したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

「うのはな」さん 専用掲示板

2287シャンソン:2017/11/02(木) 16:47:28
     長谷川幸洋の新左翼運動顛末記

ケント ところで、話が本題からしれるかもしれませんが、長谷川さんは何で若い頃、
左翼運動をやったんですか。

長谷川 私が在籍した千葉高校の2年生のときに、全国的にもそうでしたが、県の教育庁が、
高校生は政治活動をしてはならないという政治活動禁止通達を出した。これに反対しようということで、二百数十名いたと
思いますが、デモをしたのがきっかけです。デモ行進のときに、私たちと一部の教師たちが一緒に横を歩いていたことをよく覚えていますね。

ケント その教師たちは日教組でしたか。

長谷川 そう、たぶん高教組でしょう。要するに可愛い生徒たちに何か間違いがあったらまずいということで、教師たちが私たちの周りに立って、一緒にデモ行進したわけです。
当時、千葉県では成田空港の建設に反対する三里塚の成田闘争が展開されていましたから、高校生たちも政治活動に敏感で、私はよくデモに参加していましたし、日比谷の野音(日比谷公園野外音楽堂)で
開かれていた集会やデモにもよく行きました。

 あるときに、赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)からオルグ(勧誘)されたんですが、彼らは過激すぎると思ってついて行きませんでした。
すると一緒に声をかけられて参加した連中は、山梨県の大菩薩峠で塩見孝也赤軍派議長以下、首相官邸襲計画を練り、訓練していたものの、その様子は全部ばればれで53名全員が凶器準備集合罪で捕まってしまいました
(1969年11月5日)。これがいわゆる大菩薩峠事件です。高校生が何人も逮捕されました。

 その後、大学に入ってから、いったん学生運動は下火になりました。しかし、横浜の一般道路を通る米軍の戦車を止めようとしていた活動グループ、都立高校で運動していた学生などがいて、大学でも学生自治会を再建しようという
動きが出てきたので、私は経済学部自治会の副委員長に立候補して、当選しました。当時、慶應義塾大学が学費を値上げするという話があり、「学費値上げ反対闘争」を立ち上げて、日吉キャンパスの全学ストライキを決める学生大会で私は
副議長を務めました。で、半年ほどキャンパスをナリケード封鎖しましたが、結局、闘争は負けて大学は正常化していきます。私はノンセクト(無党派)でしたが、革マル派、中核派、共産同、社青同解放派など各派はすべてがキャンパスに来ていて、彼らの主導権争いが
激しくなる過程では、襲撃されて大ケガするなど、酷い目に遭った者もいました。

 私は幸い、そういうことになりませんでした。それは、たぶん私が学生大会で各派に中立的な副議長を務めていたからでしょう。私を襲撃しても得るものはない。それより学生大会で自分たちの発言を認めさせたほうが得だと思ったからじゃないですか。

ケント 幸い生き延びることができたといっても、危なかったですね。

長谷川 やがて学生運動と距離を置くようになって、勉強でもするかと思い直してゼミではマルクス経済学をやり、卒論を書き、いまさら普通の企業に行っても務まらないと思ったので、新聞社にでも入るかということで東京新聞に就職したわけです。

ケント あー、よかったですね。話を聞いていて、ようやくホッとしましたよ(笑)。
いまの長谷川さんの話は、「左翼は美しい」と思って、そっちに引きずられそうになっている若者には勉強になりますね。

 『ケント&幸洋の大放言』 中・韓・沖縄にはびこるペテン師たちの正体 ケント・ギルバート 長谷川幸洋 著


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板