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読書紹介板

226A空慧理庵:2017/07/21(金) 21:30:52
唯識入門②

・・・・・かつてあれほど若い日の自分を悩ました唯識論(ゆいしきろん)、あの壮大な大伽藍の やうな大乗仏教の体系へと、本多は今や、バンコックの残した美しい愛らしい一縷の謎をたよりに、 却ってらくらくと帰ってゆけるやうな心地がした。

 さるにても唯識は、一旦「我」と「魂」とを否定した仏教が、輪廻転生の「主体」をめぐる理論 的困難を、もっとも周到精密な理論で切り抜けた、めくるめくばかりに高い知的宗教的建築物であ つた。その複雑無類の哲学的達成は、あたかもあのバンコックの暁の寺のやうに、夜明けの涼風と 微光に充ちた幽玄な時間を以て、淡青の朝空の大空間を貫いていた。

 輪廻と無我との矛盾、何世紀も解きえなかつた矛盾を、つひに解いたものこそ唯識だつた。何が 生死に輪廻し、あるひは浄土に往生するのか? 一体何が?
・・・・・・・・・・。
 そもそも「唯識」といふ語をはじめて用ひたのは、インドの無着(むじゃく-アサンガ)であつ た。無着の生涯は、その名が六世紀初頭に金剛仙論を通じて支那へ伝へられたときから、すでに半 ば伝説に包まれていた。

唯識説はもと、大乗アビダルマ経に発し、のちに述べるやうに、アビダルマ経の一つの偈(げ)は 唯識説のもつとも重要な核をなすものであるが、無着はこれらをその主著「摂大乗論」で体系化し たのである。因みにアビダルマは、経・律・論の三蔵のうち、「論」を意味する梵語であるから、 大乗アビダルマ経とは、大乗論経といふに等しい。

 われわれはふつう、六感といふ精神作用を以て暮らしている。すなはち、眼、耳、鼻、舌、身、 意の六識である。唯識論はその先に第七識たる末那識(まなしき)といふものを立てるが、これは 自我、個人的自我の意識のすべてを含むと考えてよからう。

しかるに唯識はここにとどまらない。その先、その奥に、阿頼耶識(アーラヤしき)といふ究極の 識を設想するのである。それは漢訳に「蔵」といふごとく、存在世界のあらゆる種子(しゅうじ) を包蔵する識である。

 生は活動している。阿頼耶識が動いている。この識は総報の果体であり、一切の活動の結果であ る種子を蔵めているから、われわれが生きているといふことは、畢竟、阿頼耶識が活動しているこ とに他ならぬのであつた。

 その識は瀧のやうに絶えることなく白い飛沫を散らして流れている。常に瀧は目前に見えるが、 一瞬一瞬の水は同じではない。水はたえず相続転起して、流動し、繁吹を上げているのである。

 無着の説をさらに大成して「唯識三十頌」をあらはした世親(ヴァスバンドウ)の、あの、 「恆に転ずること暴流のごとし」  といふ一句は、二十歳の本多が清顕のために月修寺を訪れたとき、老門跡から伺って、そのとき は心もそぞろながら、耳に留めておいた一句であつた。

 それはまた、かつてのインド旅行で、アジャンタへ赴き、今の今まで誰かがいたやうな気のする 僧院(ヴィハーラ)をでたとき、たちまち目をうつたあのワゴーラ川へ落ちる一双の瀧の思ひ出に つながつていた。

 そしておそらく最終の、究極のその瀧は、はじめて勲に会った三輪山の三光の瀧や、はるかむか し、老門跡のお姿をそこに認めた松枝邸の瀧と、鏡像のやうに相映じていたのである。

『豊饒の海』第三巻「暁の寺」第十八章より


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