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トキ管理人の悪口を書く板

203神の子様:2018/11/28(水) 19:54:29
このように見てくると、仏教の生命観とわれわれが一般に考える生命観の間には大きな隔たりがあることが分かる。その違いを具体的に語る例として、寒山(8-9世紀頃)の詩を引用してみよう。

  生前 太だ愚痴にして    今日の悟りを為さず

  今日 許くの如く貪しきは  総て是れ前世の做なり

  今生 又た修めずんば    来生 還た故の如くならん

                                    『寒山詩』

われわれが今、このような生存を享けることになったのは、前世(生前)において、無知と愚かさゆえに悟りの道(仏道)に赴かず、無益に(空しく)人生を終えた結果であると、寒山は言う。そして、今生において、一念発起し、道(仏と成る道=仏道)を尋ね求めるのでなければ、来世もまた、現世と同じように生死に迷う擦れっ枯らしであるだろう。親鸞的に言えば、世々生々に迷っているから、今生の生があり(第3講『恵信尼書簡』参照)、この機会をとらえて、教え(仏法)を学び、道を修するのでなければ、永劫に亘って六道・四生の間を輪廻する徒者に留まるであろうということだ。このように、前世・現世・来世の三世的生命観に立って人間のいのちというものを見ているのが仏教であり、現世のみに限っていのちを見ているのがわれわれ人間の現世的生命観なのだ。

このように、真言・浄土・禅の思想家たちは、三世的生命観に立って、「生死出づべき道」(親鸞の言葉)を求めたのであり、それは遠く「私は幾多の生涯にわたって、生死の流れを無益に経巡ってきた」と言った、釈尊にまで遡る。一方、後者の現世的生命観に立つ時、一度しかない人生を悔いなく、今日一日を大切に生きるという、誠に崇高な人生観が生まれてくることは誰もが知っていよう。もちろん、前者も後者の生き方に賛同するであろうが、後者が必ずしも前者を認めるとは限らないところに、彼ら(道元、親鸞、空海など)と、われわれ人間の生き方、あるいは人生の目的に根本的な相違が生じてくるのだ。

 広劫多生の間、生死の苦海に沈淪し、「われもひとも生死を離れんことこそ諸仏の本意」であるにもかかわらず、われわれは生の由来も分からなければ、死の去り逝くところも分からないまま、いくたびか徒に生まれ、徒に死を繰り返してきた。そして、この人間(凡夫)理解の行き着くところが、『歎異抄』にも見える、中国浄土教の大成者・善導(613-681)の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、広劫よりこのかた常に淪み、常に流転して、出離の縁なき身と知れ」という金言になろう。


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