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トキ管理人の悪口を書く板

214神の子様:2018/11/28(水) 20:21:05

宇宙の進化、神の目的
われわれに真の実在である真我を内面深く探究させる原因とならないかぎり、すべての形而上学的な討論は無駄なものである。

宇宙の本性、進化、神の目的などのすべての論争は無益なものである。 
それらがわれわれを真の幸福に導くことはない。

人々は「私は誰か?」を見いだそうとする前に、彼らの外側にあるものごとについて見いだそうとする。「私」を知らずに、どうして幸福を得ることができよう。

出 家
質問者 世俗的な苦しみから逃れる方法はないのでしょうか?

マハルシ 唯一の方法は、真我の内にとどまり、その自覚を決して失わないことである。

質問者 私は仕事をやめて、いつもバガヴァン(至高の賢者)とともにいたいと思っています。

マハルシ バガヴァーンはいつもあなたとともに、あなたのなかにいる。
そしてあなた自身がバガヴァーンなのである。

このことを悟るために仕事をやめる必要も、家庭を放棄する必要もない。 放棄とは仕事着を脱ぎ捨てることや家族を放棄することではなく欲望、愛着、執着を捨て去ることである。 仕事をあきらめる必要はない。

あなた自身を神にゆだねなさい。 神はすべての重荷に耐える。 欲望を放棄する人は、実際、世界のなかに溶け去り、彼の愛を宇宙全体へと広げていく。

本物の神の帰依者にとっては、愛と慈悲を広めていくことのほうが、放棄することよりもずっと優れている。 肉親や身近な関係を放棄した人は、実際には階級や宗教や人種の枠を超えたより広い世界へとその愛と慈悲の絆を広げていくのである。

服を脱ぎ捨て家を捨てるサンニャーシン(出家)は、親族を嫌ってそうするのではなく、彼の周りにいる他の人々へと愛を広げるためにそうするのである。 この愛と慈悲の広がりが起こるとき、人は家から逃げ出してきたと感じるのではなく、その代わりに、あたかも熟し切った果実が木から自然に落ちたように感じる。 それが起こるまでは、家や仕事から逃げ出すことは愚かなだけだろう。

瞑想と真我探求vicharaのちがい

瞑想する者と真我探究する者の目的は同じである。

前者は瞑想を通して静寂に到達し、真我探究する者は探究を通して到達する。

瞑想する者は何かに到達しようと努力する。 真我探究する者は到達しようと努力しているその人を見いだそうとする。これは直接の道である。

前者はより時間がかかる。 それでも、最終的には真我に到達するのである。

瞑想の道は、牛の尻をたたいて進む。でもこの直接の道は牛の目の前にえさをぶら下げている。後者のほうが簡単だ。


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