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2017/5/28「放談!現代哲学 2 ウィトゲンシュタイン以降」

1ウラサキ:2017/04/30(日) 20:15:14
2017/4/30「放談!現代哲学」で時間の関係で扱えなかった、ウィトゲンシュタイン以降を翌月続けて扱います。
予定のラインナップは
ウィトゲンシュタイン→ハイデガー→サルトル→メルロ=ポンティ→フーコー→ドゥルーズ→デリダ
といったところですが、勿論他にも追加・挿入大歓迎です。

皆さんの熱い想いを是非語りにおいで下さい。
賞賛だけでなく、disりも歓迎です。

18横山:2017/05/28(日) 18:02:40
11人参加。前回に比べると少なかったですが十分な人数でしたね。ウィトゲンシュタインとハイデガーがまた濃かったですね。今回僕はとくにハイデガーについて知りたくて参加しました。ハイデガー読書会メンバーの方を中心に色々と解説していただきましてありがとうございました。ありがたかったのですが「やっぱり分からない」というのが正直なところです。ですので、申し訳ありませんがもう少し質問させてください。「世界内存在」について、今日の話を聞いて次のように解釈してみたのですが、まだずれていますか?すなわちこうです。「私はいつか死ぬが、いつか死ぬものとして今現に如何なる反省にも先だって生きている。また同様に世界も今現に如何なる反省にも先だって存在している。そのような『端的な世界の構成そのもの』としての私の存在、これが世界内存在である」。如何でしょう。また、「存在論的差異」も結局分からなかったのですよね。「存在は存在すると存在者になってしまう」などと言われますが、それって、「『存在自体』には、『もの』として分析される以前の何かがあり、それは決して分析され得るものではないし、それは決して語り得ないものだ。語り得ないものなのだから『それがある』とは言えないはずのものなのだが、確かにそれはあるのだ」などという話(たとえば、まるで「クオリア」や「生の質量性」などと言われたりするようなそれ)と解釈しては違うということでしたが、正しくはどんな風に考えたら良いか、もしよろしければどなたか解説してもらえないでしょうか。

19夫 正彦:2017/05/29(月) 00:37:28
ミラーニューロンのネタは長谷川眞理子編著「ヒトの心はどこから生まれるのか」後半の対談部分、P132以降にあります。
ちなみに、この本の対談の後半は酷い「最近の若者は……」論になっているので、読み飛ばした方がいいかと思います。

それと山内さん、ベルクソンは確かに戦争中、反ユダヤ主義が叫ばれている中でフランスに帰って亡くなってますね。失礼しました。

20久保共生:2017/05/29(月) 23:49:26
まず、存在論的差異についてですが、正直、『存在と時間』の大半が未完に終わったので、はっきりしたことは分からないと思います。確かに横山さんの仰るように、語りえない「存在そのもの」を語ろうとして挫折したようにも感じます。僕としては、横山さんの解釈は別に間違っていないと思いますよ。

さて、世界内存在という概念ですが、僕はこの概念を把握する上で、別に「死」を持ち出す必要はないと考えています。この概念に関して、僕が最も重要だと思う点は、単なる客体的事物とそれらの連関とで世界を捉えようとするある種の実在論ないしは唯物論と、世界を主観的意識によって構築されたものと捉える観念論との両者を、ともに斥けようとしたところです。

世界内存在とは、一言で言うなら、人間主観と客体的世界という二分法を排し、"生活" という面から、人間と世界とを捉えなおそうとするための概念だと思います。例えば、「道具」について。一般的通念では、「道具」は単なる物質である一方、その道具としての価値は人間の主観的色づけだと解されがちです。けれども、いくらものの道具的価値を主観的に作り上げるとは言っても、ものにはそれ特有の "くせ" があり、恣意的に価値を決定することは出来ません。釘を打つためには、金槌のような道具が適しているのであって、例えばこんにゃくに金槌のような価値を与えることは到底出来ません。
しかし一方で、こうした価値は、人間の生活を全く考慮しなくても成り立つ、客体的事物の持つ客観的性質というようなものでもありません。ハイデガーは、道具の存在性格を、ものの諸性質を劃定しようとする態度(ただ静観的にながめやる態度)によって見出される「客体性」という存在様態と区別して、「用具性」あるいは「手もとに備わっている存在」として規定しています。この「用具性」という道具の存在性格は、たんに客観的に事物を認識するような態度によってはむしろ見出されえず、自分自身の生活のために使用したり、製作したりするところにおいて見出されるわけです。また道具だけでなく、ほかの人たちも、単なる客体的存在者ではなく、道具の使用や製作において互いに連携し合い、生活を共有しうるような存在者として出会われるのです。

例会でも述べたように、世界内存在という概念は、生態学的な見方から着想を得ていると思われます。生物にとっての環境というのは、客体的事物の集合としての世界などではなく、生活を営む場としての世界なのであって、その意味では世界はその生物にとっての世界である。しかし同時に、その世界で生きてゆくためには、恣意的主観によって外界の事物に好き勝手に価値を貼り付けるわけにもゆかなのであり、自然の摂理に常に配慮しなければならない。こうした発想を人間生活に適用したのが、世界内存在という概念なのだと思います。

