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岡口基一判事ファンクラブ
1097
:
善意の第三者
:2017/01/05(木) 22:16:06
>>1094
え?自分が当事者になった場合?
そりゃ,公正中立にやってもらいますよ。なんたってそれが裁判官の仕事ですから。
…という冗談は置いておくとして,それでもなお,私は君の主張に据わりの悪さを感じます。
以下に説明します。読みたくなかったらそれはそれで。
まず,「裁判官に公正中立が求められる」のは,あくまでも,裁判官としての職権行使の場面においてです。
それは当然のことで,例えば,家庭内で子供と奥さんが喧嘩したときに常に子供の味方をしたところで,
「公正中立ではない」と批判されるにはあたりません(家族としてどうかは別にして)。
…そんなことはわかっている!という声が聞こえてきそうですが,
では,裁判官が職権行使の場面を離れても,「公正中立(らしさ)」を要請される,という論理の基底にあるものは何か,
そして,「公正中立(らしさ)」を要請される場合とは,どういう場合なのか。
まず,前者について。
裁判官も人ですから,それぞれが成育した環境や,受けてきた教育,はたまた培った価値観に至るまで様々であり,
全ての裁判官が同じ思想・信条を有しているわけではありません。
したがって,こと職権行使の場面を離れれば,(何を公正中立というかは措くとして)森羅万象に対して,
各々が異なった見解を抱くのはむしろ当然のことです。
以上を踏まえたうえで,裁判官が,職権行使の場面を離れても「公正中立(らしさ)」を保つべきだ,という論理の基底にあるのは,
「公正中立らしい言動を採らないことが,職権行使の場面でも公正中立ではないのではないか,と疑われる。これは国民の司法に対する信頼を失わせる。」
ということでしょう。
しかし,問題は,「職権行使の場面以外で公正中立らしくない」ことから,「職権行使の場面でも公正中立ではない」と推認することが,
果たして合理的か,ということです。
前述のとおり,裁判官も各々の思想や価値観を持っています。しかし,だからといって,その個人としての思想や価値観がいちいち審判に影響するのでしょうか。
わが国の裁判官の職業人としての矜持や倫理は,そこまで脆弱なものなのでしょうか。
仮にそこまで脆弱なのならば,刑事裁判に携わる裁判官が,配点を受けた事件の報道を見聞きすることの方が,よほど危険ではないでしょうか。
結局のところ,前記の論理基底の深層には,「裁判官の職業的エートスには,社会生活においても自分の意見を表明しないことが含まれる」
という考えがあるのだと思います。そして,問題は,上記の命題を承認するかどうかです。
次に,後者について。
裁判官が,職権行使の場面を離れても「公正中立(らしさ)」を要請される場合とは,
「公正中立らしくない言動を採る」ことが,「職権行使の場面でも公正中立ではない」と合理的に推認できる場合に尽きると考えます。
君が指摘した「寺西判事補事件」において,同判事補は,どのような目的の集会に,どのような立場での参加を要請されていたか,
そして,同判事補が現場でどのような発言をしたかについて,想起してみてください。
私は,同事件では,前述の「合理的な推認」をなされて然るべきであった,と考えています。
また,同判事補の戒告事由は,「積極的に政治運動をすること」です。これについても最高裁は定義づけを行うとともに,
事由該当性判断のための考慮要素を列記しており,また,集会や行動の性質についての認定判断を示しています。
決して,「裁判官は公正中立を求められるから許されない」などという,木で竹を接ぐような論理に依拠したわけではありません。
まあ,そうは言っても君と私の見解は地平線の向こうまで平行線を辿るでしょうから(笑),
この問題(?)についてはこれ以上書くのはやめます。
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