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1006トキ:2015/09/29(火) 16:59:27

5825 :疑問 :2015/09/29(火) 14:29:18 ID:4q2kCbp2

天皇信仰 谷口雅春 (全文)(以下は『生長の家五十年史』324頁〜325頁 「天皇信仰」からの引用です。)谷口雅春先生は昭和十五年の『生命の教育』九月号の巻頭言に「天皇信仰」といふ生長の家の教義の根本である文章を発表された。これは宗教結社として届出された「教義の大要」を敷衍したものであった。なお、以下の文章を短く圧縮した文章が『天皇陛下を讃える』(日本教文社昭和52年刊)にも再掲されている。

《天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は、天皇より出でて天皇に帰るなり。天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの、天皇より流れ出て、天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと言ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。天皇は、天照大御神と一体なり。天照大御神は、天之御中主神と一体なり。斯くして、天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して再び天之御中主神に復帰するなり。

天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。全ての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、『無所有』を説くは、『この世は何も無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元より発現することを教へたるなり。すべての森羅万象、天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。『生命』が尊きは、天皇の大御いのちの流れであり、岐れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。愈々日本も政治新体制の曙は近づけり。一切の政党は解党せり。新たに党を結ばんがための解党にては意味を成さず、この事肝に銘ずべきなり。挙国一党なりとも、党のある限りは、『無我』に非ざるなり。大みごころあるのみなり。大みごころへの無我随順あるのみなり。若し新党を樹つるとも、新政体を建つるとも一点の『我』ありて、大みごころを晦ますとき、天皇の御徳を遮して、自分の都合をはかる無道の徒となり了るなり。

無道とは、道の無きことなり。道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮られてあらはれぬなり。大海原に海水は満ちたれども岩石の固まりたるところには海水は満ちをること能はざるが如きなり。『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、私の『宗教』などと言ふものあるべからざることなり。 すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの、太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。

生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と言ひて党を樹て、閥に籠りて、相争ふことが『忠』に非ることを知る故なり。特に『一宗一派に非ず』と言ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、宗教であることを許されしは、文部当局の賢明なる処置なり。文部当局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。宗教が正しくなりたるなり。すべての宗教は私のものにあらざるなり。すべてを、天皇に帰一し、天皇に奉還し奉る宗教なり。宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教も則も範も矩も規も法も、悉くスメラミコトより発するなり。宗教は宗派と言ふものに立ち籠りて、宗祖と言ふ一人の国民に過ぎざる人間を尊崇するは邪道なり。されば我は夙に喇叭に過ぎずと言ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。

    つづく


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