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肉食忌避の問題について

1童子様代理:2013/01/13(日) 00:35:35
ttp://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529.htmlにて
童子様が谷口雅春先生のご文章をご謹写いただきましたが、
掲示板の特質にて削除されましたので、ここに、謹んで転写させていただきます。

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[名前] 童子
[内容] 肉食忌避の問題について
 光明板にて、ノーミートが変な方向に走り出しましたので、この板を借りまして谷口雅春先生の教えを確認したく思います。

 すでに山ちゃんが『心と食物と人相と』を牽引されておりますので、
『幸福生活論』からです。若干長いですから、3、4回に分割いたします。

         『人間と食物の問題』

 ・・・・たとえば、人が此処に魚をたべていたとする。現象的にはかう見えているのであるが、
実相に於いては人間は、魚を殺してたべると云う事はなどはない、現にたべてはいないのである。

だから殺すと云う業もなければ、殺された恨みの業もない ―― 魚を食べるにも、かくの如く知って食べねばならないのである。
殺すと思い、殺されると思って食べるときには、そこに殺生の業も生み、〈業とはナリである、鳴りである。心の鳴りひびきである。
心のひびきを止めるとき業の実態は消えてしまう〉その業は心がその存在を支えている限り流動し、
輪転し、殺生は次の殺生を生み、ついに人類相互の一大殺生なども生むようになるのである。

 だから現象本来無しとわかるまでは殺生の業はつぎの殺生を生む。人類が肉食をして〈換言すれば人類が殺生によって〉生を保つかぎり、
人類相互の殺し合いも休むことがない。戦争の根本原因は爰にあると考えざるを得ないのである。

 だから、現象本来無しとわかるまで生き物を殺して、又は捕殺せしめて食べない方が好い。それは殺生の業を輪転せしめる事になるからである。

 私は『生命の實相』の中で、肉食厭離の心を起さしめるためにトルストイの肉食反対論や屠牛場の悲惨な光景を書いた。
現象無しと悟れば凄惨なる屠牛場の光景もない。肉食していると云うこともない。

 それはただ夢中に幻を見ているのと同じことであるから、一休和尚が般若心経をとなえながら平然と魚を食って、
しかも、此の魚はこれで成仏していると云い得る境地になれるでのであろう。

 しかし、かかる悟りと心境になれないで、ただ習慣で生き物を食う故に、凄惨な気がしないだけであるならば、
それは平俗な殺生の肯定であり、戦争するのが習慣になった軍人が平気になっているのと同じであって、
「本来殺生なし」の悟境ではない。

                    〜 つづく

2童子様代理:2013/01/13(日) 00:37:18

 かくの如き殺生は、凄愴悲惨な感じを伴わないままに、知らずに犯した罪の方が知って犯す罪よりもその被害が大きいように、
殺生の業の存在を強引に肯定しているのである。

 真に此の世界から戦争を根絶し、絶対平和の世界を実現するためには、殺生の業を積まないようにすることが必要なのである。
現象が本来無であり、空華(くうげ)であることが真に自覚できない限りに於いては、みずから殺生し、
又は、他をして捕殺せしめる「殺害」の業上に築かれたる肉食を人類はみずから勇猛心をもって根絶しなければならない。

 釈迦は自分の弟子に、みずから殺さずして他の人が布施し供養をした肉食のみはこれを受けても好いとした。
それは‘受けても好い’のであって、進んでその饗応を強制したり、なるべくそうするように勤め、
又仕向けてはならないのである。

 純粋の愛念又は報謝念又は布施心をもって供養されたる肉食は、その愛念、報謝念又は布施心によって浄められているから浄食である。
自分が儲けるために捕獲したる獣鳥魚肉は、利己心のために殺生を肯定したものであるからけがれたる殺生である。

 しかし漁夫がかくの如き業務をもって生活するよりほかに生計の道を見出し得ざるが故にやむを得ず魚等を捕獲するのは
生活権として尚ゆるされ得るであろう。

 しかも自己の生活の必需に迫られずしてただ閑暇の娯楽のためにする魚釣の如き、他の生命を玩弄するのであるから、
聖霊を涜す罪として赦されがたいのである。生命は聖霊であるからこれを弄殺する事は赦されない。

 斯くて吾らは一切の獣肉食、鳥魚食等からなるべく遠離することが宗教的に必要なのである。
否、実相世界に於いては「一切の生物処を得て、相食むものなき」状態であるから実相が顕現するに従って、
かかる食物から自然に遠ざかる様になるものである。

 ‘自然に’食べたくなくなると、‘自然に’食膳に上らなくなることなどがそれである。それは‘自然に’であって、
実相の顕現は‘自然に’それがあらわれるのである。

 併し、‘自然に’肉食が遠離されるようになるまで、道を生きるのに勇猛なる人々は決して待つ必要もないのである。
吾々は生き物を殺すことが悲惨であると云うことを知り、その屍を食うことが浄食でないことを知るならば、
勇猛心を揮って肉食を遠離することは一層好いことである。

