン/ベジタリアンを継続するか不明とのことだったので、実践していく中での心境変化があれば、例会で近況報告していただけると有り難いです。

身近なことなので要点は掴みやすいですが、「哲学的に」は難しく、まとまりなく考えを述べただけでになってしまいすみません(・・;)

154夫 正彦:2018/01/26(金) 15:40:21
心境の変化、というわけではないですが、発表が終わってもまだぐずぐずと考えていて、最近思っていることを少し書きます。

かなりびっくりしてしまったのですが、「こわいもの知らずの病理学講義」仲野徹著を読んでて、輸血についての話題で、
エホバの証人の輸血拒否の問題について書かれてありました。エホバの証人の問題は、はたから見てるとどうしてもその
頑迷で非科学的な信条に批判がいきがちですが、彼らもただ輸血を拒否するだけじゃなくて、それに代わる医療を模索
していたのですね。

で、輸血に代わって手術中の出血をうまく患者の体内へ還流させる仕組みを開発したそうで、これならばエホバの証人の
教義にも反しないとのことです。その話も驚いたのですが、さらにすごいのは、その仕組みの為に今まで行っていた輸血
のかなりの部分が不必要だったのではとの反省が出てきたそうです。

頑迷だと思われていた宗教的な主張が、なんと医学を進歩させた!?

言いたいことはですね、できない、と一般に思われていることは、単なる思い込みかもしれない、という可能性ですね。

私が気になってたのは、実験動物についての問題で、確かに、すでに明らかになっている科学的知見を再確認するような
不必要な実験も多い。それらは倫理委員会を通じるなりして、やめるべきでしょうし、これに関してはあまり反対される
人もいないのではないかと思います。しかし、どう考えても、科学の進歩のために必要な動物実験もあるように思える。
動物に生存権があるとするならば、たとえ福祉に配慮したとしても、彼らの命を奪うべきではありません。
しかし、その原則を徹底させれば、科学の進歩が止まってしまうかもしれない。

そう考えてた時に、さっきのエホバの証人の話を読みました。最初からできない、との前提があれば、そこまでいかなくても
かなり強い動物実験に否定的な圧力があれば、人間って、何とかするんじゃないだろうか。

そう思うようになりました。

155ウラサキ:2018/02/27(火) 13:17:19
Twitter上でヴィーガンやアニマルライツ系の方々のツイートを拾い読みし、
時に少しやり取りもした上で感じたのは、
やはりマルクス主義と共通の「自らを信仰とは認めない信仰」というものです。

その特徴としては、
1、自分たちの主義こそが唯一絶対の客観的真理である、という自信。
2、現状を改革すべきであり、その為に自分たちの主義を普及させるべきという使命感。
3、立場の異なる者を無知蒙昧扱いする。
4.無神論を声高に表明し、「宗教」と呼ばれることを極端に嫌う。
5、以上の性格故に、相対主義を認めない。

いかがでしょう?

もし異論があれば是非お願いします。

156夫 正彦:2018/02/27(火) 15:19:59
ウラサキさん

言葉の問題で、宗教の範囲を自在にとれば、かなりの信念体系が宗教の部類に入るんじゃないでしょうか。
相手の信念に批判的な場合、よくある批判の切り口として「それは宗教だ」というのは使われますが、
宗教という概念にどういうものを考えてられるのかはっきりしなければ、無意味な批判です。
さらに、設定された宗教の概念によってその信念が宗教と認定されたとしても、その宗教と一般に言われる宗教と
の同じところと違うところをはっきりさせなければ、同様に無意味です。

相対主義の人たちは、自らを宗教と認めているのでしょうか。

1、自分たちの主義こそが唯一絶対の客観的真理である、という自信
客観的真理だと信じているかどうかは知りませんが、いくつかの前提条件をのむのなら、ビーガンとして
生きなければならない、との結論が出てくると思います。たとえその結論をのんだとしても、しょせんは道徳法則
なので、従う必要もないでしょう(将来何らかの形で法律に影響を及ぼす可能性はあるかも)。

