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トキ管理人の悪口を書く板
198
:
神の子様
:2018/11/28(水) 19:40:13
自心所現の幻境
仏教の世界観をいう場合、しばしば取り上げられるものに「三界唯心」という考え方がある。われわれの経験世界を三界と呼ぶが、それには欲界・色界・無色界という三つがあり、現在、われわれは欲望の世界(欲界)を生きている。
デカルト哲学に代表される二元論的な世界観は、私と世界とを分離し、世界は客観的に存在しているから、客観的に記述可能であると考えるが、仏教が世界をいう場合、経験するわれわれ主体の側も含めて理解していく。言い換えると、世界はそれだけで存在しているのではなく、外的に存在すると見られる客観世界も、見る側の心と密接に結びついているということで「三界唯心」と熟語される。その典拠として、「三界は虚妄にして、但これ一心の作なり」(『華厳経』)、「三界は虚偽にして唯心の所作なるのみ」(『大乗起信論』)などが挙げられるが、いずれもわれわれが存在している(正しくは、捉えている)世界は「虚妄」にして、「虚偽」であるというところに注意を払わねばならない。それを『楞伽経』は、この世界はわれわれ自身の心が現出した幻の境界(世界)であるということで、「自心所現の幻境」と纏めた。
このように、世界はそれだけで存在しているのではなく、われわれ自身の心と深く関係しながら、あざなえる縄のように存在している。従って、世界を語るとき心を語らざるをえないし、心を語れば世界も語ることになる。つまり、世界はそれを捉えているわれわれ自身の心を離れては考えられないのだ。否、事はそれだけではない。
生死はただ心より起こる 心もし滅することを得ば 生死も則ちまた尽きん 『華厳経』
生死は一義的にわれわれの身体(肉体)に関るものである。しかし、この経典は、生死という、言わば物質的・肉体的な出来事も、われわれ自身の心と深く関係していると見ているのだ。つまり、あなたが生まれてきた原因にあなた自身の心が深く関与しているということだ。すると、生(誕生)をまるで他人事の如く思っている人々は、その短絡的な思慮のなさを反省しなければならないであろう。というのも、われわれは言葉にこそ出して言わないけれども、誰もが理論上そう思っているし、それは産むことについても言える。
だから今、幸せならば、産んでくれたことを両親に感謝し、そうでなければ、なぜ産んだのかと詰り、我が身の不幸を託つ。しかし、そのいずれもが的外れな誤解と無知に過ぎない。そうして、生死がただ心より起こるのであれば、当然のことながら、生死が尽きるのはわれわれの心が消え去るときであろう。すると、心というものが一般に理解されている概念を遥かに超えて、われわれ人間の存在(生と死)を規定する重要なファクターをなしていることが容易に理解されるはずだ。
この存在の基本原理を銘記した上で、われわれの心が消え去るとき、心は一体どうなるのであろうか。もちろん、それは無心となる。しかし、「無心はすなわち真心なり、真心はすなわち無心なり」と禅宗初祖の菩提達磨(6世紀頃)も言ったように、無心こそわれわれの本来の心(真心)であり、そこに心などというものが妄りに起こるがゆえに、われわれは今、生々死々を繰り返しながら、六道の世界(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を独り廻っているのだ。これを仏教は六道輪廻という。
何が故に衆生は六趣(六道)に輪廻し、生死を断たざる。答えていわく、衆生は迷妄にして、無心の中において妄に心を生じ、種々の業を造って六趣に輪廻せざるは無し。 菩提達磨『無心論』
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