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「うのはな」さん 専用掲示板

6311神の子様:2020/07/31(金) 11:42:19
☆特に、金志恩婆さんやアクエリアン爺さんや日野ボンボンが、分裂活動者とわかる。記事は、こちらの部分です。
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【政治活動の撤退と「国際平和信仰運動」の提唱 編集
1978年に雅春は生長の家総本山に移住し政治活動の一線から退いた。生長の家の政治運動には初期から内部での路線対立は存在した[28]が、この頃から政治運動に積極的な「飛田給派」と否定的な「教団派」(本部派)の対立が激しくなる。しかし、1982年時点では教団派の理事長が更迭されるなど飛田給派の影響力が強かった[29]。なお、飛田給派と本部派の名称の由来はその拠点となった場所がそれぞれ「生長の家飛田給道場」と「生長の家本部」だったからである。

1983年(昭和58年)、当時の理事長の徳久克己は飛田給道場の創設者ということもあり飛田給派の人間であると見られていた[30]が、優生保護法改正を巡って自由民主党と対立したことを理由に、生長の家政治連合の活動を停止を決断した[30]。1985年(昭和60年)6月17日に雅春が死去し、娘婿の清超が第2代の総裁に、妻の恵美子が第2代の白鳩会総裁に就任。同年、日本を守る国民会議から脱退し生長の家は自民党やその支持団体と距離を置くようになった。
、「国際平和信仰運動」を提唱し推進、日本政府による大東亜戦争への反省や戦争責任の追及、人権感覚からの女系・女性天皇の推進を表明するなど、これまでの愛国・保守(=右翼)的教義から距離を置くような転換を積極的に進めている。】


以上、一般検索による。本流派〔ホンリュウ派〕と「自称する生長の家分派の分裂活動者」の事実。 パリジェンヌのchanson夫人は、自分が、傍観者なのに、他人とやかく言うのは、上記の記事のように、在日新羅人に、脳みそを操縦された、哀れな関西方面の人民だからだね(笑)


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