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「うのはな」さん 専用掲示板

2166シャンソン:2017/09/15(金) 08:07:30
   道元が教える「人生の目的」「本当の自分」とは

 私のライフワークは道元禅師の『正法眼蔵』という書物の研究です。
十九歳から読み始めて、もう三十八年間も読み続けているということになります。
 この書は難解であると知られていて、「世界一難解な哲学書だ」と評した著名な哲学者がいました。
その難解さがどんなものなのか、『正法眼蔵』中の有名な(比較的わかりやすい)一節を紹介しますので、
とりあえず読んでみてください。

➀仏道をならふといふは、自己をならふなり。
➁自己をならふといふは、自己をわするるなり。
➂自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
➃万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 (『正法眼蔵』現成公案より)

 どうですか。なかなか難しいでしょう。とりあえずひと通りの解釈だけはやっておきます。

➀「仏道」とは仏となることをゴールとして歩む道のことです。
しかし、仏道を学ぶとは自分が仏になることを学ぶ(まねをする)というのではなくて、自分が本当の自分になることを学ぶことなのだ、
とこの文は示しています。

➁では、自分が本当の自分になり切れるのはどういうときなのかというと、その自分というものが忘れられているときなんだよ、と示しておられるのです。
つまり、<今・ココ>で出会った課題に全力で我(自分)を忘れて取り組んでいるようなとき、その人の本当の個性が最高に輝いているのだ、と示しておられるのです。
いのちというものは、不思議なことに、どの瞬間もつねに<今・ココ>の上にあります。

ところが人間は頭があるものだから、過去や未来や別のところに意識を飛ばして、なかなか<今・ココ>といういのちの本来の落ち着き場所に収まりません。そういう中途半端な
へっぴり腰の状態では、自分の本当の能力をフルに発揮できないのです。道元禅師は、いのちはつねに<今・ココ>の当事者であるとして、客観や傍観という言葉に対して「当観」という言葉も使っておられます。

➂そのっように、<今・ココ>の課題にわがいのちの本腰を入れて取り組めるようになったとき、そのとき、我を忘れていますから、我という個と世界という全体を区切る境界がとり払われています。
そうしますと、ここは少し神秘的な話になりますが、世界全体がその人の課題解決のために全面的に協力してくれるようになるというのです。「万法」とは「世界」のこと、「証」とは
道元禅師独自の用語で「はっきりした、具体的な形として表現される」という意味です。

 つまり、我を忘れて(エゴ性を忘れて)その目下の課題に全力で取り組んでいけば、世界中のモノゴトが寄ってたかってその課題の成就を具体的な形として表現すべく協力してくれることになるとおっしゃっているのです
(君たちの受験という課題の場合もそうであるのですよ)。

➃さて、そのように自分が合格できたのは自分の力だけでできたことではなかったのだ。世界全体が自分を中心として働いてくれ、協力し、あと押ししてくださって合格できたのだと気づいたとき、その人は初めて自他の別なんて本当はなかったのだ、
本当は、いのちはひとつしかなくて、だから自分のために世界が動いてくれ、また世界のために自分が動くことになるのだと気づくのです。それが「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」です。
自他や世界のモノゴトを分けていた仕切りが脱落して、生き通しのひとつのいのちとなるのです。

 以上がその解釈の一端です。自我を超えたとき、なぜその人の最高の力が発揮できるのかというあたりの話はトランスパーソナル心理学という分野があって研究されています。アブラハム・マズロー、ケン・ウィルバー、ロベルト・アサジオリなどが有名です。
また、わが校の図書室には『正法眼蔵』の全巻を註釈した全集があります。これは第四代校長の原巳先生の寄贈で、原校長は禅をやっておられて、私が師事していた内山興正老師とはお友だちで、私が修行していた道場にもよくおいでになって坐禅しておられたそうです。
この学校に赴任してからそのことを知って、不思議な因縁を感じました。

  『2万人の人生を変えた23通の手紙』 立花大敬 著


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