世界内存在についての記述は、きわめて多岐にわたるので、ここでは十分に語りきることが出来ませんが、以上の説明で多少なりともイメージをつかんでいただければ幸いです。

21横山:2017/05/30(火) 00:52:09
>>20久保さん、丁寧な解説ありがとうございます。「世界内存在とは、一言で言うなら、人間主観と客体的世界という二分法を排し、"生活" という面から、人間と世界とを捉えなおそうとするための概念」
なるほど、ってすごく納得しました。

22はじ銀:2017/05/30(火) 22:45:09
遅ればせながら、日曜日はお楽しみ様でしたm(__)m
いつも以上に謎発言を連発してしまい申し訳ありませんでしたw割と言いたいことがあったのですが完結に纏める努力が足りなかったですね。
しかし、ウィトのいう「世界」というについての僕の理解がそんなにズレているのかなぁというのが個人的にひっかかりました。語り得ぬ物+要素命題から構築できるもの=世界、ですかね。
ハイデガーは確かにちゃんと読んで居られる方が居て助かりました。解説本などで得たイメージだけで語るというのはどうしても限界ありますから。
発言のマンネリについては新規の方が増えて大分改善されたかと思いますが、それでももう少しなんとかしたいなぁとは思っていました。ただ妙案が僕の中で出せず。
同好会には、1.大ネタ型、2.小ネタ型、3.雑談型、の三類型がありますが、1.大ネタ型は本会が普段余所では聞いて貰えない内容を広く発表出来る場としての機能を担うという意味で大切です。しかし大変ですが…。2.の小ネタ集辺りが発表者に負担かからず、発言も多方に広がりやすいですかね。3.は放談シリーズと年末の飲み会ですかw
次の放談は(一応)ラストですので盛り上げていきましょう。ラインナップも大陸の場合は一番ホットなメンツですから。ただ英米系の方もある程度はしっかりやりたいですね。個人的にはほぼ知らない分野なので。
司会ですか?う~ん、やってみるのも面白いかも、とは思いますw

23はじ銀:2017/05/30(火) 23:35:01
5/28の例会で「アインシュタイン」「ハイデガー」「W.ライヒ」という三人を出して言いかけて、言いかけすぎて意味不明だった発言の主旨をこちらで纏めさせていただきたいと。これは哲学史として問う物では無いと思いますが。
アインシュタインは物理学の世界で金字塔を打ち立てた物理学者ですが、後に原爆の開発を後押しして本人曰くの「生涯最大の間違い」を犯しました。
ハイデガーは20世紀最大の哲学者の一人として数えられるオールラウンダーで且つ最も重要な書物に数えられる書を著しました。しかし、最近ナチへの積極的な加担が明るみに出ました。
W.ライヒはフロイト後初めて精神分析の手法を体系化しまし、フロイトの後の恐るべき子どもの一人として数えられた有能な弟子であります(でも確かにフロイトへ教育分析を依頼して断られていたような…)。しかし、後にオルゴン療法を提唱し、薬事法違反で捕まり獄死してしまいます。現在の定説としてはオルゴン療法を提唱していた時はパラノイアに罹患していたとされています。
この三人は大きな業績を残しましたが、その後に大きな失敗や挫折があることが特徴です。
W.ライヒについては例会でも少しお話ししたように、その技法や思想の中に将来発症するであろう病に繋がる病前性格から出てきたものはないかなど、精査されたようです。
ハイデガーについてはナチへの加担が確定したことが最近のことなので、これからどのようになっていくかは不透明です。しかし、学問的業績を人類史上最悪の出来事の一つに加担したからといって無くすのはナンセンスです。かといって、そのままというのも何か違う気がする。ここは人種差別という観点からでも、国粋主義的な観点からデモ、某かの読み直しは必要なのかと思います。
ではアインシュタインの場合はどうか。

科学者が間違えたからいって、他の分野とは異なり、全く業績に影響しないというのは何か腑に落ちないなぁと思ったのですが…
同じ学問でも正しさが依って立つところ、または正しさが成り立っているフィールドがその人の「思想」なり「精神状態」なりに影響されるものとされないものがあるいうことで、この話は解決なのですかね。
確かに正しさ、とは「何を以て正しいか」「どの範囲において正しいか」というように考えなくては成らず、その「何を以て」「どの範囲」が上記のような所謂問題とされる物と無縁であれば、結果、業績とは無関係である。と、結論づけて良さそうに思えました。
覚え書きのような物になり失礼しましたm(__)m

24ウラサキ:2017/05/31(水) 06:22:09
はじ銀さん、

次回、放談の司会、前半の大陸をはじ銀、後半の英米をウラサキ担当でいかがでしょう?

科学者の業績や芸術家の作品と人格とは分けて考えた方が良いのではないでしょうか。。
ライヒやハイデガーの著作は彼らの生涯とは一旦切り離して、テクスト自体の価値で判断されるべきだと思います。
たとえ精神障害者やナチス協力者の作品でも優れたものなら賞賛されてしかるべきだと思います。


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