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3313シャンソン:2019/03/04(月) 17:20:45
 転載〜

「光の子として歩みなさい。」神の御言葉はわたしたちに今日、そのように呼びかけています。「光の子として歩みなさい。」
しかし、わたしたちは自分自身の姿を正直に見つめるとき、この自分のどこに光の子らしさがあるのかと思わされるのではないでしょうか。しばしば神に背を向けて歩み、人を傷つけたり、不誠実であったりするわけです。しかし御言葉は「光の子として歩みなさい」とそう告げているのです。光の子として立派に生きていく決断を求められているのでしょうか。更には光の子となるように何か努力精進することが求められているのでしょうか。けれども、わたしたちは光の子としてやっていこうと決意し、努力してもそれは長くは続かない者であることを思い知らされると思うのです。光の子として生きていきたいと願っても、なかなかそう上手くいかない。そこで、何とかして光の子になりたいと思うのではないでしょうか。
しかし今日、神の御言葉は、あなたに「光の子になりなさい」と言っているのではないのです。光の子として歩みなさいと神の御言葉は告げているのです。別の聖書では「光の子らしく歩みなさい。」と、そう訳されています。光の子として歩め、光の子らしく歩め。それは、あなたはすでに光の子とされているんだという、神の救いの約束に裏打ちされている御言葉です。光の子らくし歩め。なぜなら、あなたは光の子とされているのだからということが語られているのです。
では、どうしてわたしたちは既に光の子とされているのだと聖書は告げるのでしょうか。
わたしたちは知らず知らずのうちに信仰生活をやっていく中で光の子とされていたんだということでしょうか。それとも、これから教会でキリストを信じて歩んでいく中で、いつかわたしもキリストの光の子とされるということでしょうか。どちらも違います。罪人が自らの力で光となることができるというのでしょうか。

わたしたちはどんなに努力してもどんなに熱心になっても、自分の力で自分の救いを手に入れることはできません。暗闇の中に住むわたしたちは、光の中に入りたいとどんなに励んだとしても自分の力ではそれが適わないのです。暗闇と光との間には大きな断絶があって、それを容易に飛び越えていくことが出来ないのです。つまり、罪人である人間は自分の力で、自分の決意で、この闇から光へと入っていくことができない。光の子となることができないのです。
けれども、それでも神の御言葉は、あなたは「光の子」であると告げています。光の子として歩め。光の子らしく歩めと告げるのです。


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