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読書紹介板

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5つ星のうち4.0
「現れ方」と「在り方」のギャップ
投稿者カーマインベスト1000レビュアー2015年5月2日

形式: 文庫

 原著は1992年であり、訳書の最初の刊行は1995年である。ダライ・ラマ14世による真面目な仏教解説である。
 曰く・・・
 存在しないものと、存在するものがあり、存在するものとは、事物であり、意識の対象となるものである。存在するものは、常住なもの(観念的存在、因果関係にないもの)と無常なもの(非観念的存在、因果関係にあるもの)に分類される。無常なものは、物質的存在、意識および両者の混合体からなる。
 輪廻という現象は、特定の条件によって生じたものである。絶対神によって輪廻が創造されたのではなく、特定の原因と条件があることによって特定の結果が生じる、とする(自己秩序形成的?)。何ものからも生じたものではない永遠不変の事物には結果を生み出す機能がない。輪廻における諸事物を生じさせる条件はすべて無常なものである。
 無知→行為(行)→意識(識)→名称と色形(名色)→6つの感覚領域(六処)→接触(触)→感受作用(受)→欲求(愛)→執着(取)→業(有)→誕生(生)→老衰と死(老死)の順に生じる。苦が生み出されていくプロセスの根本に無知がある。
 無知は捨て去るべき煩悩のなかでも根本のものである。無知には、生来の無知と、(適切でない)学問によって獲得された無知がある。
 人には、事物を縁起によって生じたものではなく、それ自身の力によって成立しているものと誤解・誤認する「生来の無知」が備わっている。
 仏教は、人生は幻であると述べるが、人生=幻なのではなく、むしろ、「幻と似ている」ということを意味している。対象は実体として存在しているように見えるものの、実際にはそのような実体性はない。しかし、日常的なわれわれの意識は、ものは現れた通りに存在していると想定することで成り立っている。知覚への絶対の信頼があるため、「現れ方」と「実際のあり方」のギャップは理論的考察において初めて理解される事柄である。
 仏教以外のインド哲学の体系は、前の生から次の生へと連続する常住の自我を設定している。彼らは、常住で、単一で、かつ独立した自我を設定する。これがアートマンとよばれる。仏教の学説では、無常な心や体の集まりの中かから「何か」を「私」ないし「自我」として設定している。馬車はその部分に依拠して仮設定されたものでその部分の中には馬車というものの実体が見いだせないように、人は、「心身を構成する五つの集まり」にもとづいて仮設定されたもので、これらの要素のなかに、人という実態はどこにも見出すことはできない、と仏教は説く。「私」にはじまってあらゆる事物は縁起の上に仮設されたものである。「空」ですら実体としては存在せず、仏陀の「悟り」も実体としては存在しない。
 煩悩の根は、ものごとを実体的に存在していると構想する「無知」である。無知を断ち切るには、無知の働きとはまったく逆の方法で対象を捉える「論理に基づく意識」を作り出さなければならない。正しい論理を通じて、無知の意識によって構想された対象は本当は存在していないと確信することが重要である。無知を根こそぎ断ち切るためには「空性を悟っている智慧」が要求される。論理理解レベルだけでなく、概念を介さない直接知覚による直感レベルまで高められねばならない。そのために瞑想の助けが必要になる。
 状況を改善するために何かができるならば心配する必要はなにもない。もし何もなすべきことがないならば心配しても無駄である(シャーンティデーヴァ)。
 仏教は、自らがもっとも執着しているものを捨てることを尊ぶ。ゆえに、臓器を提供するという行為は、他人を救おうという純粋な動機から行った行為であるだろうから、解脱や仏陀の境地を得ることに寄与する要因である。
 みたいな話。


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