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トキ管理人の悪口を書く板

202神の子様:2018/11/28(水) 19:50:51

親鸞もまた「広刧多生」と言い、師法然(源空)に出遭うことがなかったならば、生死の世界(サンサーラの世界)を離れて涅槃の世界(ニルヴァーナの世界)へと渡る術(出離の強縁)も分からないまま、徒に時を費やし、空しく今生の生を使い果たしていたことだろうと、師への感謝を込めて、回想しているのだ。禅と浄土の違いはあるものの、生死輪廻について道元と親鸞は同じ理解を示し、それは当然のことながら、仏教の開祖・釈尊にまで繋がっている。 

ここでわれわれは、道元の「徒に」という言葉(釈尊で言えば、「無益に」となろうし、親鸞ならば「空しく」となる)をよくよく味わってみる必要があろう。というのも、まれに人身を享けた者、つまり六道の一つである人間として生まれた者として、ただ自らの趣味と嗜好を追い求めるだけではなく、われわれ一人ひとりには為すべき何かがあること、しかも、いのちのある間に為し遂げねばならないことを示しているからだ。

それは、続いて道元が「たまたま仏法にあえるとき、この身を度せずんば、何れの生にかこの身を度せん」と言ったことからも明らかである。「度す」とは、この場合、「渡す」という意味で、こちらの川岸から対岸に船で渡るというようなニュアンスである。もちろん、こちらの岸(此岸)とはわれわれが今、生死輪廻している世界(サンサーラの世界)であり、渡るべきところは彼方の岸(彼岸)、すなわち涅槃の世界(ニルヴァーナの世界)である。

このように道元は、われわれ人間が今いるところを的確に指摘するだけではなく、たまたま人間として生まれたのであるから、この機会をとらえて、生死の世界から涅槃の世界へと渡って行きなさい。そうでなければ、再びこのような機会が訪れるまでに、あなたはどれほど空しく生と死を繰り返すことになるか、あなた自身にも分からないのだからと、注意を喚起しているのだ。よく知られた『三帰依文』が「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」で始まっているのも、そのためである。しかし、それを型どおり繰り返すばかりで、本当に「生死の苦海を出離せんことを求めず」(慧能『六祖壇経』)、ただ一生を世事にのみ明け暮れていては、詮もない。

とはいえ、真言密教の空海は、われわれが渡るべきは生死の岸(サンサーラの世界)から涅槃の岸(ニルヴァーナの世界)であるけれども、胎・卵・湿・化(四生)とさまざまなものに生まれては、「生死の苦海」(親鸞・慧能の言葉)に沈淪し、四苦八苦するばかりで、容易に高大な涅槃の岸に辿り着けないわれわれ人間がいると言う。

  四生是に蕃滋し、八苦之に因つて鬱茂なり。生死の海、浩浩として沈み易く、涅槃の岸、巍巍として登り難し。

                                空海『性霊集』


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