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「うのはな」さん 専用掲示板

4933トンチンカン信徒:2019/03/07(木) 14:16:43
>>4932
※上記の続き

NAME
清流の民
SUB
「新経本」は、実相の生命と現象の生命を混同している。
MES
久しぶりに投稿します。1年半ほど前に第二掲示板に投稿したのですが、最近この掲示板に2回も取り上げていただきました
転載様、くおんいま様、有難うございました。
そして志恩様、お礼が遅くなりましたが、本当に有難うございました。
もう一度投稿してみる気になりました。
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谷口雅宣総裁の言っていることは、要するに環境倫理学なのです。環境倫理学で「自然と人間の共生」と云うところを、宗教的装いを着けて、「神・自然・人間の大調和」と言っているのです。
環境倫理学ならいいじゃないかと思われるかもしれませんが、よくありません。
環境倫理学は人間が自然破壊することを、極端に嫌いますが(それは確かに無暗に自然破壊することは良くないことです)、その一方で自然界の弱肉強食は容認・肯定しているのです。(環境倫理学や生態学では食物連鎖とか食物網とか云っています。)
生長の家の教えとは、根本的に世界観が違っているのです。

谷口雅春先生が修行時代のことでありますが、自宅の庭で蛇が蛙を食べようとしているのを観られた。谷口雅春先生はそれを見て、「なぜ神様はこういう弱肉強食の殺し合いの世界を作られたのであろうか」と心を痛められ、そしてついに現象を否定して、「一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく」という実相世界を発見されたのであった。
これに対して環境倫理学は蛇が蛙を食うのを見ても、「それは・・・別に悪ではない。そういうものなんだ。そう云うふうにして自然界は循環しており、生態系のバランスが守られているのだ。」と言うのでしょう。

雅宣総裁はあきらかに環境倫理学の立場に立っています。だから観世音菩薩讃歌で
「猛獣走りて鹿を倒し カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、その結果、必ずしも悪に非ず、善に非ず、定められたる法則の産物にすぎざるなり。」と書いているのです。

猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べるのを「悪である」と云ってしまったら、食物連鎖・食物網を否定することになり、総裁の信じている環境倫理学は崩壊してしまうのです。
かといって「悪ではない」とハッキリ云ってしまうと信徒は反発するかもしれない。
そこで「必ずしも悪に非ず、善に非ず」という中途半端な、屈折した表現になっている
のです。
しかしいつまでも屈折しているわけにはいかないので、最後には、「壮大華麗なる自動運転の世界なり」と云って思いを晴らしているのです。


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