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「うのはな」さん 専用掲示板

6309神の子様:2020/07/31(金) 10:42:30
③、上記の①と②の生長の家分派が、如何に、初代総務〜3代総裁・元理事長・元飛田給総務・徳久先生の御言葉を無視して、生長の家より、分派(自称・本流派)分裂団体を創設したか、わかる記事です。
【生長の家分派(本流派)が、生長の家の信徒・信者では無い事実。横浜・日吉町の金志恩婆さんもアクエリアンも、現在教団に所属して、分裂活動をしてしまってる。兵庫の日野ボンボン青年には、皆さん気おつけましょ】

戦後の法人化と政治への参加 編集
戦後は西洋思想家の著作の邦訳も行っていたが、その翻訳作業の助手の募集を見た者の中に、後に雅春の養嗣子となり、第2代総裁となった荒地清超(後の谷口清超)がいた。清超は1946年(昭和21年)に雅春の一人娘の恵美子と結婚する。

1949年(昭和24年)に「生長の家教団」として宗教法人格を得て、組織の再構築を行った。その後は妊娠中絶反対運動などでも積極的に政治活動を行うようになり、伊勢神宮の神器の法的地位の確立(一宗教法人の私物ではなく皇位継承と特別な関係のあるものと主張)や、靖国神社国家護持運動など右派活動を行った[22]。さらに、建国記念の日の制定や、元号法制化に教団を挙げて協力した他、「優生保護法廃止(堕胎禁止・反優生学)」「帝国憲法の復原・改正」を掲げて生長の家政治連合(生政連)を結成し玉置和郎、村上正邦、田中忠雄、寺内弘子を自由民主党公認候補として参院選に送り込んだ(この付近の経緯は、公明党を生んだ創価学会とよく似ている。公明党の前身は創価学会文化部から出た無所属議員である)。

1978年(昭和53年)の第2回相愛会男子全国大会(日本武道館で開催)の時には、玉置和郎や中川一郎、黛敏郎また130名程の国会議員が参加し、渡米中だった、時の首相・福田赳夫から祝電が届いた。

また、学生運動が再高揚した1969年(昭和44年)には、生長の家学生会全国総連合(生学連)を中心に生長の家青年会・生長の家政治連合の後押しを受け、他の保守系諸団体と共に全国学生自治体連絡協議会(以下「全国学協」)[23]を結成し、「学園正常化」と「YP体制打倒」「反近代・文化防衛」を掲げて、全国の大学で全日本学生自治会総連合と激しく衝突した[23]。


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