 ただそれには強固なる意志と大いなる勇気とを要する。それがまだ備わらない人々には生長の家は何人にも何物も強制しないのであるから、
強いて肉食をやめよとは云わないのである。

                    〜 つづく

3童子:2013/01/14(月) 12:32:52
        『肉食忌避』の問題 つづき


 或る人は生物を共食いするのは浄食ではないと云うことを反駁して、生物は必ずしも動物のみではない、植物もまた生物であり、米も麦も豆も野菜も生きているのである。それを収穫と称して捕殺するのは残虐なる殺生ではないかと云う。


 生命あるものを切って生(せい)を奪うことは真に罪悪であろうか。


 吾々の髪の毛や爪は吾々の身についている間は生きている。それを身から切り放ったとき、それは死ぬのである。しかし、吾々は髪を整え、爪を揃えするために、それを悦んで切り捨てるのである。

 切り捨てられた髪と爪とは生を失う。それは快い業であり、悲惨でもなければ苦痛でもない。それは何故悲惨でなく苦痛でないのであろうか。それは髪を切り、爪を切っても苦痛を感じないからである。然らば苦痛を感じないように切り、生を奪うことならば悲惨でも残虐でもないのである。


 或る“かまきり”虫の一種は、その雄は交尾の佳境期の最中に雌にくわれて死んでしまうのである。それが苦痛であるならば交尾をやめて逃げ出して了いそうなものであるけれども逃げ出しはしないのである。

 彼は恋愛の快感の最中に、その生命が雌の生命にとけ込んで、現象的には自分の個としての生命を失う、彼は却って幸福だと云わなければならないのである。


 考えて見れば動物を捕え殺し食するのが悲惨であり残虐であるのは、彼が捕えられ、殺され食されることを苦痛として逃れようとする。その逃れようとし避けようとする自由を奪って、殺すところに殺生の罪悪があり残虐性があるのである。
                       〜 つづく

4童子:2013/01/14(月) 13:20:39
 ※トップ画面では改行が変で読みにくいですが、『全部見る』だと普通に読めます。



           『肉食忌避』つづき

 生命は不死であり、現象界から生命は去っても霊界にその生命は天現するのであるから、自由意志で転出する場合には罪悪ではない。またそれが痛苦を伴わない場合には残虐ではない。


 ところが肉体の苦痛は、痛覚細胞があって、末梢神経の痛覚細胞の刺戟が大脳の痛覚中枢につたえられて脳細胞のエネルギーが心の痛みに変化して始めて感じられるところのものである。爪や髪の毛は生きていても痛覚細胞がないから痛みを感じない。


 “とかげ”の或る種類はその尾をもって捉えようとするとき、みずからその尾を自然に切断して逃れ去る。その尾は暫くは生きてもがくが如く跳ねているが、それは脳髄の痛覚細胞から切断されてしまっているから痛覚は無いのである。

 肉体のもがきは必ずしも本人の苦痛の表示でない事もある。首を突如として切られたる人間は、その胴体にある手足は暫くもがいているが、それは脳髄中枢から切断されているから痛みを感じていない。それでは切り離された方の頭首は痛んでいるかと云うと、瞬くうちに多量の出血が頚動脈から噴出するので、一定の圧血量を失った脳髄は知覚を失って痛みを感じない。

 結局苦痛と云うものは、肉体でショックを受けたのを知らせる極短時間か、痛むだろうと想像する人間〈又は生物〉の心の観念中にあるのみであると云える。死と見える現象そのものの中にはそれほどの苦痛はないのである。神は決して生き物にそれほどの実際の苦痛を与えてはいられないのである。


 それ故、残虐とは、相手に恐怖心を起さしめ、苦痛の観念を起さしめる行為に名づけられるのであって、“かまきり”の雌が雄をその交尾中に食ってしまっても雄を恐怖せしめず苦痛を感ぜしめなかったら残虐ではない。之に反して、相手を打ちも斬りも傷けもしないでも心に恐怖や苦痛を与えることは残虐であると云い得る。


 ここまで思索してくるとき吾々が植物の果実や菜根を食うのは悲惨であろうか。残虐であろうかと云うことになる。決してそうではないのである。

 植物はみずから翼なく、脚がなく、位置をかえる飛翔も歩行も出来ないので、動物にその運搬を以来するのである。“ただ”運搬して貰う訳には行かないので、その報酬を与えるために美味の果汁や果肉を備えて動物をひき寄せる。

 若し動物が果実を運搬してくれなかったり、間抜きをしてくれなかったりしたら、同じ狭い面積に、多数の種子や苗が重り合って、同類相互に殺し合って、種属の播殖が出来ないので、種子を適当にバラ播いて貰ったり、間抜きをしてもらったりする。その代りに美味の果汁果肉や、葉根等を動物に与えるのである。そのために、種子の熟した頃になると果実を鳥獣に目立つところの赤や黄や紫に色どって彼らの目を引くのである。
             
                      つづく


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