2、現状を改革すべきであり、その為に自分たちの主義を普及させるべきという使命感。
それはそうだと思います。現状はあまりにもビーガンが少ない。特に家畜に限って言えば、こうしている間にも
彼ら彼女らが苦しんでたり、殺されたりしているわけですから、ビーガンを宣言しているなら焦燥感にさいなまれる
はず。また、ビーガンを続けるうえでも、もっと普及してくれた方が、ビーガンをやりやすいというのもあります。
ビーガン用の食品とかレストランが増えますから。

3、立場の異なる者を無知蒙昧扱いする。
ほとんどの人はビーガンの論理とか、家畜の扱われ方などの知識が少ないのですが、それを自覚せずにビーガンの人に
嘲笑的に絡んでくる人がいます。そういう人の存在がビーガンの一部をアグレッシブにしているのかな、と思います。
わたしとしては、もっと穏健な考えを持っていますが、彼らのようなアグレッシブなビーガンも必要だと思っています。

4.無神論を声高に表明し、「宗教」と呼ばれることを極端に嫌う。
最初の方にも書きましたが、「宗教」の言葉の問題ですね。
それに、どう考えても悪口なので、そりゃ嫌うでしょう。
キリスト教とか西洋の宗教は人間と動物とを明確に区別しているので、ビーガンとそれらの宗教は根っこのところで
相いれません。ただ、仏教とかはどうなのでしょうか。かなり親和性があるように思えます。

5、以上の性格故に、相対主義を認めない。
相対主義に立つと、ホロコーストとか非難できないですよね。ドイツ国内でドイツ国民であるユダヤ人に対する迫害なら
それへの批判は、内政干渉だと言われかねない。

157ウラサキ:2018/02/27(火) 15:38:47
ヴィーガニズムはその目的が動物の搾取(畜産業や漁業)の撲滅にあるそうなので、
どうしても現状改革への布教圧力(他人を回心させようとする姿勢)が強くなりがちで、
そこらへんが宗教っぽさにつながっているのだと思います。

例えば実在論や直観主義には(当然ながら)それ程の布教圧は感じません。
ですから排中律を「宗教的」独断と呼ぶことよりは、
語義に沿った使い方ではないでしょうか?

それに相対主義にも様々なレベルがあり、
人命尊重についての相対主義と、
食習慣についての相対主義では、
その受容度にかなりの差があると思われます。

158横山:2018/02/27(火) 18:34:55
夫さん、ウラサキさん、
横からごめんなさい。

5.で、ウラサキさんが、アイマルライツ派が相対主義を認めない点を非難した話は、相対主義を取らないことというよりも絶対主義を取ってることが問題だと考えた方が良いように思います。
ホロコーストを非難できないことから相対主義を否定するとしても、そこから絶対主義を肯定してしまうのはいかがなものでしょうか。ホロコーストを為した人達も絶対主義者であっただろうからです?

159ウラサキ:2018/03/01(木) 22:15:17
昔、イスラム教徒の方(インドネシア国籍)と食習慣について話したことがあります。
彼は、知らないうちに食べている場合もあるかも知れないが、
もし豚と分かったら思わず吐き出してしまうし、分かっていたら決して食べない、と言っていましたが、
別に我々が豚を食べることを責めたり、食べないよう勧めることはありませんでした。

恐らく、ヒンズー教徒やジャイナ教徒も自分たちの食習慣を異教徒に勧めることはしていないように思います。

ところが、ヴィーガニズムはそうではなく、
他者にもその食生活を広めようとしている。

あ、じゃ、むしろ(個人的信仰という意味での)宗教とは違うんだ。
社会改革運動なんだ、と今思い当たりました。

160夫 正彦:2018/03/02(金) 15:08:10
横山さん

ホロコーストはやめろ!と主張している側を、絶対主義だ、というのは変ではないか、ということです。


ウラサキさん

社会改革運動というのは、そうかもしれません。


もし、本当に動物の”痛み”と人間の”痛み”を同一視するなら、現状の多くの動物権利論者やビーガンの
行動は手ぬるいように思えます。ホロコーストにたとえるなら、ある場所でユダヤ人が虐殺されているのに、
一般の人はユダヤ人の運命に無関心で、しかも彼らを搾取している当事者でもある。社会との摩擦は
避けられないでしょうね。

