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「冷凍コーヒー」専用板

608トンチンカン信徒:2019/06/06(木) 09:33:53
>>606
〜カルトな新羅人に、天皇陛下を語る資格なし②〜

(皇統移動の歴史的史実)

上記の二人が、カルト信仰の新羅人なのは明白だし、皇統移動した、史実も、六でもない、新羅人なは、明白です。

天皇陛下の血統が、陽成天皇陛下の血統なのが、歴史的正解ですが、現在の天皇陛下の北朝も、南朝皇室も、実は、臣籍降下した、宇多天皇の皇統です。

女性天皇の不正統を持ち出すの、こうした、歴史を知らない、新羅人だからです。

もし、こうした、実はを踏まえるなら、彼らの理論からすると、平将門公も、足利義満公も正統天皇になれたわけです。

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(正統皇室の陽成天皇と、亜流皇室で、臣籍降下してる、宇多天皇)

概要
陽成天皇(ようぜいてんのう、869年1月2日(貞観10年12月16日) - 949年10月23日(天暦3年9月29日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:876年12月18日(貞観18年11月29日) - 884年3月4日(元慶8年2月4日))。諱は貞明(さだあきら)。


1.略歴
1.3.皇統の移動
陽成には同母弟・貞保親王もあり、また基経の外孫である異母弟・貞辰親王(女御・佳珠子の所生)もあったが、基経・高子兄妹間の確執とそれぞれの憚り(同母弟を押し退けての外孫の擁立、我が子の不祥事)がある状況ではいずれとも決しがたかったのか、あるいは幼年天皇を2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族へ皇位継承が打診された。まず陽成の曾祖父・仁明天皇の従弟でかつて皇太子を廃された恒貞親王(出家して恒寂)に白羽の矢が立ったが拒絶される。仁明の異母弟である左大臣・源融は自薦したものの、源姓を賜って今は臣下であると反対を受ける。結局、仁明の皇子(陽成の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父の時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することになった。
光孝は自身の皇位を混乱回避のための一代限りのものと心得、すべての皇子女を臣籍降下させて子孫に皇位を伝えない意向を表明した。それは皇位が陽成の近親者、特に陽成の弟であり、また藤原基経の甥でもある貞保親王に行く可能性を考えての行動であった。ところが、即位から3年後の仁和3年(887年)、光孝は病に陥り皇位の行方が問題となった。が、基経は高子と相変わらず仲が悪く、その子である貞保親王を避けていたために、基経と光孝は相計って次期天皇として8月25日に光孝の子である源定省を皇籍に復帰、翌日には立太子させ、そして即日崩御した。こうして定省親王(宇多天皇)が践祚したが、皇籍復帰から皇位継承に至る一気呵成の動きは、はたして重篤であったろう光孝の意志を反映したものか疑問もあるところで、これには天皇に近侍していた尚侍・藤原淑子(基経の異母妹)の力が大きく働いており、同母兄も複数ある宇多が皇位を継いだのは淑子の猶子であったためと言われる。
この異例の皇位継承により、皇統は光孝―宇多―醍醐の系統に移り、嫡流であった文徳―清和―陽成の系統に再び戻ることはなかった。後に陽成は、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言った(宇多は陽成朝において侍従であった)という逸話が『大鏡』に載る[8]。
陽成の退位後も光孝系の歴代からの警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説[9]がある。


1.略歴
1.5.陽成との関係
陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に陽成に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった[10]。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話[11]が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。


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