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「うのはな」さん 専用掲示板

6313転載:2020/08/01(土) 15:11:13

神から離れていることを、

聖書には「死んでいる」と書かれているのですから。





私たちは、

「本心」に立ち返って

原点に回帰しなければならない時を迎えているように思えます。





このことを心に留めながら、

いま少し旧約聖書を読み進めてみましょう。





神が食べてはいけないと言った、

知恵の木の実を食べてしまったアダムとイブ。

「目が開けて」知恵がつきました。





すべての生きるものの中で、

唯一神に似せて創造された人間。



神の霊を吹き込まれた人間が、

神から離れてゆく様子が描かれています。

創世記第3章は、こう締めくくられています。





主なる神は人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

主なる神は言われた、



「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知る者となった。

彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。



そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、

人が造られたその土を耕せられた。



神は人を追い出し、エデンの園の東に、

ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。



いちぢくの葉を繋ぎ合わせて身につけていたアダムとイブ。



神は、エデンを追放するとき二人のために

「皮の着物を造って」着せてくれました。



もしも、神が怒り、許さないから追い出したのなら、

いちぢくの葉っぱも取り上げ、裸一貫で追放したでしょう。



「皮の着物」です。

動物を殺し、血を流して造ってくださったのです、

約束を守らなかった人のために。





私は、ここに神の愛を感じ、胸が熱くなります。

愛を持って追い出したということは、決して罰ではなく、

人に対して大きな希望をもっておられたことが胸に迫ってなりません。





自我を持ったのは、神から離れるため

神から離れたのは、神を見るため。



神も、人に気づかれて初めて「存在」することができます。



認識する方、認識される方。



主と客が存在して初めて「在る」ことが可能になります。





さて、



「ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」



とはどういうことでしょうか。



ケルビムは、旧約聖書に何度も出てくる、

そして黙示録にもそれと思われる存在が登場する正体不明の怪しい物体です。



なんだか顔がいくつもあり羽が生えていて、

触ると電気ショックで死んでしまう。また、回る炎のつるぎって……?





 聖書、特に旧約聖書の創世記は神話です。



神話とは、そこにある真実、

そして祖先が子孫に命懸けで伝えようとした

「本当のこと」が結晶となった祈りなのです。





 私に伝わってきた、ユダヤの祖士たちの気持ちは、



「命は終わらないよ、永遠に続く命をあなたは生きているんだよ。

でも、あなたが思っているあなたは、

自分勝手に作り上げた自我でいっぱいの私という錯覚だ。



神の世界、永遠の命の世界にアセンションするために、

思考というアプローチではいけないよ。



回る炎のつるぎのような、グルグル回るあなたの思考では

命の秘密にはたどりつけない。



思考を超えて、神の愛に帰ってきなさい」というものでした。


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