しかし、そうは思っているかもしれないにしろ、動物権利論者やビーガンもこの社会で生活しなければ
ならないし、あまりに長い肉食の習慣は、社会のシステムと人々の考えの中に浸透しきっているので、
それに関係せずに生きることも、そのような社会をすぐに変革することも不可能になっています。

今は、一部の人が唱える道徳法則ですが、多くの人が是と考えるようになれば、社会規範となり、法律にも
影響を与えるようになるでしょう。そういう懸念があるために、現状ではあくまで少数派だけれども、
肉食を続けたい人たちが過剰反応してしまうのかなと思います。この辺りは嫌煙権運動にも似ている。

161ウラサキ:2018/03/02(金) 21:01:07
やはりまず、ヴィーガンとノンヴィーガンの間には、

人間と動物を同一視するかどうかの大きな落差があるようですね。

ヴィーガンの方はヒト中心主義をキリスト教に基づいた種差別と主張するが、
キリスト教徒でない私は、日本人やイスラム教徒も共有する人類共通の普遍的価値観ではないかという気がします。

162夫 正彦:2018/06/18(月) 11:57:16
大阪は地震で大変ですが、私の住んでいるところと職場は南の方でしたのであまり影響はありませんでした。

昨日の例会参加者の方で、菜食をはじめられたという人がいらっしゃったので、少々実践的なことを書かせていただきます。
ネットや自然食品専門店でヴィーガン用の食品を求めるのもありですが、どうしても費用が高くなるし、面倒です。
できればコンビニや近くのスーパーでも食材を調達したい。とするとどうしても添加物で、乳や卵が含まれるのをどうするか
という問題が出てきます。私は以下のように実践してます。

コンビニやスーパーで菜食用の食材(加工品)を得ようと考えるなら、ある程度乳や卵が添加物として含まれるのを受け入れる必要があるでしょう。
じゃないと、かなりの食材がアウトになります。びっくりするくらい多くの食品に乳や卵が含まれています。多ければ成分表に”乳(牛乳)””卵”とはっきり
書かれますが、由来の添加物だと成分表の最後に「成分に乳・卵が含まれます」などと書かれています。
肉に関して注意しないといけないものは「チキンエキス」や「ポークエキス」などがあります。

はっきりとした肉や、乳・卵が材料として含まれない限り添加物としてならOKと言う考えもありますが、私の場合、肉系の添加物はアウトで、
乳・卵系の添加物はOKとしています。例えば乳に関するならホエイパウダーや乳化剤、一見してわからないが、最後に「成分に乳・卵が含まれます」とだけ
書かれている場合などは、食材として購入する場合があります。

基準は恣意的に、個人で決めればいいと思います。ただ、必ず自分なりの基準を設けてそれに従うようにする。どうしてかと言うと、いわゆる
「滑りやすい坂道の論理」があるからです。「滑りやすい坂道の論理」というのは、些細な違反をすることによって、ずるずると基準を次第に無効化
してしまう人間の心理を言います。基準が漠然としていると、これぐらいいいか、となって、だんだんと菜食の実施継続ができなくなってしまう可能性が
出てきてしまいます。

だから、少々恣意的でもいいから、自分なりの基準を設けてそれに従うこと。本来は完全に動物由来の食材を購入しない方がいいのですが、
現状の流通制度ではかなり制約されてしまうので、仕方ない部分もあるのです。肉食を続けるよりは、はるかに良いことをしているのですから。


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