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「うのはな」さん 専用掲示板

442シャンソン:2016/04/27(水) 14:26:27
>>441

 神道と他の宗教の教えとの違いとは一体、なんなのでしょうか?そもそも神道にはなぜ、明確な教えがないのでしょうか?
それに対する神様からの答えが冒頭のもの。『神の世界に「教え」なんてありません』という、極めて短い、シンプルな回答でした。.....で、ここからはその答えを聴いた、私の見方、考え方です。

 神様の世界に「教え」がないとすれば、世界の宗教が説いている「教え」は一体、誰がつくったものなのでしょうか?
客観的にみれば、各宗教の「教え」は、その宗教の開祖本人が自らまとめたものではありません。
キリスト様は主に「愛」を説かれており、お釈迦様は主に「慈悲の心」を説いたといわれます。キリスト様も、お釈迦様も、自ら到達した真理の世界を回りに伝え、その真理のとおりに生きていただけに過ぎません。

 彼らが到達した真理を周りの人が後世に伝えようとして、まとめたものが聖書であり、仏典の元になったもの。その本質は誰かに教えるような類いのものではなく、ただ、彼らが何を語り、どう生きたかという記録に過ぎないのでは....?
そう考えると、それを「教え」にして、宗教という形にしてしまった時点で、キリスト様やお釈迦様が本当に伝えたかったものとは、何か違うものになってしまうような気がするのですが、どうでしょう?

 はっきり言えることは、キリスト様にしろ、お釈迦様にしろ、宗教を創ろうとしたワケでもないし、自らの「教え」を広めるために布教していたワケではありません。彼らはシンプルに、自らの真理に基づいて生きた実践者だった。
実践者とは、自らの思いどおりに人生を切り拓き、自らの足で自分の信じる道を歩き続ける人のこと。そういう意味でキリスト様は、キリスト教信者ではなかったし、キリスト教の「教え」どおりに生きていたワケでもありません。お釈迦様もそう.....。
彼らはどちらも自らの脚で「神の道」を歩んでいた人。まさに「神の道」の実践者。むしろ「神道」の精神に近いものがあったのではないでしょうか。
日本の神道に「教え」が存在しないのは、こういう理由からだと、私は考えます。

「教え」とは、「押し得る」こと。特定の考え方や価値観、技術やノウハウを誰かに押しつけることにより、見返りとして何らかの報酬を得る行為のことだとか.....。
具体的な技術やノウハウであれば、ある程度教えることはできても、真理と呼ばれるような本当に大事なことは、教えて教えられるものではないと思うのです。
 神の世界に「教え」がないとすれば、当然、神様が人に罰を与えることも、特定の誰かを地獄に落とすこともないでしょう。
そうやって、「教え」によって、他人をコントロールして得をするのは、神様ではなく、人でしょう。
人がつくった「教え」どおりに生きるのも悪くありませんが、少なくともそれを神様が本気で望んでいるとは、私は思えません。

 自分の足でしっかりと立ち、自らが切り拓いた道を歩くこと。自分の身に起きたことは、自己責任で受け止めて、実践者としての人生を貫くことこそ、「神の道」を行く「神道」の精神に則った生き方になると、私は思います。
そんなふうに考えていると、神様からフッとこんなメッセージが届きました。
『すべての人が、ちゃんと思いどおりの人生を生きています。だから、「教え」にとらわれず、あなたはあなたの思ったとおり、自由に生きればいいのです』

 『神社の神様に聴いた 天国に行ける人、行けない人』 はづき虹映 著


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