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「冷凍コーヒー」専用板
1013
:
トンチンカン信徒
:2019/09/23(月) 12:13:21
>>1012
嘘つきハンネ=つれづれ草は、志恩さんと同じ、在日新羅人の可能性が、出てきました。
志恩さん、可なり、日本歴史を歪曲する、コメントを沢山観測されています。
ハンネ=つれづれ草は?
至道無難禅師を、白陰禅師の『師匠』とコメントしていますが?実際違います。
白陰禅師は、至道無難禅師の弟子の正受老人が、正式な直接の師匠で?
至道無難禅師から、見たら、白陰禅師は、孫弟子と言うことになり?
ハンネ=つれづれ草は、志恩さんに良くにた、日本歴史を歪曲する、コメントする、在日新羅人だとわかります
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
(ハンネ=つれづれ草が、歴史を歪曲するコメント)
記事番号[8859]
NAME
つれづれ草
MES
>臨済宗の無難禅師の考え方と生長の家の考え方は、全然違うのは、読めば、すぐわかることです。一目瞭然です。
と云うことは生長の家は、無難禅師〜白隠禅師と続き、現在の臨済禅へと続く法統を完全否定するのですね。
仏道習う人で、曹洞、臨済禅を否定する人はありません。
一介の生長の家人が日本だけでも千年続いている禅を否定する。このように表面だけいい顔して、腹の中では佛教を否定するのですね。
『全然違うのは、読めば、すぐわかることです。一目瞭然です』とのたまう程の人間を作り出すのが生長の家の目的なんですね。
投稿日時
2019年01月04日 (金) 16時32分
(この部分は、歴史を歪曲した、書き方で、この書き方だと?至道無難禅師は、白陰禅師は、直接の弟子となり、正受老人と兄弟弟子と成ってしまい、歴史を歪曲した、コメントとなりますね)
>>無難禅師〜白隠禅師と続き、現在の臨済禅へと続く法統を完全否定するのですね。<<
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
<一般報告の史実の正しいコメント>
概要
至道無難(しどう むなん、慶長8年(1603年) - 延宝4年8月19日(1676年9月26日))は江戸時代初期の臨済宗の僧侶。本姓は大神氏、俗姓は相川。幼名は刑部太郎、通称は治太郎、源右衛門。俗諱は親明(ちかあき)。号に却外、道時等。
白隠慧鶴の法祖父に当たることで知られる。関ヶ原宿で本陣を営み、50歳前後で出家、寺を構えることを厭い、庵を営んで過ごした。また法語を説く際には好んで道歌を用いた。
2.生涯
2.4.晩年
寛文7年(1667年)門人が東北庵を禅河山東北寺へと発展させると、無難はその初代住職となることを請われたが、辞退した。自身の高弟道鏡慧端は信濃国にあったため、三田に隠棲していた弟弟子洞天慧水を呼び寄せてこれに当て、自身は別院に住んだ。この頃『即心記』『自性記』を著した。
道鏡慧端(どうきょう えたん、寛永19年10月22日〈1642年12月13日〉 - 享保6年10月6日〈1721年11月24日〉)は江戸時代の臨済宗の僧侶。正受老人の名で知られている。信州松代藩主真田信之の庶子。
19歳で出家し、至道無難などの指導を受ける。臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴の師で、白隠が大悟したと思い込み慢心していたところを厳しく指導し、正しい悟りに導いた。
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