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「冷凍コーヒー」専用板

609トンチンカン信徒:2019/06/06(木) 09:58:32
〜本来正統皇室は、陽成天皇の子孫、宇多天皇の血統を継ぐ、南朝も現在の北朝も天皇血統では無かったのは、史実だから、従って、現在、女性天皇陛下が、生まれても何の問題も無いのであります〜

(宇多天皇が、源定省公として、臣籍降下した史実)
※基準として、臣籍降下した、皇統は、天皇陛下になれないの現在の基準だが、もし、戦後廃絶した、宮家は、臣籍降下したのと同じであり、天皇陛下に慣れないのは、基準であります。

もしなれたら、平将門公も足利義満公も、天皇陛下になれますね。男系天皇陛下論の人々の理論だとね。("⌒∇⌒")

※※※※※※※※※※※
概要
宇多天皇(うだてんのう、867年6月10日(貞観9年5月5日) - 931年9月3日(承平元年7月19日))は、日本の第59代天皇(在位:887年9月17日(仁和3年8月26日) - 897年8月4日(寛平9年7月3日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。


1.略歴
1.5.陽成との関係
陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に陽成に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった[10]。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話[11]が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。
保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。


1.略歴
光孝天皇の第七皇子であり、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王であった。父光孝天皇は即位後に関白藤原基経の妹藤原高子の子であり、陽成天皇の弟であった貞保親王をはばかり、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏とした。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。陽成天皇に王侍従として使えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり、二人の体が椅子にぶつかったため手すりが折れたという話が残っている[2]。
仁和3年(887年)には光孝天皇が重態に陥ったが、後継を指名しなかった。実力者の基経は天皇の内意が貞保親王ではなく定省にあるとした。基経は、非常に仲の悪い妹藤原高子の子であり、陽成天皇の弟である貞保親王は避けたい事もあり、朝議は一決した。定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子であり、後宮に強い影響力を持っていた淑子が定省を熱心に推薦したことも大きかった。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立てられた。しかし基経自身は特に定省を気に入っていたわけではなかった[3]。また、定省には同母兄の源是忠がおり、兄を差し置いて弟が立つと言う問題もあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて立太子を行うと言う形が取られた[4]。立太子したその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。


※宇多天皇の臣籍降下した史実。ポイント

>>、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏とした。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。陽成天皇に王侍従として使えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり、二人の体が椅子にぶつかったため手すりが折れたという話が残っている[2]。<<


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